Ep.2 境界の向こう側
八月十六日。
約束の日は、蒸し暑い夏だった。
私は小さなバッグに二日分の着替えを詰め、電車に揺られていた。
窓の外には、いつもの夏の風景が流れていく。
なのに、自分だけがこの世界から切り離されていくような、妙な感覚があった。
到着ロビーで待っていると、背の高い男が二人、音もなく私の前に立った。
黒いスーツ。表情が整いすぎていて、まるで人形のようだった。
「羽瀬川様ですね。」
声は丁寧だったが、温度が感じられなかった。
私は小さく頷くしかできなかった。
心臓の音が、耳の奥でうるさく鳴っている。
彼らは私を、関係者以外立ち入り禁止の通路へ案内した。
振り返ったとき、空港のざわめきはもう遠く、別の世界の音のように聞こえた。
通されたのは、ラウンジの奥にある個室だった。
音がほとんどない。広いのに、息苦しさだけが濃く残る。
そこに、一人の客室乗務員が立っていた。
「お飲み物はいかがなさいますか。」
柔らかい声。でも、どこか均一で、感情が抜け落ちている気がした。
「……りんごジュースをお願いします。」
彼女は迷いなく動き、グラスを置いた。
淡い色が、透明なガラスの中で揺れている。
一口飲んだ瞬間、甘さはあるのに輪郭がぼやけているような違和感を覚えた。
――おかしい。
そう思った直後、意識がゆっくりと沈んでいった。
目を覚ますと、何も見えなかった。
顔に布の感触。アイマスク。
「羽瀬川様、そのままお付けください。」
同じ声だった。
「目的地に到着しましたら、お外しいただけます。」
私は手を止めた。
従うことに、疑問が浮かばなかった。
機体が何度も揺れ、持ち上げられるような感覚が続く。
時間の感覚はほとんどなかった。ただ、どこかへ運ばれていることだけがはっきりしていた。
やがて、強い振動。着陸。
「羽瀬川様、到着いたしました。
アイマスクをお外しください。」
ゆっくり外すと、光がわずかに刺さった。
窓の外は、小さな滑走路と、その向こうに広がる森だけ。
それ以外、何もない。
機体を降りると、空気が変わっていた。
湿っているのに、どこか乾いている。言葉にしにくい違和感。
一人の女性が立っていた。
深く頭を下げ、ネクタイに小さなトマトの刺繍がある。
「お待ちしておりました、羽瀬川様。」
その動きは、正確すぎるほどだった。
車に乗り込むと、森の中を進んだ。
やがて視界が開け、屋敷が現れた。
森の中に、まるで置かれたように佇んでいる。
車が止まり、女性が言った。
「ここから先は、お車では入れません。
お荷物はお部屋までお運びいたします。」
私は車を降りた。
足元の地面だけが、現実に近かった。
少し迷ってから、口を開いた。
「あの……ザ・テーブルって、何のイベントなんですか?」
女性は、何も答えなかった。
表情も視線も変わらない。
ただ、沈黙だけがその場に残った。
「……すみません。」
私はそれ以上、言葉を続けられなかった。
聞いてはいけない気がした。
一拍おいて、彼女は静かに言った。
「いってらっしゃいませ。」
その声は、最初と同じ調子だった。
私は振り返らず、屋敷へ続く道を歩き始めた。
両脇には赤い薔薇が隙間なく並び、風はないのに花だけがわずかに揺れていた。
靴音が、やけに響く。
やがて噴水が見えた。水は流れているのに、音がしない。
中心の丸い彫刻は、トマトの形をしている。色はないのに、なぜか赤く見えた。
屋敷が近づくにつれ、空気が変わった。
白い外壁は陽を受けているはずなのに、どこか鈍い光を帯びている。
玄関に近づくと、七人の人影があった。
距離が縮まる。
空気が、急に重くなった。
――ふと、視線を感じた。
次の瞬間、
七人が同時に、こちらを見た。
その視線は、揃いすぎていた。
ほんの一瞬、時間が止まったように感じた。
私は、思わず息を飲んだ。
ここに来て、初めて――
本当の意味で「選ばれた」ことを、肌で感じた。




