Ep.17 共犯
床は、冷たい。
それ以外に、何も感じなかった。
二つの選択肢が、頭の中で繰り返される。
肥料になるか。
後継者になるか。
どちらを選んでも——この狂った理を受け入れることだ。
どちらを選んでも——私は、この場所の一部になる。
「……どうして……」
声が出た。掠れて、震えて。
「どうして、私が……」
答えは、返ってこない。
緋雨は、ただ立っている。
微笑んだまま。
待っている。
私の答えを。
決めなければならない。
でも——決められない。
胸の奥で、いろんな声がぶつかり合っていた。
今まだ、死にたくない。
大学に行って、友達とカフェでくだらない話をして、笑って、
誰かを好きになって、普通に結婚して、普通に老いて、普通に死にたい。
母と一緒にいたかった。
有馬が「普通にしてろ」と言った声が、まだ耳に残っている。
二十人の兄弟たち。
名札の名前。肥料になった子供たち。
彼らを、この狂ったサイクルから救いたい。
でも、どうやって?
私は、ただの二十歳の女の子なのに。
「……時間は、あるのか」
聞いていた。
緋雨は、わずかに首を傾げる。
「ある。だが——
無駄にはするな。」
その言葉が、重くのしかかる。
私は、床を見つめた。
冷たい床。
有馬の——いや、二十人の——血も混じっているかもしれない床。
この場所は、ずっとこうだった。
母が逃げる前から。
有馬が来る前から。
二十人の子供たちが、ここで——消える前から。
この理は、ずっと続いていた。
私が生まれるずっと前から。
……じゃあ、私は、何を選べばいいのか。
受け入れるのか。
この理を。
この——狂った、神の理論を。
神の子を食べて神になる。
トマトに生まれ変わり、再び食べられる。
永遠のサイクル。
とにかく、狂っている。
……嫌だ。
嫌だ。
でも——
嫌だと言った者は、みんな消えた。
母も。有馬も。二十人の子供たちも。
消えた。この場所に——飲まれて。
「……っ」
拳を握る。震えている。止まらない。
今まだ、死にたくない。
普通に生きたい、という願いが、胸の奥で叫んでいる。
でも、もう普通には戻れない。
知ってしまった。
母が一番好きだった女性だったこと。
二十二人の子供のうち、二十人が肥料にされたこと。
生きているのは、私と見人だけだということ。
この事実を、知ってしまった以上——
私は、もう、知らないふりはできない。
……ならば。
その思考が、一瞬——私の中で、静かになった。
呼吸が、落ち着く。
震えが、嘘のように引いていく。
——受け止める。
このすべてを。
この理を。この狂いを。この——血の味を。
私が、受け止める。
それで——誰かを、救えるなら。
有馬を。
二十人の兄弟たちを。
母を。
……そして、私自身を。
この狂ったサイクルを、終わらせるために。
今まだ死にたくない。
だから、もっと意味のある死を。
「……決めた」
声は、小さかった。
けれど、確かに。
「私が——」
喉が、詰まる。
言ってはいけない。そう思う。でも——
「九代目になる」
その瞬間、緋雨の目が、わずかに細められた。
満足か。それとも——。
「……その代わり」
私は、緋雨を見上げる。
声が、少し震えていた。でも、目は逸らさない。
「私は、この理を暴く。
この場所を。この神の理論を。あなたの——すべてを。
外に出して、明らかにする。
二十二人の子供たちが、ただの肥料じゃなかったことを。
母が、あなたに一番好きだった女性じゃなかったことを。
全部……全部、全部終わらせる!」
緋雨は、しばらく黙っていた。
その微笑みは、消えていない。
けれど——何かが、違う。
「……そうか。」
それが、最後の言葉だった。
次の瞬間——彼が、動いた。
手が、何かを——ナイフを——握っている。
それが、私の喉元へ——。
「遅い」
声がした。
初めて聞く声。
低く、静かに。
——見人だった。
私のすぐ後ろ。
ずっと、そこにいたはずなのに——音もなく。
彼の手には、刀があった。
細く、長く。
赤い——刀。
それが、緋雨の首を——正確に——貫いていた。
緋雨の動きが、止まる。
ナイフが、床に落ちる。
音が、やけに大きい。
「……おい……」
緋雨の声は、掠れていた。
「見人……」
彼の目が見開かれる。
初めて見る表情——驚愕。
「お前……喋れたのか……」
見人は、答えない。
ただ、刀を——深く、押し込む。
赤が、床に落ちる。
緋雨の血だ。
それは、トマトの赤とは、決定的に違った。
「そろそろ、死んだほうがいい」
見人の声。
初めて聞く。
掠れている。使い慣れていない。でも、意志がちゃんとある。
「……なぜだ……」
緋雨が、問う。
「なぜ……お前が……」
見人は、答えなかった。
代わりに、刀を抜いた。
緋雨の身体が、崩れ落ちる。
音もなく。
冷たい床の上に。
その目は、開いたまま。
何かを——見ている。
何を、見ていたのか。
知らない。知りたくもない。
緋雨は、もう動かなかった。
私は、その場に座り込んだまま、見上げる。
見人は、刀を下ろした。
血が、刃先から滴る。
「……私も、殺すのか」
声が出た。震えている。
見人は、私を見た。
その目には、何もない。何もないはずなのに。
彼は、刀を置いた。
そして——手を、差し伸べた。
私の目の前に。
「……一緒に、この枷を背負いませんか」
その言葉が、ゆっくりと——私の中へ、落ちてきた。
手が、震える。
これが、何を意味するのか。
分かっていた。
受け入れることだ。この場所を。この理を。このすべてを。
けれど——一人じゃない。
それだけが、私のすべてだった。
私は、その手を——握った。
冷たい手だった。
けれど、温かかった。
そのとき、扉が開いた。
南だった。
彼女は、冷たい床を見た。緋雨を見た。そして——私たちを見た。
何も言わなかった。
ただ、静かに歩み寄る。
「……六代目に、養子として来ました」
それが、最初の言葉だった。
「ここで、たくさん——虐待をされて……」
淡々と。感情を、押し殺すように。
「それでも、逃げませんでした。逃げられませんでした。」
——私は、羽瀬川様を担当した」
顔を上げる。南の目は、潤んでいた。
「あんなに明るくて、正義感の強い人を——守れませんでした」
声が、震える。
「守れなかった自分が、すごく憎いです
だから——」
彼女は、初めて、私を見た。
真正面から。
「初めてあなたを見た時——泣きそうでした……」
その言葉が、私の胸に刺さる。
「……南さん」
彼女は、私の手を握る。
「一緒に、この屋敷を——終わらせていただけませんか」
その手は、温かかった。
私は、頷く。
まだ、覚悟はない。
まだ、怖い。
まだ、何も——決まっていない。
けれど——
「……お願いします」
「お願いします」
そう言っていた。
その瞬間、何かが——少しずつ、形になっていく。
覚悟ではない。
まだ、そんなものはない。
ただ——もう、一人じゃない。
それだけで、十分だった。




