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赤い晩餐を口にした  作者: 宮山悠


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Ep.16 神の理論

世界が、止まった。


音が消えた。


何もかもが遠くなり、息を吸うことさえ億劫になる。


視界の端がぼやけ、緋雨の顔だけが、妙に鮮明に浮かび上がっていた。


「……違う」


声が出た。


自分のものとは思えないほど掠れて、震えて、小さかった。


それでも、確かに。


「違います……そんなの、ありえない……」


私は、ただの大学生だ。


二十歳の、ごく普通の女の子。


トマトが嫌いな母の娘で、給食でしか赤いものを食べたことがなくて、友達とカフェでくだらない話をして笑っ

て、将来は普通に就職して、普通に恋をして、普通に結婚して、普通に死にたいと思っていた。


それなのに。


緋雨は、微笑んだままだった。


その微笑みが、昨日まで見ていた「穏やかなオーナー」の顔とは、決定的に違っていた。


目が、笑っていない。


いや、笑っているのに、底が冷たい。


人間の感情というものが、完全に抜け落ちたような、機械的で、神がかった笑み。


「ありえないことなど、どこにもないよ、花奏。」


——名前、呼ばれた。


その響きだけで、胸の奥がぐちゃりと崩れた。


「お前の母も——そう言っていた。」


母。


その一言で、頭の中に色んな記憶が一気に溢れ返った。


「……母は……何を知っていたんですか」


私の声は、もうほとんど息だけだった。


緋雨は、ゆっくりと目を細めた。


「彼女は特別だった。

私がこれまで多くの女性に子供を産ませてきた中で……一番、好きだった。」


その言葉が、冷たく胸に刺さる。


「正義感が強くて、賢くて、美しかった。

この場所を嗅ぎ回り、そして——すべてを知ってしまった。」


一拍。


「知ってしまった。」


声が低くなる。


でも微笑みは崩れない。


「ここに来た。正そうとしてな。」


「……それで……?」


「遅かった。」


緋雨は静かに、まるで天気の話をしているように言った。


「彼女は、すでに“こちら側”に入っていた。


お前を産む前に、すでに私のものになっていた。」


吐き気が、喉の奥から一気にせり上がる。


私は思わず口元を押さえた。


胃が、ひっくり返りそうだった。


「違う……そんな……」


「違わない。」


即答だった。


冷たく、穏やかに、まるで事実を述べるだけの機械のように。


「私は、神の理論を継いでいる。」


緋雨の声は、淡々と、しかしどこか熱を帯びていた。


「神の子は、トマトに生まれ変わる。

私たちの子供たちは、肥料となってトマトになり、再び私たちに食べられることで、神の一部となる。

神の子を食べることで、私たちは神に近づく。

これが、この家の——私の、永遠のサイクルだ。」


その言葉が、頭の中で反響する。


神の子を食べる。


トマトに生まれ変わる。


肥料となって、再び食べられる。


狂っている。


とにかく、狂っている。


「二十二人の子供を作った。

見人、花奏お前、そしてキヨシを含めて二十二人。

そのうち二十人は、ようやく土へ還れた。

トマト畑の名札を見ただろう?

あれは墓だ。

順番だ。」


胸が、締め付けられる。


「今、生きているのは……二人だけ。」


緋雨は、静かに微笑んだ。


「見人と、お前だけだ。」


その事実が、重くのしかかる。


二十二人の子供。


そのほとんどが、肥料にされた。


そして母は、その中で「一番好きだった」女性だったという。


歪んだ愛情。


冷たい執着。


狂った神の理論。


緋雨の指が、私の髪を優しく撫でる。


「キヨシは、いい目をしていた。理解しようとする目だった。

だから、壊れた。綺麗に。」


私は、這うように後ずさった。


「ふざけないで……!

私は、ただの普通の人間なのに……!

大学で、友達とカフェに行って、くだらない話をして笑って、

普通に生きて、普通に死にたかっただけなのに……!」


涙が、止まらない。


母の顔。


給食のトマト。


有馬が「ラッキーですね」と照れ笑いした顔。


すべてが、ぐちゃぐちゃに混ざって、頭の中で暴れ回る。


緋雨は、立ち上がらず、そのまま私を見上げていた。


微笑みは、崩れない。


優しいままなのに、底が完全に抜け落ちた笑顔。


人間の感情というものが、一切残っていない。


別の人格。


別の何か。


神か、怪物か、それとも——もっと冷たい存在か。


「緋雨の子である以上、サイクルから逃れない。」


緋雨の声は、淡々としている。


「だから、選べ。」


その声が、部屋の空気を凍らせる。


「今、与えられた選択肢は二つだけだ。

神のためのトマトの肥料になるか——

私の後継者、九代目のオーナーになるか。」


世界が、急激に狭くなった。


息ができない。


どちらも、この狂った理を受け入れることだ。


普通の人間であることを、完全に捨てることだ。


「……どうして……」


声が、涙で詰まる。


「どうして、私が……こんなものを選ばなきゃいけないの……

どうして私なの……」


緋雨は、ただそこに立っていた。


微笑みながら。


それが、一番、嫌だった。


私は、普通の人間なのに。

この人は、もう、普通の人間じゃない。

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