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赤い晩餐を口にした  作者: 宮山悠


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Ep.15 報われる

有馬が、笑っていた。


「なあ!」


いつもの軽い調子だった。どこかふざけていて、明るい。


「美味かっただろ?」


何の話か、分からない。でも、分かってしまう。


「……何がですか?」


聞いた瞬間、有馬は笑った。


「あれだよ。」


口元に、赤がついている。指で拭って、そのまま舐めた。


「お前も食べただろ?」


喉の奥が、ひどく苦くなる。


「なあ。」


有馬の顔が、近づく。


「気づかなかった?」


その目が、笑っていなかった。



「っ……!」


息を詰めて、目が覚めた。


天井。静寂。朝だった。


心臓の音だけが、やけに大きい。


夢だ。ただの夢。そう言い聞かせる。


けれど——喉の奥に、あの苦みが残っている気がした。


私は起き上がり、ベルを鳴らした。


ほどなくして、ノック。


「失礼いたします。」


南が入ってくる。


「おはようございます。」


いつも通りの声。けれど——ほんのわずかに、何かが違う。


「おはようございます……」


「ご気分はいかがでございますか。」


一瞬、言葉に詰まる。


「……大丈夫です。」


嘘だった。


南は、それ以上は何も聞かなかった。ただ、静かに支度を始める。手つきは正確で、無駄がない。けれど今日は—

—ほんのわずかに、力が入っているように見えた。髪を整える指先。衣服を整える動き。どれも変わらないはずな

のに、どこか、急いでいるような。


「本日の朝食は、ダイニングルームでございます。」


「……分かりました。」


扉の前に立つ。


深く息を吸う。


そして、開けた。


光が、差し込んでいた。


初めてだった。あの厚いカーテンが開かれている。外の光が、室内に流れ込んでいる。


それなのに——明るいはずの空間は、なぜか冷たかった。


すでに、席には人がいた。


神代。鷲宮。久我。峯。そして、緋雨と見人はテーブルの前に立っていた。


有馬はいない。当たり前のはずなのに、それが、やけに強く意識された。


「おはよう。」


神代が、軽く手を上げる。ゆったりとした、支配的な余裕。


「おはようございます……」


席に着く。椅子の感触が、やけに現実的だった。


やがて、全員が揃う。


緋雨が、ゆっくりと口を開いた。


「皆様、おはようございます。」


穏やかな声。


「本日が、最後の朝食でございます。」


わずかな間。


「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。」


運ばれてくる料理。


和食だった。


白いご飯。湯気が立っている。


味噌汁。椀の中で、静かに揺れる。


焼き魚。その身の一部に、わずかな赤。


梅干し。小鉢。漬物。卵焼き。


整いすぎた配置。白と、赤。それだけで構成されているようだった。


「日本の農業は、今後どうなると思う?」


鷲宮が言う。軽い口調。だが、視線は鋭い。


「効率化は進むでしょうね。」


久我が答える。分析的。


「不要なものは切り捨てられる。」


「選別の時代か。」


神代が笑う。余裕たっぷりに。


「どの業界も同じだ。」


峯が静かに言う。好奇心を覗かせて。


「最適化される。」


「その過程で——」


梓が、箸で梅干しをつまむ。


「失われるものもあるけどね。」


怜が続ける。


「でも、それは“必要な損失”でしょう?」


軽い会話。どこにでもあるような。


けれど——昨日の言葉と、重なる。選ぶ。残す。切り捨てる。


「そういえば。」


神代が、ふとこちらを見る。


「初めてのザ・テーブルはどうだった?」


全員の視線が集まる。逃げ場がない。


「……貴重な体験でした。」


そう答えるしかなかった。


「すごいわね。」


梓が笑う。


「適応力があるのかしら。」


「それとも——」


怜が、わずかに首を傾げる。


「鈍いのかしら。」


小さな笑い。誰も否定しない。


「僕だったら無理だな。」


峯が言う。


「知っている肉は食べられない。」


その一言で、空気が変わった。わずかに。だが、確実に。


「……知っている、肉?」


自分の声が、少しだけ遅れて聞こえた。


誰もすぐには答えない。ただ——視線だけが、揃う。


神代が、ゆっくりと箸を置いた。


「昨日のディナー。」


穏やかな声。


「メインはどうだった?」


思い出す。柔らかさ。苦み。飲み込んだ感覚。


「……美味しかったです。」


嘘ではない。それが、余計に怖い。


神代は、満足そうに頷いた。


「そうか。」


一拍。


「それは良かった。」


そして——ほんのわずかに、口角を上げた。


「彼も、報われる。」


理解が、追いつかなかった。


「……え?」


誰も笑わない。誰も説明しない。ただ、静かに見ている。


その視線の意味が、ゆっくりと、形になる。


有馬。コイン。体調不良。不在。昨晩の肉。


「……あ……」


声にならない。喉が、閉じる。


「まさか……」


否定しようとする。違う。そんなはずない。あり得ない。あり得ないのに——


「やめて……」


誰に向けた言葉か分からない。


神代が、静かに言った。


「君は食べた。」


事実だけを。


「選ばれた者を。」


世界が、歪む。箸が、手から落ちた。音が、やけに大きく響く。


視界が、揺れる。誰も動かない。誰も助けない。ただ——見ている。


「いい反応だ。」


神代が、楽しそうに言う。


「やはり、新しい客はいい。」


鷲宮が笑う。冷たい軽さで。


「素直だ。」


久我が呟く。


「まだ“壊れていない”」


峯が観察するように見る。


「興味深い。」


双子が、同時に微笑む。


「可愛いわね。」


「ええ、とても。」


そのとき、気づいた。


全員が、最初から知っていた。


そして——私の反応を、待っていた。


私は、もう一度理解する。ゆっくりと。


逃げ場はない。


ここは、食卓ではない。


箸が落ちたままの手を、私は見つめていた。


誰かが、私の皿に料理を盛る。白いご飯。焼き魚。梅干し。整いすぎた配置。


食べなければならない。そう思う。でも、手が動かない。


「食べないのか?」


鷲宮の声。軽い。


私は、震える手で箸を取る。ご飯を一口、口に運ぶ。噛む。飲み込む。味が、しない。


梅干しをつまむ。口に入れる。酸っぱい。それだけだった。


焼き魚。身をほぐす。白い。脂がのっている。口に入れる。噛む。飲み込む。


——何も感じない。


味蕾は反応しているはずなのに、脳が拒否している。それがはっきりと分かった。


「美味しいですか?」


神代が聞く。


私は頷く。


「……はい。」


嘘だった。でも、それ以外の答え方を知らなかった。


「そうか。」


神代は満足そうに微笑む。


「それならいい。」


会話が再開される。農業の話。経済の話。どこにでもある朝食の会話。


私は、黙って食べ続けた。味がしない料理を、機械的に口に運ぶ。


箸を持つ手が、少し震えていた。


やがて、椀が空になる。皿が下げられる。茶碗が置かれる。湯気が立つ。


誰も急がない。自然な流れで、食事が進んでいく。


そして——


「そろそろ、お開きにしようか。」


久我が、静かに言った。


誰も異論を唱えない。


全員が箸を置く。


「ごちそうさまでした。」


誰かが言う。それに続いて、次々と声が上がる。


「ごちそうさま。」


「ごちそうさまでした。」


私は、最後に言った。


「……ごちそうさまでした。」


声が、掠れていた。


誰かが立ち上がる。それに続くように、全員が席を立つ。


「また来年。」


鷲宮が軽く手を上げる。


「またね。」


梓が微笑む。


「ええ。」


怜が頷く。


久我は、緋雨の前で立ち止まった。


「……申し訳ないよ。」


その声には、ほんのわずかな——何かが含まれていた。


緋雨は、静かに首を振る。


「大丈夫です。いつか知るべき時が来ますので。」


その言葉の意味を、私は理解できなかった。


神代が、緋雨の隣に立つ。


「この子が最後の希望だとは思わなかったけどな。」


その視線が、私に向けられる。


緋雨は、少しだけ微笑んだ。


「そうなってしまいましたね。」


一拍。


「有馬キヨシを連れていただき、感謝します。」


神代は軽く肩をすくめる。


「全然、大したことしてないよ。また来年もよろしく頼む。」


そう言って、彼は出口へ向かう。


他の者たちも、それに続く。


ジェット機へと続く道を、彼らは何もなかったかのように車に乗っていく。


私は、その場から動けなかった。


立ち上がらなければ。そう思うのに、足が言うことを聞かない。


全員が去っていく。


振り返る者はいない。


気づけば、ダイニングルームには、私と——緋雨と、見人だけが残っていた。


やっと、立ち上がろうとした、そのときだった。


見人が、私の前に立った。


音もなく。


気配もなく。


ただ——そこにいた。


私は後ずさろうとする。けれど、彼の手が、私の肩を押さえる。


力は強くない。それなのに、動けなかった。


緋雨が、ゆっくりと近づく。


その顔は、これまでと何も変わらない。


「さて——」


彼は、私の目を見つめた。


「本当のことを知ってもらおうか。」


私の喉は、何も言葉を紡げなかった。


彼は、さらに一歩、近づく。


その口元が、わずかに動いた。


「——緋雨花奏。」


私の名前なのか?


「私の娘よ。」


緋雨は、微笑んでいた。


これまでのすべてが、その微笑みの中に収まっているように。


そして、その微笑みが私のすべてを、飲み込んでいった。

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