Ep.11 本番
違う。
あれは——違う。
私は、何度も頭の中で繰り返していた。
見間違い。あの靴は、ただの似たような別のものだ。
聞き間違い。あの声は、誰か別の人のものだ。
見人の目も、ただ近かっただけ——暗がりで、よく見えなかっただけ。
そう思おうとするたびに、ひとつずつ、否定が浮かんでくる。
うまくいかない。どこかで、もう分かっている。
でも——認めたくない。
足が止まる。
いつの間にか、私は一階の広場に戻っていた。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、空気は落ち着いている。赤はある。服にも、床にも、壁にも。けれど、それだけ
だった。人の気配が、“普通”に戻っている。
「……あれ?」
声がした。振り向く。鷲宮だった。さっきまでの鋭さは消えている。
「どこ行ってた?」
軽い調子。まるで、何もなかったかのように。
「……少し、上に。」
「ふーん。」
それ以上は聞かない。興味がないのか、聞く必要がないのか。分からない。
神代が、手についた赤をハンカチで拭きながら言う。ゆったりとした、余裕たっぷりの声。
「いい運動だったな。」
「ストレス発散には十分だ。」
久我が頷く。医者らしい冷静な分析口調。
「循環としては健全だ。」
「少しやりすぎたかもね。」
梓が笑う。その隣で、怜が静かに言う。
「でも、必要な工程よ。」
工程。
彼女は何の「工程」と言ったのだろう。この祭りの?それとも——別の何かの?
峯は服を見下ろしながら呟いた。研究者らしい好奇心を覗かせて。
「今年は反応が良かった。個体差が出るのは面白い。」
誰のことを言っているのか——考えたくなかった。けれど、無意識に、彼の視線が私を一瞬だけ掠めた気がした。
「ねえ。」
鷲宮がこちらを見る。冷たい軽さで。
「楽しかった?」
その目は、普通だった。本当に、ただの確認のような。
「……はい。」
気づけば、そう答えていた。口が、勝手に動いた。
「だよな。」
鷲宮は満足そうに笑う。
そこで、緋雨が軽く手を叩いた。
「さて、トマト祭りはそろそろお開きにしましょうか。」
その一言で、流れが決まる。誰も逆らわない。誰も疑わない。自然に、解散していく。——本当に、何もなかった
かのように。
南が、静かに近づいてきた。
「羽瀬川様、お部屋へご案内いたします。」
その声も、いつも通りだった。
視線を落とす。服が赤で汚れている。ところどころ、濃く。乾きかけた色。
けれど、私は気にしていない。まるで、それが当然であるかのように。
「……大丈夫ですか?」
思わず、口に出ていた。
南は、わずかに首を傾げる。
「何が、でございましょうか。」
「いえ……その、服が……」
南は自分の袖を見た。そして、微笑む。
「ええ、問題ございません。」
その言い方は、本当に問題がないときのものだった——いや、問題があっても、それが問題ではないと思っている
者のものだった。
それ以上、何も言えなかった。
廊下を歩く。足音が響く。さっきと同じはずなのに、何かが違う。何が違うのかは、分からない。
部屋の前で止まる。
「お風呂のご用意ができております。」
扉が開く。湯気が、ゆっくりと流れ出てくる。
「ごゆっくりお過ごしください。」
「……ありがとうございます。」
浴室に入る。服を脱ぐ。赤が、指先に残っている。水で流す。消える。簡単に。それが、少しだけ怖かった。
湯に身を沈める。温かい。はずなのに、どこか冷たい。骨の芯まで温まらない。
目を閉じる。思い出そうとする——さっきのこと。うまく思い出せない。断片だけが残る。笑い声。赤。視線。そ
して——靴。
目を開ける。息が浅い。考えないようにする。
湯から上がる。部屋に戻ると、南がいなかった。少しして、戻ってくる。着替えを持って。
「失礼いたします。」
何事もなかったかのように、いつもの手つきで動く。髪が解かれる。指が通る。絡まりが、ほどけていく。
「……あの。」
声をかける。
「はい。」
「ここって……毎年、こうなんですか?」
一瞬だけ、手が止まった気がした。けれど、すぐに動き出す。
「“こう”とは、どのような意味でございましょうか。」
聞き返される。逃げ道のない形で。
「……その、トマト祭りとか……」
言葉が続かない。
南は、静かに答える。
「はい。毎年、同じように行われております。」
迷いがない。揺れもない。
「皆様、楽しみにしていらっしゃいます。」
その言葉に、少しだけ寒気がした。楽しみに——?あの、従業員を盾にするような光景を?それとも、従業員自身
も?
「そう……なんですね。」
それ以上、聞けなかった。
クローゼットが開く。取り出されたのは、ドレス。赤。だが、先ほどのものとは違う。光を含んでいる。細かな粒
子が織り込まれているように、動くたびに、微かにきらめく。血ではなく、宝石に近い赤。
「本日の装いでございます。」
促されるまま、袖を通す。布が滑る。肌に沿う。軽いのに、どこか離れない。
鏡の前に立つ。そこにいるのは、やはり、自分ではない。見慣れた顔のはずなのに、何かが決定的に違う。何が、
とは言えない。ただ——昨日の自分より、ずっとこの場所に馴染んでいる。
「……綺麗ですね。」
思わず、そう言っていた。
南が、後ろで微笑む。
「ええ。とても。」
その声は、どこか確信めいていた。あなたはこうあるべきだ、と決められているような。
「本日の晩餐は、十七時よりでございます。」
時計を見る。針が、静かに進んでいる。
「ザ・テーブルの、本番でございます。」
本番。
その言葉だけが、やけに重く残った。今までのこれは——何だったのだろう。準備運動?予行演習?それとも——
選別?
気づけば、外は夕方に変わっていた。光が、赤く傾いている。
——また、始まる。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがわずかに沈んだ。抵抗するのをやめたわけではない。ただ——逃げ場がないこと
を、身体が理解しただけだった。
逃げる場所は、もうない。




