表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤い晩餐を口にした  作者: 宮山悠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/18

Ep.10 混ざる

最初は、ただの熱だった。


投げられ、弾け、潰れる。


赤が飛び、白を汚す。笑い声が上がる。


それだけのはずだった。


けれど——

「いい角度だ。」


神代が言った。


手にしたトマトを、軽く持ち上げる。指先で重さを確かめるように。


「熟れすぎず、固すぎず。」


その視線は、果実ではなく——どこか別のものを見ていた。


鷲宮が笑う。


「当てやすいな。」


短く言って、投げる。鈍い音。


当たったのは、従業員だった。白い服が弾ける。赤が、遅れて広がる。


「反応が遅い。」


神代が言う。その口調は、壊れた機械を評するときと同じだった。


「訓練が足りない。予算を削ったからか。」


「人材の質も落ちてるかもな。……交換時期か。」


鷲宮は軽く肩をすくめた。その言葉には、惜しむ気持ちも、躊躇も、何もなかった。


その会話は、あまりにも自然だった。


まるで、目の前のそれが人ではないかのように。いや——彼らにとっては、最初から人ではなかったのだ。


笑い声が重なる。誰も止めない。誰も疑わない。


そのときだった。


視線が、集まる。一斉に。


理由はなかった。けれど、確実に——私だった。


「……あ。」


誰かが、小さく言った。見つけた、という声だった。


次の瞬間。


飛んできた。一つ。二つ。三つ。


避ける。避ける。避ける。


けれど——四つ目が、間に合わない。


肩に当たる。弾ける。冷たいはずなのに、熱い。果汁ではなく、別の何かが皮膚に染み込んでいくような感覚。


「いいね。」


神代の声。どこから聞こえているのか、分からない。彼はそこにいる。なのに、声だけが別の場所から響いている

ようだった。


「反応がある。生きてる感じがする。」


「逃げるタイプか。」


鷲宮が笑う。その笑顔は、獲物を追い詰める猟師のそれだった。


「面白い。……どれだけ持つかな。」


次が来る。多い。多すぎる。


一つ一つが正確に、私の動きを読んでいる。


視界が赤で埋まる。息ができない。顔が——彼らの顔が、笑っている。なのに、目だけが笑っていない。私だけ

を、正確に、追っている。


これは遊びじゃない。


これは——狩りだ。


逃げる。


考える前に、体が動いた。階段を駆け上がる。


——上へ。もっと上へ。


三階に逃げ込んだとき、初めて足を止めた。


追ってくる気配は、ない。静かだ。静かすぎる。


さっきまでの熱狂が、遠い過去のことのように思える。


壁に手をつく。冷たい。


息が荒い。自分の呼吸が、やけに大きく聞こえる。


——は、は、は、


胸が痛い。心臓の音が、内側から叩いてくる。ドクン、ドクン、と。止まらない。


落ち着かないと。


ここなら、大丈夫。


そう思った、そのとき——


階段の下から、声がした。


「……三階か。」


神代の声だった。遠い。けれど、はっきりと聞こえる。


「上がったようだな。」


別の声。鷲宮。


「上がれば上がるほど、逃げ場はなくなるのに。」


笑い声。


誰かが階段を上がってくる。足音は一つじゃない。複数だ。


——下から、詰められている。


その認識が、全身を走る。


私は、廊下の奥へと後退る。


三階の廊下は長く、突き当たりに窓があった。外は見えない。夜だ。反射して、自分の顔だけが浮かんでいる。


背後には、もう何もない。


階段の方から、足音が近づく。


一つ、二つ、三つ——四人、いや——五、六。


全員だ。


神代。鷲宮。久我。ノア。怜。梓。


全員が、ゆっくりと姿を現した。


白い服は、もう赤に染まっている。笑っている。けれど、目だけは獲物を追い詰めた獣のそれだった。


「逃げ場、なくなったね。」


怜が言う。


「最初から、なかったんだけど。」


梓が続ける。


距離が縮まる。


私は、窓の前に追い詰められていた。逃げ場はない。下を見る。三階の高さ。飛べるはずがない。


「どうする?」


神代が言う。その声は、まるで実験の結果を待つ科学者のようだった。


「ここで終わるか——」


鷲宮が笑う。


「それとも、まだやるか。」


トマトを手に持ち上げて、軽く放り投げる。キャッチボールのように。遊びのように。けれど、その目は遊んでい

なかった。


私は——もう、逃げられない。


そう思った、そのときだった。


廊下の途中——彼らの背後に、一つの影が立っていた。


見人だった。


いつからそこにいたのか、分からない。音もなく、気配もなく、ただそこに立っている。


彼の手には、何もなかった。投げる気はない。けれど——見ている。


その目が、私を捉えている。


六人の背後から、じっと。


神代が、ちらりと背後を見た。


「……来てたのか。」


その声には、わずかな——畏れにも似たものが混じっていた。


六人の動きが、一瞬止まる。


その隙に、私は動いた。


横へ——別の廊下へ。走る。走る。走る。


下りる階段を見つける。飛び込むように駆け下りる。


二階。一階。


誰も追ってこない。


いや——追ってこないのではない。追う必要がないと思っている。そういう目だった。


私は、一階の廊下を走り抜け、最初にいた場所とは反対側の——誰もいない場所へ、身を潜めた。


息ができない。


心臓が、壊れそうなほど打っている。


——今のは、何だったのか。


見人が現れたとき、あの六人の動きが止まった。彼らは、見人を——畏れている?それとも、別の何か?


分からない。


ただ、分かっているのは——


私は、三階から一階まで追い詰められた。上から下へ。逃げ場をなくすように、確実に。


そして、六人全員が、私を——狙っていた。あの瞬間までは。


「……うっ」


かすかな音。


喉の奥で潰れたような声。


一瞬、聞き間違いかと思った。


でも、確かに。すぐ近く。


視線を向ける。


廊下の先。一つの扉。わずかに——開いている。隙間。黒い線のように。


足が、勝手に動いた。近づく。音を立てないように。息を止める。


扉の前。隙間から、内側を見る。


最初に見えたのは、床だった。赤。無数の潰れたトマトが敷き詰められている。踏み荒らされた跡。何かがもがい

た痕跡。


その赤の中に——別の赤があった。濃い。暗い。乾きかけた、それでいてまだ湿っている。トマトの赤とは違う、

もっと重い、もっと——熱を帯びたことのない赤。


その中に——埋もれているものがある。白い。布——いや、違う。靴だ。スニーカー。片方だけ。ぐしゃりと沈み

込み、周りの赤に染まっている。


染まっている。けれど——染めているのは、トマトだけではない。


その赤は、ところどころ、色が違った。見覚えがあった。今日。あの廊下で。彼が履いていた。


有馬の——有馬キヨシの靴だ。


もう片方は、見当たらない。


彼は、ここにいた。そして——靴だけが残されている。


彼自身は、どこにもいない。


頭が、冷たくなる。息が止まる。


中を、もっと見ようとした、その瞬間——

扉が、開いた。


音はなかった。ただ、視界が切り替わるだけだった。


そこに立っていたのは——見人だった。


距離が近い。近すぎる。いつからそこに立っていたのか、分からない。最初からそこにいたように、自然に。

一歩も動けない。いや——動いてはいけない気がした。動けば、何かが終わる。


目が合う。


その目。何もない。感情も、意志も、まばたきさえも——ない。


けれど、その「無」の中に、すべてがある。私のすべてを、一瞬で読み取り、理解し、分類している。


逃げ場がない。


見られている。私の恐怖も、混乱も、有馬を探しに来たことも、今ここで彼と向き合っていることも——全部。


圧。


言葉にならない何かが、身体ごと押しつぶしてくる。息ができない。声が出ない。心臓が、音を立てているのが自

分でも分かる。


そして——分かってしまった。


有馬は、ここにいた。


彼は、この部屋に——

そして、今はいない。


いや——「いない」のではない。


「いなくなった」のだ。


この男によって。


あの床の赤——トマトだけではなかった。別の赤が、そこに混ざっていた。


六人に追われたこと。上から下へ追い詰められたこと。そのすべてが——この扉の前に導くためだったのか。


見人は、何も言わない。言う必要がない。彼がここに立っていること、私を見ていること、それだけで——すべて

を語っている。


その目がこう言う。

——あなたも、いつかは。


私は、その場から動けなかった。震えが、背筋を這い上がる。冷たいはずなのに、汗が止まらない。


見人は、それだけを見届けて——

ゆっくりと、扉を閉めた。


音は、しなかった。


私は、その場に立ち尽くしていた。どれだけの時間が経ったのか、分からない。


ただ——分かっていた。


有馬はもういない。そして、私は彼の代わりに——何かを「見て」しまった。


あの床の赤。二つの赤。混ざり合って、決して戻らない色になっていた。


六人に追われたのは、偶然ではなかった。私をここに導くための——獲物を追い詰めるための——計算された動き

だった。


そのことが、私を、もう二度と元には戻れなくする。


廊下は、静かだった。


赤い床。閉じた扉。私だけの呼吸の音。


戻らなければ。戻らなければいけない。


そう思うのに、足が動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ