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9.この世界にない曲

 夜の後宮は、昼より灯りが少ない。薄絹の帳《とばり》が垂れ、磨かれた床に淡い光が揺れていた。


 円卓の脇に据えられた古筝の前へ座ると、悠珀がわずかに目を見張った。

 前世で習った楽器だ。この世界の曲は知らなくても、指が覚えている曲ならある。


 何も言わず、弦に指を置いた。


 ――音が流れる。


 この世界にはない、自由を謳う旋律。何度も指へ刻んだ曲は、悠珀に似合うと思った。

 一音ごとに、部屋の空気が変わっていく。


 悠珀は息をするのも忘れたように、音を追っていた。


 その目が指から腕へ、肩へと滑り、首筋で一瞬止まる。芸を見る目が男の目に変わりかけて、慌てたように音へ戻った。

 ――見てはいけないと知っている目。

 線の細い体に見えて、袖口から覗く手首は骨が太い。芸を支えてきた男の体だった。


 弾き終えると、余韻が落ちるまでしばしの沈黙。

 その沈黙を、悠珀が破った。


「……こんな曲は聞いたことがありません。姫様がお作りになったのですか」


 柔らかな声が、わずかに掠れていた。


「そうね。誰も聞いたことがないなら、そういうことになるかしら」


 仕方なくそう答えておく。


「美しい……心を直接掴まれたような」


「気に入った?」


 悠珀は、はっきりと頷いた。


「……はい。いえ、それ以上です」


 悠珀は迷うように唇を結び、それから自分で半歩、古筝へ近づいた。


「――もう一度、聴かせていただけませんか」


 初めての能動だった。伏せがちだった目に、遠慮がちな欲が浮かんでいる。

 この男は、芸の前なら欲しいと言える。


「いいわ。一度だけ」


 二度目を弾き終えると、悠珀の指が無意識に運指を追っていた。


「弾けそう?」


「……はい。二度も聞かせていただいたので」


 二胡のケースの鈴が、ちりりと鳴る。

 同じ旋律が、今度は彼の楽器と呼吸で流れ始めた。音の運びは違っても、曲の骨は同じだった。


 弾いている悠珀は、別人だった。集中した瞳、引き結ばれた唇、迷いのない指。芸に向き合う時だけ、この男は自分の輪郭を持つ。


 弾き終え、息を吐いた途端に顔が柔らかくほどけた。その落差に、胸の奥がわずかに疼いた。


「……悪くないわ」


 本当はもっと褒めたかったけれど、この男は評価を重く受け取りすぎる。


 悠珀は二胡を下ろし、ふと我に返ったように目を伏せた。自分から求めたことに、今さら気づいたらしい。


「……申し訳ありません。差し出がましいことを」

「謝ることじゃないわ」


 そのとき、ようやく腑に落ちた。


 悠珀には家の後ろ盾がない。それでも宮廷に残れたのは、才能と容姿があったからだ。

 才能があり、容姿があり、後ろ盾がない。なら、これまで何を求められてきたのか。考えたくなくても分かる。


 唇を噛み、立ち上がった。

 悠珀の前まで歩み寄る。思っていたより背が高く、向き合うとわずかに見上げる形になった。


「さっきの提案よ。今夜はここにいて。外には夜伽に見えればいい」


「夜伽に……」


「その代わり、この曲をあなたに渡す。好きなだけ弾いていい。誰の許しも要らない」


 悠珀はその澄んだ瞳を大きく見開いた。


「一曲じゃない。他にもまだあるわ」


 悠珀はしばらく動かなかった。やがて肩が震え、ぽたりと床に雫が落ちる。自分が泣いたことにも気づいていない顔だった。


「……本当に、ですか」

「ええ」


 わたくしと、旋律の消えた空間を交互に見ている。受け取ろうとして、受け取り方が分からないらしい。


「……姫様は、どうしてそこまで」


 声が小さい。問いというより自分に向かって確かめているようだった。


「気に入ったのよ、あなたの音が」


 理由を並べれば、また取引に聞こえる。


「それだけ、ですか」

「それだけよ」


 悠珀の睫毛が震えた。疑っているのではない。信じ方を知らない顔だった。


「夜伽のふりをするだけで」

「そう。他には望まない」


 悠珀は深く頭を下げた。


「……でしたら、いくらでも。姫様のご指示に従います」


 媚びではない。歓喜は本物だった。


 けれど、「ご指示に従います」という言葉が引っかかった。


 この男は、断ることを知らない。芸術以外に自分を持たず、誰かに望まれた形へ曲がってきた。


 柳は風だけでなく、斧にも従う。

 味方にするなら、従わせるだけでは駄目だ。自分で斧を拒める人間にしなければ。


 掴むのではなく、悠珀自身を悠珀に返す。


 その時、顔を伏せたままの悠珀がぽつりと呟いた。


「……姫様は、僕のことは、欲しくないのでしょうか」


 伏せた睫毛の下に、思いがけなく、傷ついた色があった。

 差し出さなくていい安堵の奥で、求められない空虚に居場所をなくしている。

 ――面白いわ。


 一歩、近づいた。


「あなたは、わたくしを欲しい?」


 答えはない。


「抱きたい? それとも、抱かれたい?」


 悠珀の喉がゆっくりと動く。だが言葉はなかった。


「触れても、いいかしら?」


 悠珀はわたくしを見つめ、それから静かに頷いた。


 そっと頬に手を添える。悠珀は目を閉じかけて、ふと、わたくしの手に自分の手を重ねた。


 離さない。


 その小さな意思表示が、なんだか嬉しかった。


「安心したわ」


 ――これで分かったでしょう。あなたは空っぽではない。誰かに言われなくても、自分で欲しいものを選べるのよ。


 ゆっくり手を離した。


「でも、今夜はこれ以上しない。あなたが自分の口で欲しいと言える日まで、待つわ」


 悠珀の目が大きく開いた。


「悠珀」


 呼ぶと、彼は顔を上げた。今度は、ちゃんとこちらを見ていた。


「今日から、華音はあなたの味方です」


「姫様が、僕の味方に……」


 言葉を確かめるような声だった。

 わたくしは古筝の弦を、もう一度だけ軽く弾く。


「明日は、一緒に弾きましょうか」


 小さく言うと悠珀は嬉しそうに言った。


「はい」


 悠珀は、初めて笑った。切れ長の目が細まり、整った顔にあどけなさが浮かぶ。


 もらうことに慣れていない男が、今夜初めて、無防備に喜ぶ形を覚えた。そのぎこちなさが、この笑顔だった。


 灯りが落ちる。墨と木の匂いの中で、部屋は静かに夜の形へ変わっていった。

 

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