8.三人目の夫候補
理珂との夜から数日経った。理珂はさっそく薬草の書物を集め始めたらしい。
天才が本気を出したのだ。期待している。
颯真との「夜伽のふり」も続いている。筋肉痛は少しずつましになり、護衛として側に立つ颯真は、すっかり周囲から一番のお気に入りと思われていた。
その颯真を伴って外廷の執務へ向かう朝のことだった。
新宮を出て長い回廊を渡っていると、向こうから深い藍色の衣の男が歩いてきた。
若い男だった。黒い髪を無造作に束ねていて、供も連れずに一人で歩いている。回廊の幅は広く、すれ違うのに何の支障もない距離だったけれど、わたくしの足は一瞬だけ遅くなった。
目が合った。立太子の儀の日に広間の柱の陰に立っていた、あの青年だった。
兄の暁雲。
祝いの場で祝う顔をしていなかった人。
その目が今、まっすぐにわたくしを見て、それから静かに伏せられた。彼は歩みを緩めないまま軽く頭を下げて、わたくしの横を通り過ぎて行った。衣擦れの音がして、それきりだった。
振り返らなかった。振り返る理由が、わたくしの中にまだなかった。
血の繋がった兄なのに、華音の記憶の中にこの人との会話はほとんど残っていない。同じ宮の敷地に暮らしていてそれでこの距離。
少しだけ喉の奥に引っかかるものがあったけれど、今のわたくしには考えるべきことが多すぎた。その引っかかりは、そのまま朝の空気の中に置いてきた。
執務室に着く頃には、頭は今日の仕事に切り替わっていた。それでも一つだけ、朝のすれ違いが残していったものがある。
この宮で血の繋がりは、味方を意味しない。実の兄ですら、あの距離。
なら、味方は自分で増やすしかない。
味方は二人。悪くない立ち上がり。けれどまだ足りない。
村が焼かれるまでは、聖典どおりならまだ間がある。静岳には村の調査を頼み、理珂には避妊薬の研究を頼み、颯真は忠誠を誓ってくれた。それでも打てる手はまだ少ない。わたくしは扇をもてあそびながら考えていた。
残る夫候補は二人――悠珀と、怜鳳鳴。
怜鳳鳴は今じゃない。南方豪族の息子で、聖典では母とわたくしを処刑に追い込む側に立った男。運命を変えるために夫に選んだけれど、見るからに危険なにおいがする、おそらくはプレイボーイ。いずれ向き合う楽しみがあるにしても整わない手で挑む相手ではない。
ならば残るのは一人。悠珀。
宮廷の絵師で楽師、線が細く芸術一筋の男だという。
面談のときに見た姿を思い出すと、華やかな美しさと儚げな色気が両立して、繊細さを秘めた気配があった。
今度くらいは、癒やされたい。
颯真の筋トレは健康的で良いし、理珂の性教育は知的刺激に満ちていたけれど、どちらも「こちらから与える」夜だった。
受け取る夜が欲しい。
わたくしは音楽も絵も好き。次は悠珀にする。そう決めた。
数日後、そろそろまた誰かを呼ぶべきという圧を感じた日。わたくしは扇を閉じて言った。
「今夜は、悠珀を」
お世話係が一瞬だけ顔を上げる。
「楽器を持って来るように。何でもいいわ」
命じると、頷いてすぐに下がった。
その夜。戸が開き悠珀が入ってくる。
思わず視線が止まった。面談のときに見たとおり線の細い体躯、白い肌に柔らかそうな黒髪。立ち居振る舞いは上品だが艶があり、舞台に立つ人間特有の整った存在感がある。
スポットライトが似合う種類の男だ。
「姫様。お呼びと伺い、参上いた――」
「その口上、あなたで三人目なの。省いていいわ」
跪きかけた悠珀は一拍だけ止まり、それから目元をやわらかく緩めて、礼だけを美しく納めた。伏せたまつ毛が長い。
呼ばれた理由を分かっていないはずがないのに浮かれた様子はなく、かといって怯えもない。ただ静かにそこに、ある。
……順応が早い。面白いわ。
「わたくしが、華音です」
目が合う。逃げない、媚びない。予想よりも修羅場をくぐってきた雰囲気がある。ただの綺麗なお人形ではなさそうね。
「楽器を持って来るようにと言われたでしょう」
「はい。二胡を」
背負っていたケースを示す。薄緑色の柳の刺繍の入った布製で、趣味がいいわ。
持ち手には小さな銀の鈴がひと粒結んであって、ケースが動くたび、ちりりと澄んだ音を立てた。
「聞かせて」
命じると悠珀は一礼して静かに構えた。
二胡を抱え直した拍子に、墨と木の匂いがふわりと届く。香ではない。絵筆や楽器に囲まれて暮らす人の匂いだった。
弓が弦に触れ、音が流れる。弦を押さえる指が細く長い。
静かな音が、部屋を満たしていく。
……悪くない。技巧を誇るでもなく媚びるでもなく、ただ自分の音を出している。
そして何よりもその表情がいい。
二胡を弾き始めたら整った顔が柔らかく緩み、口元に微笑みを浮かべたのだ。
おそらくは無意識だろう、音楽が好きでたまらないのが伝わってくる。音もいいけれど、見ても癒される。
弾き終わってふっと力を抜いた顔もまた、綺麗だった。
「ありがとう」
そう告げると悠珀は小さく息を吐いた。評価を待っていたのだろう。それをあえて与えない。
「その鈴は?」
ケースの持ち手で揺れる銀の粒を扇で指すと、悠珀は少し意外そうな顔をした。
「三年ほど前に、花の絵のお礼と一緒に頂いたものです」
「ああ、あなたは絵師でもあったわね」
「はい。楽より先に、絵で宮に上がりました」
「どんな方からの依頼だったの」
「詳しくは存じません。号を、東鈴さまと仰いました。文にこの鈴がひと粒添えられていて」
ちりり、と鈴が鳴る。澄んだ、いい音。
でもさっきの悠珀の奏でた音のほうが豊かだったわ。
あらためて、目の前の男に集中を戻す。
悠珀は――柳のようだ、その刺繍のような。力で押しても押されるまま、風に靡くようでいて人には従わない。葉を揺らし、佇むだけ。
この男は、押しても駄目。夜伽を求めれば応じるでしょう。でも、それだけでは味方にはならない。
工夫が要る。
わたくしは、悠珀を見つめた。
「ねえ、悠珀」
声を落とす。
「あなたに、ひとつ提案があるのだけれど」
悠珀の眉がわずかに動いた。
「……提案、ですか。提案がお好きなのですね」
探るような視線。わたくしは微笑んだ。この人には、この人の落とし方がある。




