10.記録の外
悠珀との夜から二日ほど経った昼下がり、わたくしは理珂の居所へ向かった。
避妊薬は、わたくしの命綱だ。研究がどこまで進んだか、この目で見ておきたかった。教えられる範囲は教える、と約束した手前もある。
護衛は颯真。
廊下を歩きながら、今日は何を聞かれるのかしらと少しだけ身構えた。先日は「月のものの周期について、正確な記録はありますか」と真顔で聞かれて、戸口に控えていた颯真が長い咳をした。
颯真、あなたも勉強しなさい。
理珂の部屋は、書物の山が育っていた。文机の上、床の上、寝台の半分。几帳面な男らしく山のひとつひとつは崩れないように積まれていて、それがかえって山の数を際立たせている。生薬の乾いた匂いが部屋に薄く満ちていた。
「殿下」
理珂は書物から顔を上げて一礼した。目の下にうっすらと影がある。
「進んでいる?」
「仕組みの見当を三つまで絞りました。試すには材料が足りません。書き出しておきますので、手に入るものだけでも」
「わかったわ。無理はしないの。あなたが倒れたら元も子もない」
「倒れません。倒れる兆しは自分でわかります」
言い切る顔が真剣そのものだったので、そういうことにしておいた。案外こういうところが頑固なのよね。
帰り際だった。
院の戸口を出たところで、颯真が足を止めた。
「姫様。あれを」
中庭の敷石の上に、人がうずくまっていた。荷箱がそばに転がっている。
白髪まじりの宦官だった。荷箱より先に、人が潰れたらしい。見覚えのない顔。わたくしの宮の者ではない。
颯真が駆け寄って抱え起こし、日陰の縁台へ運んだ。追いついた理珂が、迷いのない手つきで男の手首を取る。脈。それから瞼の裏、舌、爪の色。理珂が身を屈めるたび、袖から乾いた薬草の匂いがふわりと立つ。順に検めていく指は、書物の頁をめくるときと同じ速さで動いた。
「長く溜まったものの相です。今日や昨日に呑んだ何かの仕業なら、こうはなりません」
「毒なの?」
「まだわかりません」
男が薄く目を開けた。焦点が合って、わたくしの顔の上で止まって、それから転げ落ちるように縁台を降りて平伏した。
「も、申し訳ございません、姫様の御前で、このような」
「いいから横になりなさい。倒れた者の詫びは倒れてから聞くものではないわ。……どこの者?」
「女帝陛下の後宮にて、掃除方を務めます者にございます。このたびの御立太子のお祝いの什器の、運び入れのお手伝いで、こちらの宮へあがりました」
立太子からこちら、母の後宮からは祝いの品だの什器だの目録だのが毎日のように届いている。その流れの末端にいる男らしかった。
理珂が問いを継いだ。
「このところ、体が重くはなかったですか。眠りが浅い。手足がだるい。息が上がりやすい」
男の目が泳いだ。ひとつずつ、小さく頷く。
「何か、続けてとっていたものは。呑むものでも、吸うものでも」
男の顔から、残っていた血の気が引いた。長い沈黙のあと、額を敷石に擦り付けるようにして声を絞り出した。
「……御用の煙管の、火皿の燃え残りにございます。捨てる分を、その、もったいなく存じまして。滋養に良いものと伺っておりましたので、詰め直して、つい、長く……」
盗みの白状だった。老いた声が震えている。御用の品に手をつけたとなれば、戒めは免れない。それを承知で言ったのは、この男なりの精一杯の正直さなのだろう。
「どの御用の煙管?」
わたくしが問うと、男は額を石に付けたまま動かなくなった。言えないのか、言わないのか。着ているものの襟が汗で色を変えていた。
理珂が立ち上がって、わたくしに向き直った。
「吸うものでも、呑むものと同じです。滋養の煙だけで、人はこうなりません。弱い毒の重なりか、薬の過量。どちらかです。どちらかまでは、いまの自分にはわかりません」
わからないことをわからないと言う。この男の診立てはそれで信じられる。吸って危険なものも――先日この人が言った言葉の、これが実物らしかった。
それから先は、わたくしの筋ではなかった。男は母の後宮の者で、手をつけた品も向こうの御用。そこは、わたくしの縄張りじゃない。
静岳を呼んで引き渡すと、男は運ばれていくあいだも途切れ途切れに詫び続けていた。荷を負い慣れた、老いた背中だった。
数日後、静岳が短い報告を持ってきた。
男は戒めのうえ、職に戻されたという。命に別状はない。飲むのをやめれば、これより重くはならないだろうと理珂も言っていた。
「ただ」
静岳は少しだけ間を置いた。
「当の煙管の筋は、記録では辿れませんでした。詰められていた薬は御典医の控えになく、支給の記録にもございません。どの御用のものか、男は最後まで申しませんでした。……それより先は、陛下の後宮の内にございます」
「そう。ご苦労さま」
静岳が下がって、わたくしは一人で扇を開いた。
この宮中では、薬草の一株も記録の外には動かない。理珂はそう聞かされて、薬草園の戸の外で待たされている。その同じ宮中に、どの記録にも載らない煙がひと筋、流れていて、末端の燃え残りを吸った老人が倒れるくらいには、長く、続いている。
誰の御用で、何のための煙なのか。
滋養を盗みたくなるほどくたびれた男の背中に、灯りの落ちたオフィスが一瞬だけ重なった。倒れるまで働いて。倒れてから謝る。
嫌になるほど、前世と同じね。
けれど、と息を吐く。
村の刻限が迫っている。いま追える糸と、追えない糸がある。これは追えない糸。わたくしはその引っかかりを頭の隅の棚に載せて、蓋をした。
蓋がきちんと閉まった音は、しなかった。




