11.四人目の夫候補
悠珀とは翌日、約束どおり古筝を弾いた。わたくしの曲を、二度聴いただけで二胡の音へ変えていく。音楽家の耳と指は恐ろしい。
その後も夜は共にしているけれど、夜伽はしていない。
いま、味方は三人。
颯真は忠誠、理珂は知性、悠珀は芸で繋がった。悪くない。
けれど、静岳に告げたふた月の猶予は、もう気前よく残っていなかった。
扇をもてあそびながら、窓の外の薄暮を眺めていた。庭の木々が輪郭だけになる、好きな時間。今は焦りも連れてくる。
戸の外で、護衛の颯真が低く咳払いした。
「姫様。静岳殿がお見えになりました」
「入ってもらって」
静岳が入り、深く礼をした。
「姫様。ご依頼の件、目星がつきましてございます」
扇を閉じる。
「話して」
「瑞華と烈央の名を手がかりに南方を当たらせました。麒鳳州との境、梁山の麓に、条件の合う小さな集落がございます。名を杏里村と」
杏里村。
聖典で「南方の小さな村」としか書かれなかった場所に、ようやく名前がついた。
「場所は」
「都から早馬で二日、通常の旅程ですと五日。麒鳳州との境ゆえ、南方豪族の土地を通ることになります」
「麒鳳州」
「はい」
それだけで足りた。
南方豪族・麒家。その三男が、怜鳳鳴だ。
「ありがとう、静岳。よくやってくれたわ」
静岳は一礼した。
「引き続き、村と道筋を調べさせます。……ただし」
目で続きを促す。
「この時期、姫様お一人で南方へ向かうのは不可能でございます。護衛と、土地に明るい者が要りましょう」
名は出さない。それでも、誰を指しているかは分かった。
「分かったわ。下がっていいわ」
静岳は再び礼をして音もなく退いた。戸が閉まる。
扇を開き、閉じる。
……考えるときの癖ね。
聖典の予定まではまだ間がある。けれど、この世界が頁どおりに待ってくれる保証はない。
村が焼かれる前に辿り着くには、外へ出る手段と、南方の地理が要る。
そして今、妊娠するわけにはいかない。懐妊が知れれば、南方どころか後宮からも出してもらえなくなる。
面倒ね。
しかもこの国では、子が生まれれば秘術で父親が分かる。皇統を守るにはよく出来た制度だけれど、こちらには迷惑な話だ。
避妊薬は、理珂を待つしかない。
面談で、怜鳳鳴はわたくしに媚びず、値踏みしていた。女慣れした、獲物を見る目。
プレイボーイは契約より、追いかけて落とす過程を楽しむ。颯真たちのように、差し出すものも見えない。
怜鳳鳴が欲しがるのは、おそらく手に入らないものだけ。
しかも聖典では、わたくしを処刑する側に回る男だ。
この男との関係だけは、曖昧なままにできない。
それでも呼ぶしかない。火に飛び込むような相手でも、南方の地理を持つのはこの男だ。
目的はひとつ。かわしながら興味を引き、「この女は面白い」と思わせる。次へ繋げればいい。
「老太太」
呼ぶと、控えていた老太太が進み出てきた。
「今夜、怜鳳鳴を」
老太太は一度だけわたくしを見て、深く頷いた。
「かしこまりました」
余計なことは言わず、下がっていく。
静岳も老太太も、必要のない言葉を足さない。だから信じられるのかもしれない。
この後宮で四人目の夫。いちばん厄介な男との、最初の夜。
――始まりね。
夜が更けた。
円卓には、湯気を立てる茶と二人分の杯。わたくしは閉じた扇を手に、怜鳳鳴を待った。
戸が開く。日向の革と馬の匂いが、ふっと部屋へ流れ込んだ。
「皇太姫殿下。お呼びと伺い、参上いたしました」
低く、底に甘さのある声。声だけで女の警戒を解きにくる。
戸口には、長身の男が立っていた。
跪く動作は滑らかで、隙がない。礼を取ることにも、見られることにも慣れた身のこなしだった。
「顔を上げて」
従う動作もまた滑らか。
そしてわたくしは彼の顔を正面から見た。
鋭い眉、深い瞳、通った鼻筋。黒髪の下の肌は少し日に焼け、頬骨と顎の線がはっきりしている。
理珂が磨いた刃なら、この男は削り出した岩。そして、色気がある。
余裕にも挑発にも見える口元をした、男くさい美形だった。
……困った。
好みだわ。
思ってしまってから扇を開いた。口元を隠す。今の顔は、見せない方がいい。
何よりも気になったのは、目だった。
優雅に微笑みながら、瞳だけはこちらを冷静に品定めしている。
やっぱり、手強いわね。
「怜鳳鳴。よく来てくれたわ」
「お召しにあずかり光栄です、殿下」
言葉遣いは完璧に礼儀正しい。けれど声に滲む甘さが礼節の裏にべつの意味を持たせている。
「座って。お茶を入れたの」
対面の椅子を示すと、怜鳳鳴の眉が一瞬だけ上がった。
夜伽に呼ばれたのに、寝台ではなく茶が待っていた。想定外らしい。
怜鳳鳴は微笑んだまま腰を下ろした。長い脚を折っても、背筋には崩れたところがない。
杯を受け取る指が長い。女を扱い慣れた手かしら、と少し可笑しくなった。
「恐れ入ります」
「あなた、南方の出身だったわね」
「はい。海と山に囲まれた土地です」
「都の暮らしは窮屈?」
怜鳳鳴の眉がわずかに動いた。
「――よくお分かりで」
わたくしは微笑んだ。
「あなた、この部屋が窮屈なのでしょう。さっきから壁と天井の距離を測っている。わたくしも同じだから分かるわ」
怜鳳鳴の目がわずかに開き、作り物の微笑みが一瞬消えた。
「殿下が、窮屈?」
「ええ。立太子の儀のあと執務室と後宮の往復ばかり。馬にも乗れないし遠出もできない」
「馬にお乗りになるのですか」
「乗りたいわ。乗れないだけで」
怜鳳鳴の笑みに、初めて本物が混じった。目尻の皺が、少し深くなる。
「意外です、殿下」
「何が?」
「もっと退屈なお方かと思っていました」
「見る目がないのね」
笑ってしまった。怜鳳鳴も笑った。作った笑みではなく少しだけ不意を突かれたような顔で。
この男は、会話でもこちらの反応を引き出しにくる。そして、わたくしもそれを楽しんでいた。
初めての、対等に遊べる相手。
「あなたはどう? 都の女は抱き飽きた?」
怜鳳鳴の目が一瞬光り、今度こそ本当に笑った。
「殿下は恐ろしいお方だ」
「答えになってないわ」
「……ええ。飽きました」
まっすぐな目で答えた。品定めの色が消えて少しだけ素に近い目になっている。
「だから南方に帰ろうと思っていた矢先に、この栄誉をいただきました」
栄誉、ね。
口元は「まったく予定外だった」と言っている。
「都の女で飽きたのならわたくしも似たようなものじゃない?」
「いいえ」
怜鳳鳴がわたくしの目をまっすぐ見た。甘い声の底に硬いものが混じる。
「正直に申し上げます。私は殿下をお噂通りのお方だと思っておりました」
「お噂通り?」
「ええ。おとなしく美しいだけの姫君と。四人も夫候補をお選びになったのは少々意外でしたが、それも周囲に勧められてのことだろうと」
まあ。ずいぶんな言いようだけれど、嘘ではない。
「今は違うの?」
「今夜、殿下の目を見てから、ずっと考えています」
声が少し低くなった。
「私が聞いていたお噂は、どこまでが本当なのかと」
心臓が一拍、強く打った。
お世辞ではない。予想と違ったわたくしの、皮の下を見ようとしている。
「あなたは危険な男ね」
わたくしは扇を少しだけ下ろして怜鳳鳴を見た。
「嬉しいわ」
怜鳳鳴の目が一瞬だけ揺れた。
想定外だったらしい。深い瞳の奥に、「この女は何者だ」という問いが浮かんだ。
ああ、本当に。
男くさい顔。油断した瞬間の表情。声も好みで、頭も切れる。危険。最高。
対等に向き合える男を、目で追いそうになる。
駄目。今夜はかわす夜よ。
「お茶、冷めてしまうわ」
怜鳳鳴は微かに笑い、杯に口をつけた。日に焼けた喉が動き、日向の革の匂いが近づく。
杯を置くと、静かに立ち上がった。
「殿下」
ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「お茶をご馳走になりました」
低く甘い声。
「――次は、こちらがお返しする番です」




