12.危険な男
怜鳳鳴の影がわたくしの足元まで伸びてくる。
「お返し、とは?」
扇を構えたまま見上げた。座ったままのわたくしと立ち上がった怜鳳鳴の間に高低差ができている。見上げる形になるのが少し癪だった。
「殿下は先ほどから私の話を引き出してばかりだ」
怜鳳鳴はゆっくりと円卓を回り込んできた。声は穏やかなまま。
「今度は私が殿下のお話を伺いたい」
わたくしの椅子のすぐ横に立ち、自然な動作で手を差し出した。
「円卓越しでは遠うございます」
手を取った。
取ってしまった、と気づいたのは立ち上がった後だった。
怜鳳鳴の手は温かくて大きくて、引く力が柔らかい。強引さは一切ないのに体がそのまま動いてしまう。椅子から立ち上がるまでの一連がまるで舞の所作のように滑らかで、わたくしの足が床について重心が移った時にはもう次の歩みが始まっていた。
手を引かれるまま二歩、三歩。円卓を離れて窓辺へ導かれていく。エスコートされている。わかっているのに足が止まらない。
――やられた。
窓の前で怜鳳鳴がゆっくりと足を止めた。手が離れる。わたくしを窓の左側に立たせて自分は右に並んだ。
「殿下は馬にも乗れない、遠出もできないと仰いました」
窓の外には夜の庭が広がっている。月明かりに照らされた木々の輪郭が暗い空を背に浮かんでいる。
「せめて夜の庭くらいはお見せしたいと思いまして」
なるほど、と思った。この男は遠出に飢えている。窮屈だという話に食いついてきた。南方の広い空が恋しいのだろう。
わたくしの頭の隅で別の思考が動いた。杏里村のことを考えると、使える飢えだった。
「窓越しの庭で満足できる人には見えないけれど」
「ええ。できません」
怜鳳鳴が微かに笑った。その横顔が暗い窓にぼんやりと映っている。
「だから余計に。今夜は殿下とこの景色を見ていたい」
並んで窓の外を眺めた。怜鳳鳴の体温が右側から伝わってくる。肩に触れるか触れないかの距離。円卓越しとはまるで違う近さだった。
噂通りのお方ではありませんでした、と先ほど怜鳳鳴は言った。おとなしく美しいだけの姫君だと思っていたと。宮中でそう思われているのは薄々気づいている。母である女帝の陰に隠れて目立たない存在だったし、面談の時は意識して大人しく振る舞った。
その猫の皮を、この男は剥がしにかかっている。
「あの星」
怜鳳鳴が窓の外を指差した。
「高い木の上の、あの明るい星。わかりますか」
「どの星?」
つられて顔を上げた。木の梢の向こうに星を探す。右目の端に怜鳳鳴の指先が見えて、その先の夜空を目が追って――
影がかぶさってきた。
怜鳳鳴の顔が横から覆いかぶさるように迫ってくる。星を指していた右手がいつの間にか下りていて、唇がわたくしの唇を塞ぎにかかっている。
考えるより先に右手が動いた。
開いた扇がわたくしと怜鳳鳴の唇の間に割り込んだ。紙一重。唇に触れたのは扇の面で彼の唇ではない。
怜鳳鳴の目が一瞬見開かれた。
「……殿下」
「まさかそんなありきたりな手でくるなんて」
扇越しに声だけで笑う。心臓は跳ねているけれど声は平気。
「油断したわ」
怜鳳鳴の目が細くなった。笑っているのか読めない表情。それから口角がゆっくり上がった。
「ありきたり、ですか」
「ええ。もっと凝った手で来ると思っていたのに」
扇の向こうで怜鳳鳴の右手が動いた。指先がわたくしの左頬に触れる。ゆっくりと。触れるか触れないかの圧で頬から耳の後ろへ、耳の後ろから首筋へ辿っていく。鳥肌が立った。肌が勝手に反応してしまう。
この男の指は知り尽くしている。女の体のどこに触れればどう反応するか。力の入れ方も速度も角度も全部わかった上でやっている。
扇越しに怜鳳鳴の右目が見えた。深い瞳がじっとわたくしを見ている。その目に気を取られた。
だから遅れた。
扇が二人の視界を遮っている。怜鳳鳴の左手はわたくしからは見えない。腰に温かい手のひらが触れた感触があってそれから帯の端が引かれた。
「――っ」
帯が抜かれる。するすると布が怜鳳鳴の手に滑り込んでいく。寝衣の襟元が緩み、思わず息を呑んだ。
暗い窓に映っている。怜鳳鳴の広い背中と、その向こうで慌てるわたくしの姿。
今だ。
左手で寝衣の前を押さえた。同時に右手の扇を怜鳳鳴の顔にばさりと被せた。紙の面が目を塞ぐ。首筋にあった右手の下を潜ってわたくしは左へ抜けた。
一歩。もう一歩。
怜鳳鳴が顔の扇を退けた時にはもうわたくしは手の届かない場所にいた。寝衣の前を左手で押さえて胸元を隠したまま乱れた息を整える。
怜鳳鳴がこちらを振り返った。
その目が、わたくしの緩んだ襟元に吸い寄せられる。
「桃の……」
怜鳳鳴の唇が動いた。低い声がかすれている。
「桃の花、桃の実の、ような」
思わず漏れた言葉だった。
あの計算高い男が、言葉を失っている。いや、失ってはいないけれど、ずいぶん怪しい。
――おっぱい星人だわ、この男。
「見えてるわよ、視線」
わたくしが声をかけると、怜鳳鳴は一拍遅れて目を上げた。
「……失礼を」
「いいえ。褒められたのだから」
寝衣を押さえたまま怜鳳鳴を見た。帯はあの手の中。取り返しに近づけば距離が縮まる。かといってこのまま寝衣を押さえて立っているわけにもいかない。
「帯を返して」
「これは」
怜鳳鳴は左手の帯にゆっくりと目を落としてからまたわたくしの目を見た。あの余裕のある微笑みが戻りかけているけれどまだどこか崩れている。
「お返しに参ります」
「だめよ。今返して」
「ではここまで取りにいらしてください」
挑発。帯を返す代わりにわたくしを近づけようとしている。この期に及んでまだ仕掛けてくる。
「……危うく」
怜鳳鳴の声が変わった。甘さが引いて静かな響きだけが残っている。
「本気を出すところでした」
目の奥にまだ熱が残っている。この男が本気を出していたらどうなっていたか。キスを許していたら帯の先まで考えが及ばなかっただろう。扇一枚の判断が全てを分けた。
「もう少しで落ちるところだったわ」
わたくしは左手で寝衣を押さえたまま口元だけで笑った。扇は怜鳳鳴に渡してしまったから隠すものがない。だから笑みがそのまま見える。
「本気なら落とせたのに」
くすりと笑って言い足した。
「残念」
怜鳳鳴の目が見開かれた。
それから低く短く笑った。さっきまでの甘い笑みでも作り物の微笑みでもない腹の底から出たような笑い。
「殿下は本当に――恐ろしいお方だ」
「さっきも聞いたわ、それ」
「先ほどとは意味が違います」
「怜鳳鳴」
わたくしは声を少し落とした。
「今夜はこのまま帰りなさい」
怜鳳鳴の表情が一瞬固まった。帯を持ったまま、わたくしの目をじっと見ている。何か言いかけて口を開き、それから閉じた。
これ以上この男をそばに置いておけない。頭ではそう判断している。体の方はまだ別のことを言っているけれど、今夜はここまで。
怜鳳鳴は帯を丁寧に畳んで円卓の上に置いた。それから姿勢を正して深く頭を下げる。
「今夜は退きます。――けれど殿下」
頭を上げた怜鳳鳴の目はもう品定めの色ではなかった。追いかける者の目。獲物を見定めた者の目。
「私は諦めの悪い男です」
それだけ言って背を向け戸口に向かった。長い脚がゆっくりと遠ざかっていく。戸が開いて閉まる。足音が廊下の奥に消えていく。
静けさが戻った。
わたくしは円卓に置かれた帯を取って締め直した。寝衣を整えて襟元を正す。手がわずかに震えている。
息を吐いた。長い長い息だった。
心臓がまだ速い。首筋に残る指の感触が消えない。あの声、あの目、あの手。全部が計算されていて全部が本物だった。
――キスしたかった。
正直にそう思った。扇を挟まなければ、あの唇に触れられた。自分から腕を回すことだってできた。
どちらも本気で惜しかった。
……危ない、危ない。何のために呼んだのか忘れるところだった。
けれど今夜の目的はそこではない。
かわしながら興味を引く。この女は面白いと思わせる。次の機会に繋げる。
目的は達成できたか。
『諦めの悪い男です』。あの目であの声でそう言わせた。上出来だ。怜鳳鳴はわたくしに興味を持った。噂と違う女、正体がわからない女、どうやら胸も好みだったらしい。次は向こうから来る。
ただ少し気がかりなのは、こんな早い時間に帰してしまったことだった。怜鳳鳴の顔が潰れていなければいいけれど。あれ以上あの危険物をそばに置いてはおけなかったから仕方ないとはいえ、少し悪いことをしたかもしれない。
でも、執着が上乗せになっているならそれでいい。
唇に扇の感触を思い出す。紙一枚の差でかわした。あんなありきたりな手に引っかかるなんて油断した。本気を出されていたらたぶんかわせなかった。
――次は、負けないわ。
でも「負けない」というのが何を指しているのかわたくし自身にもよくわからなかった。かわし切ることなのか、それとも。
……それとも、の先は考えないことにした。今はまだ。
そういえば、扇。あのまま、持って帰ったわね。
暗い窓にわたくしの姿だけが映っている。頬が紅い。目が輝いている。ひどい顔だけれど、色っぽいわ。




