13.男のプライド
怜鳳鳴を帰した翌日は何事もなく過ぎた。昼は悠珀と古筝を弾いて、夜は颯真が「夜伽のふり」と称して筋トレの指南に来た。腕立ての姿勢を直されながら、昨夜のことを考えないようにしていた。考えると首筋に指の感触が甦るから。
翌々日の朝。
老太太がわたくしの額の陽輝印を描いてくれている。鏡の前に座って、老太太の皺だらけの指が筆を走らせるのを感じながら目を閉じていた。
陽輝天に連なる者の証。この印があるからわたくしは皇太姫で、この印があるから処刑される未来がある。
筆先が額をするりと滑る。冷たい筆が肌に乗る感触は、何度経験しても少しくすぐったい。
「姫様」
老太太の手が止まった。
「怜鳳鳴様のお付きの者から申し入れがございました」
「何かしら」
「今夜、お伺いさせていただけないかと」
目を開けた。鏡の中の老太太と目が合う。
夫候補の方から会いたいと言ってくる。これは予想よりも早い。「諦めの悪い男です」と言い残して帰った男が二日で動いてきた。執着は確かに上乗せできたらしい。
「うまくいったわね」
つい口に出してしまった。鏡の中の老太太がわたくしを見ている。いつもの穏やかな目だけれどその奥に何かがある。
「姫様」
「なに?」
「殿方の自尊心をお舐めになってはなりません」
老太太の声は静かだった。責めているのではない。ただ事実を伝えている声。
「怜鳳鳴様がご自分からお伺いしたいと仰るのは、殿方としてはよほどのことでございます」
「わかっているわ。だから嬉しいのだけれど」
「姫様。おわかりではございません」
老太太の指がまた額の印を描き始めた。手は動かしながら声だけは静かに続ける。
「お付きの宦官たちの間で噂になっております」
嫌な予感がした。
「颯真様は一巡りに二度はお呼びになり、朝まで過ごされます。理珂様も悠珀様も同様に。けれど怜鳳鳴様だけが一度きり、しかもすぐにお帰しになった」
老太太はわたくしの目をまっすぐ見た。鏡越しに。
「宦官たちはこう申しております。怜鳳鳴様は殿下の不興を買ったのではないかと」
胸の奥がちくりとした。
考えが甘かった。あの夜、これ以上そばに置いておけないと思って帰したのは正しい判断だったと今でも思う。けれどその判断が周囲からどう見えるかまでは計算していなかった。
「怜鳳鳴様がご自分からお伺いしたいと仰ったのは、甘えではございません。あの方のお立場を考えれば、これはもう引き下がれないということでございます」
老太太の言葉が重い。
プレイボーイの怜鳳鳴。都の女を抱き飽きたと自分で言った男。その男だけが皇太姫の寝所からすぐに帰された。噂は怜鳳鳴の耳にも届いているだろう。初めて知ったはずだ。他の三人は何度も呼ばれて朝まで過ごしていることを。
自分だけがキスすら許されなかった。
怜鳳鳴がどう感じたか。興味を引けたと浮かれていたけれど、それだけではない。あの男のプライドに火がついている。おねだりではない。意地だ。
「……わかったわ。ありがとう、老太太」
「もうひとつ」
老太太は静かに続けた。
「怜鳳鳴様のお申し入れをそのままお受けになってはなりません」
「どうして」
「殿方から参りたいと仰ったのをそのまま受ければ、姫様がお呼びにならなかったのに向こうから来たという形になります。他の夫候補の手前もございます」
なるほど。鏡の中でわたくしは頷いた。
「わたくしから呼ぶ形にすればいいのね」
「さようでございます」
老太太は深く頷いた。余計なことは言わない。けれど今日は珍しく多く喋った。それだけ大事だということだろう。
「老太太。あなたはどう思う? 怜鳳鳴のこと」
老太太は少しだけ間を置いた。額の印を描き終えて筆を置きながら。
「あの方の目は、姫様をお諦めになる目ではございませんでした」
それだけ言って下がっていった。
鏡の中のわたくしの額で陽輝印がかすかに光っている。
怜鳳鳴に伝えさせた。今夜、わたくしの方から呼ぶと。向こうの申し入れには触れない形で。
夜が来た。
前回と同じ部屋。円卓に茶器を並べて待つ。聖典の刻限までは、まだ間があるはず。それでも急ぐ。予定というものが約束を守ってくれた例を、前世のわたくしは知らない。この男を味方にしなければならない。
戸が開く。革と土の匂い。
「皇太姫殿下。お召しにより、参上いたしました」
同じ低い声。同じ甘い響き。けれど二日前とは何かが違った。
顔を上げた怜鳳鳴の目が笑っていなかった。前回の品定めの目でもない。もっと真っ直ぐな熱い目。余裕の微笑みは口元に浮かんでいるけれど薄い。その下にあるものが透けて見えている。
ギラギラしている。獲物を追う獣の目。
この男は本気で来ている。今夜はかわさせないという意志がその立ち姿から伝わってくる。
「座って、怜鳳鳴。今夜もお茶を用意したわ」
怜鳳鳴は跪いて顔を上げた。前回と同じ所作のはずだけれどまるで別人。
「顔を上げて。座って」
円卓の椅子を示した。けれど怜鳳鳴は立ち上がっただけで椅子に向かわなかった。
「殿下。お返しに参りました。お約束どおり」
扇を卓に置く。
あのとき「お返しに参ります」と言ったのは帯のことだった。
でも帯は畳んで置いていき、扇を持ち帰った。それを今、約束だと言って置くのね。
「座らないの?」
「その前にお聞きしたいことがございます」
声が低い。前回のような甘い響きが削ぎ落とされて芯だけが残っている。
「私は殿下の夫候補ではないのですか」
まっすぐな問い。駆け引きの匂いがしない。
「もちろんそうよ。四人のうちの一人」
「ならばなぜ、私だけが朝まで過ごすことを許されないのですか」
怜鳳鳴の目がわたくしを射抜いている。
「颯真殿は何度もお召しになり、朝までお傍にいると聞いています。理珂殿も悠珀殿も同様に。けれど私は一度きり、しかもすぐにお帰しになった」
宦官の噂は怜鳳鳴の耳にも届いていた。老太太の言った通りだわ。
「私は他の三人に劣るのですか」
「劣らないわ」
即答した。嘘ではない。むしろ逆。
「では、なぜ」
「あなたはわたくしを抱かないで朝までいられないでしょう?」
怜鳳鳴が黙った。
長い沈黙。燭台の炎が揺れる音だけが部屋に満ちている。
「……いられません」
低い声で認めた。目を逸らさないまま。
「正直ね」
「殿下がそうお求めになるのなら」
わたくしは少しだけ笑った。この男の正直さが不思議と心地いい。
「今はまだ、抱かれるわけにはいかないの。理由は言えない。でもあなたが劣っているからではないわ」
怜鳳鳴の目が少し揺れた。信じたいけれど信じ切れない、という目。百戦錬磨の男が持て余している感情が見えた。
沈黙が落ちた。怜鳳鳴はまだ立ったまま、わたくしは椅子に座ったまま。さっきまでのギラギラした熱が静かに形を変えていく。
「……わかりました」
怜鳳鳴が低く言った。
「今夜は朝までここにいてもよろしいですか」
「手は出さないで」
「……善処します」
「善処じゃだめよ。約束して」
怜鳳鳴が低く笑った。さっきまでの張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。そして小さく息を吐いて、仕方がないという顔で言う。
「約束します」
円卓の向かいに座った怜鳳鳴にお茶を注いだ。今度は素直に受け取った。
二人で温かいお茶を飲みながら、他愛もない話をした。湯気の向こうで怜鳳鳴が笑う。お茶の香りがゆっくりとほどけていく。
南方の食べ物のこと、都の退屈さのこと、馬の話。怜鳳鳴の声が故郷の話をする時だけ少しだけ柔らかくなるのに気づいた。
この男にも帰りたい場所がある。
夜が更けて怜鳳鳴は円卓に腕を組んで眠った。わたくしは寝台に横になったけれどしばらく眠れなかった。
円卓の向こうから静かな寝息が聞こえる。
こんなに近くに男がいて、こんなに穏やかな気持ちでいられるのは初めてだった。颯真といる時の安心感とも理珂といる時の知的な高揚とも悠珀といる時の音楽のような共鳴とも違う。
何とも名前のつかない温かいもの。
――まずいわね。
そう思いながら目を閉じた。目を閉じてもまだ寝息が聞こえている。その音が不思議と子守唄のように心地よくて、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、目が覚めた時には怜鳳鳴はもういなかった。円卓の上に杯がひとつ、きちんと伏せて置いてあった。
あの男なりの礼儀ね。
杯を持ち上げる。陶器が小さく鳴った。
扇を手に取って開いた。日向の革の匂いがする。
頭を振って、考える。
村までは早馬で二日、常の道なら五日。焼かれる前に辿り着いて、焼かれる前に変える。その条件を満たせる人間は、この後宮にひとりしかいない。
昨夜、朝まで一緒にいてくれた男。
次に呼ぶ時には駆け引きを仕舞って、正面から頼むことになる。行きたい村がある、一緒に来てほしいと。
怜鳳鳴が受けてくれるかはわからない。けれどあの男の目を思い出す。「諦めの悪い男です」と言ったあの目。昨夜、朝まで手を出さずにいてくれたあの背中。
信じてみよう。
わたくしは扇を閉じた。




