14.村へ
その夜、怜鳳鳴を呼んだ。三度目の夜。
怜鳳鳴は円卓に座り、茶を一口飲んでこちらを見た。昨夜のぎらついた熱は引き、代わりに静かに測る目をしている。朝まで手を出さずに過ごしたことで、何か決めたらしい。
「今夜は殿下からお話があると」
扇をぱちりと閉じ、円卓へ置いた。骨が軽く鳴る。
駆け引きをやめる合図だった。
「怜鳳鳴。駆け引きなしで話すわ」
「承ります」
「行きたい村がある。杏里村。南方の、麒鳳州との境にある村」
怜鳳鳴の目がわずかに動いた。
「あの辺りは麒家の領地に近い。私の実家の」
「知っているわ。だからあなたに頼んでいる」
「なぜその村に」
「間に合わなければ、その村が焼かれる」
怜鳳鳴の目が鋭くなった。
「誰に」
「分からない。命じる者も、実行する者も。だから迂闊に外へは頼めないの」
わたくしは怜鳳鳴の目をまっすぐ見た。
「信じられるのは、静岳と老太太、三人の夫候補、それからあなた」
「三人の夫候補と、私」
数え方まで拾う。
やっぱり、面倒で面白い男だわ。
「他の三人にも、何かを頼んだのですか」
「ええ。颯真には忠誠、理珂には知性、悠珀には芸を借りたわ」
怜鳳鳴は少しの間黙っていた。それから口を開いた。
「それぞれの夜に」
わたくしは一瞬意味がわからなかった。
「夫候補を呼ぶ夜に取引をなさったのですね」
「ええ、そうよ」
怜鳳鳴の喉が小さく動いた。何かを飲み込むように。
「私には、南方の地理を」
「ええ。土地勘も護衛も要る。一緒に来て」
長い沈黙のあと、静かな目の奥に熱が灯った。
「……分かりました。参りましょう。ただ、条件がございます」
怜鳳鳴の声が少し低くなった。
「村から戻ったら」
一拍の間があった。
「あなたを、抱きたい」
甘さも飾りもない、ただの欲だった。
心臓が一拍、強く打つ。
「……今すぐには答えられない」
「なぜ」
「まだ整っていないことがあるの」
避妊薬も処刑回避も話せない。けれど、嘘はつきたくなかった。
「拒んでいるのではないわ。時期の問題よ」
「時期」
「条件が整ったら、わたくしがあなたを抱く」
怜鳳鳴が目を見開く。自分が選ぶつもりだったのでしょうけれど、残念。選ぶのはわたくし。
やがて、低く笑った。
「……殿下らしい」
「約束よ」
「承知しました。殿下のお言葉を信じます」
静かな声の奥に、消えていない熱があった。
「ありがとう。それで、杏里村までどのくらいかかる?」
「馬で二日。私の馬なら道を知っています。南方の山越えは地元の人間でなければ迷います」
「往復で四日。後宮から消える根回しが要るわね」
「うつる病を装いましょう。殿下が伏せ、見舞いに来た私にも感染したことにする。静岳殿と老太太殿にだけ真実を」
もう策略家の顔へ切り替わっている。
「宦官たちは?」
「殿下を見舞った私まで病に倒れた。格好の話題です。勝手に広めてくれます」
病の噂まで駒にする。
危険な男。頼んで正解だったわ。
「馬は一頭?」
「私の馬は二人を乗せても走れます。南方の馬は丈夫です」
「わたくし、馬に乗れないの」
「存じております」
怜鳳鳴の口角がわずかに上がった。昨夜とも最初の夜とも違う笑み。何かを楽しんでいるような。
「二日間、私の前へ乗っていただきます。手綱は私が」
「二日間、あなたの腕の中ということね」
目が合った。手は出さないと約束した男の目に、また熱が灯る。
「……手は出さないでね」
「善処します」
「善処じゃだめだって言ったでしょう」
「馬の上では少々難しいかと。揺れますので」
「それは手を出しているのではなくて?」
「馬の責任です」
真顔で言い切られ、声を上げて笑った。後宮へ来て初めてかもしれない。
「あなた、そういうことを言う人だったの」
「殿下の前では、つい」
怜鳳鳴も、力の抜けた本物の笑みを見せていた。
出立は二日後の夜明け前。荷は食料と水、寝具代わりの布だけ。馬と門の手配は、静岳に頼むことにした。
「殿下。もう一つお聞きしてもよろしいですか」
「何?」
「その村が焼かれるのをなぜ防ぎたいのですか」
戦略だけなら簡単だ。
村が焼かれなければ、瑞華と烈央が立ち上がる理由も、わたくしが処刑される未来も遠のく。
けれど、それだけではなかった。
「あの村に、人がいるから」
怜鳳鳴が少し目を見開く。
「家族も友も、暮らしもある。それが焼かれると知っていて、何もしないのは嫌なの」
怜鳳鳴は黙った。杯を見つめてから、ゆっくりと顔を上げた。
「……やはり殿下は恐ろしいお方だ」
「何度目? それ」
「何度でも申し上げます」
怜鳳鳴の声が静かに変わった。
「村を焼くな、ではなく、焼かれるのを防ぎたいと仰った。殿下は策略家だと思っておりました」
「策略家よ。それは間違っていないわ」
「策略家が、人の命のためにここまでなさいますか」
答えず、茶を一口飲んだ。怜鳳鳴も杯を傾ける。
沈黙は、もう駆け引きのものではなかった。
それから二日、静岳と老太太だけに真実を伝え、病の偽装を整えた。典医筋を握っているのは静岳だ。
華音の熱病が、見舞いに来た怜鳳鳴へうつったという噂は、宦官たちが喜んで広めてくれた。
颯真の見舞いは断られ、理珂からは書物が届き、悠珀は戸の外で一曲弾いた。
三人の気遣いが、嘘をついている胸に痛かった。
出立の前日の夜。
静岳がやってきた。
「姫様。急ぎご報告がございます」
いつもの落ち着いた声ではなかった。
「杏里村の件、新たに掴んだ情報がございます」
「話して」
「村を焼く命令がすでに出されておりました。実行は二日後」
息が止まった。
「二日後。明後日?」
「はい。姫様」
頭の中の暦が、音を立てて崩れた。
聖典では、まだひと月ほど先のはず。覚え違いか、もう物語が変わったのか。
考えるのは馬上でいい。今は出る準備よ。
「馬で二日。明日の夜明けに出れば、ぎりぎりでございます」
一日の余裕もない。
「なぜわかったの?」
「兵站の荷の動きから逆算しました。それに、南方へ走った早馬の数がおかしいのです。そこから」
極秘のはずの、痕跡のない命令でも物理的な準備は隠せないというわけね。
「静岳。誰がその命を下したの?」
聖典どおりなら母である女帝の命令だ。
静岳は端正な眉を歪めて言う。
「命を下されたのは、陛下であると聞き及んでおります」
やはり。ここでも聖典と同じようだ。
「ですが……」
静岳が言葉を切ったまま続けない。
「言いなさい。半分だけ言われるほうが困るわ」
静岳は一拍おいて、言葉を選びながら続けた。
「沙汰の通り方が、通例と違います。玉璽は確かに陛下のもの。けれど、兵を動かすために通るはずの文書に、痕がございません。兵が動く前には、支度に関わる官吏の口から、噂のひとつも漏れて参るもの。それも、ございませんでした」
玉璽。女帝の公印ね。
「命令は本物なのに、道筋がない」
「はい。意味するところは分かりかねます。ですが今は、刻限にございます」
玉璽は本物で、道筋がない。母が命じたのなら、なぜ隠す。
聖典が書かなかった余白。また、記録の外。
倒れた宦官の煙が頭をよぎったが、今は命令の出所より村が先だ。
「静岳。ありがとう」
「お気をつけて」
静岳は深く頭を下げ、珍しく少しだけ口元を緩めた。
「怜鳳鳴殿を、信じてよろしいのですね」
「ええ。信じるわ」
静岳は頷き、退いていった。
夜明け前。
厩は冷えきっていた。藁を踏む音と、馬の湿った鼻息だけが暗がりに響いている。
暗い厩で、怜鳳鳴が大きな黒に近い栗毛の支度をしていた。首を撫でる手つきが柔らかい。
道具ではなく、相棒なのね。
「静岳から聞いたわ。焼かれるのは明日」
怜鳳鳴の手が一瞬止まった。それからまた馬の首を撫でながら低い声で答えた。
「間に合わせます」
聖典での描写を思い出す。
「焼かれるのは、日が暮れて夜になってからだわ。間に合う?」
「この馬なら。南方の道は私が一番よく知っている。街道を使わず山を越えます」
怜鳳鳴が馬の鞍に手をかけて振り返った。
「殿下。失礼いたします」
両手が腰に触れ、次の瞬間には体が浮いた。革を軋ませる鞍へ座らされ、地面が急に遠くなる。
高い。
思わず、ごわつくたてがみを掴んだ。
怜鳳鳴が後ろへ跨がると、鞍が沈んだ。
背中には広い胸。左右から腕が伸び、日向の革と馬の匂い、衣越しの体温に包まれる。
近い。近すぎる。
二日間、この距離。
「殿下。しっかり掴まっていてください」
低い声が耳のすぐ横で聞こえた。
「手綱ではなく、私の腕を」
言われるまま腕を掴む。衣の下で、馬が進むたび硬い筋肉が動いた。
太い。硬い。頼もしい。
……状況が違えば、もう少し楽しめたのに。
馬が歩き出し、門をくぐる。冷たい風が頬を打ち、蹄の音が石畳へ高く響いた。
頭上には、屋根にも回廊にも切り取られていない空。
空って、こんなに大きかったのね。
怜鳳鳴が手綱を引く。馬は速度を上げ、明るみ始めた都を城門へ駆けた。
「怜鳳鳴」
「はい」
「間に合わせてね」
「昼には着く。遅くなっても日暮れ前には必ず。約束します」
怜鳳鳴が踵を入れると、馬が地面を蹴った。
身体が一度ふわりと浮き、次の瞬間には冷たい風が頬を打った。蹄の連打が夜明けの道に響く。
振り返ると、後宮の屋根が急速に小さくなっていた。あの下に、嘘をついたままの三人がいる。
前を向く。
詫びるのは帰ってから。今は、村に間に合わせる。
怜鳳鳴の腕の中で、わたくしは初めて都の外へ出た。




