15.馬上
都の城門を抜けた瞬間に空気が変わった。
後宮の重い香も、宮廷の冷えた石床も、都の人いきれも後ろへ流れていく。頬を切る風。馬の熱い体臭。朝露を含んだ草の匂い。
夜明けの空はまだ紫と橙が混じり、道の先はうっすら霞んでいた。
わたくしと怜鳳鳴を乗せて馬が駆けていく。
駆ける馬の動きを、自分の体の下で感じるのは初めてだった。
鞍が容赦なく尻を打ち、背骨まで揺さぶられる。内腿には勝手に力が入り、息が浅くなって、つい怜鳳鳴の腕を強く掴んだ。
優雅な遠乗り、とはいかないらしい。
「殿下。息を吐いてください」
すぐ後ろで低い声がした。
「息?」
「緊張しておられます。体が固いと馬に逆らって余計に疲れます。まず吐いて、それからゆっくり吸って」
言われるままに息を吐いて、固まっていた背中の力を抜くと、自然に怜鳳鳴の胸へ寄りかかる形になった。
背中に触れた胸板は硬く、馬が揺れるたびにわたくしの体を押し戻して支えた。
鍛えられているとは知っていたけれど、体重を預けてみると、見ているだけとはずいぶん違う。
「そうです」
満足そうな声がした。
しばらくすると馬の歩調と自分の体が馴染んできて、揺れが波のように思えてきて、不思議と酔わなかった。
都を出て半刻ほど走ったところで怜鳳鳴が馬を緩めて、道端の大岩の陰で一度止めた。
「降りていただきます。体を慣らしましょう」
馬から下ろされ、靴底が土に触れた。止まっているはずの地面がまだ上下しているようで、膝が震える。
怜鳳鳴が当然のように肘を支えてくれた。
「慣れない方は半日で立てなくなります。小刻みに休みます」
「焼かれるのは明日なのよ」
「急ぐために休むんです。殿下が倒れたら間に合いません」
迷いのない声だった。戦場を知っていて、急ぐべき時と休むべき時を体で覚えている男なのだ。
「……わかったわ。あなたに任せる」
「ありがたいお言葉で」
街道を避けて山道に入ると、道はいよいよ険しくなった。木々が頭上で枝を交わし、色づき始めた葉の間から日差しが斑に落ちている。木陰へ入るたび、汗ばんだ頬がひやりと冷えた。
細い道を進む馬の蹄が、湿った土を鈍く踏む。見えない梢から、鳥の鋭い声が響いた。
歩幅が緩んだことで、さっきまで張り詰めていた体から力が抜けていった。途端に腰の付け根がじんと痛み始めて、鞍にまたがる姿勢のまま同じ場所に体重がかかり続けていたのだと気づかされる。
「殿下。しばらく山道が続きますので、姿勢を変えても構いません」
怜鳳鳴の声が背中越しに聞こえた。
「変えても?」
「横向きで構いません。足を揃えて片側へ流してください。疲れを逃がせます。疾走するときには戻していただきますが」
両脚を鐙から外して片側に揃えて流し、体をわずかに怜鳳鳴の方へ開いて座り直すと、それだけで重心が変わって腰の痛みが引いていった。
代わりに怜鳳鳴との距離が変わった。
さっきまで背中で感じていた胸板が、今は頬の横にあった。顎を少し上げれば男の鎖骨の線が見えて、呼吸のたびに布地が微かに上下した。首筋からは微かに汗と馬と、それからこの男自身の匂いがする。
目を合わせまいとしてうつむくと、その拍子に体が自然と怜鳳鳴のほうへ寄っていって、片方の手がそっと彼の腰の後ろに回った。
掴むものが欲しくて、気づけばもう片方の手も同じように回していて、両腕で怜鳳鳴の腰を抱える形になっている。
頬が胸に触れ、布一枚を隔てた熱がじわりと移ってきた。息をするたび、胸元まで怜鳳鳴の体に触れる。
隙間が、ない。
ふと、顎を上げて見てしまった。こんなに近くからこの男の顔を見るのは初めてだった。
後宮の灯りの下で見た時は磨き上げられた夜の顔で、今は山の日差しを斜めに浴びた昼の顔だ。
頬骨の高さも顎の線の鮮明さも、日に焼けた肌の下で同じだけれど、無造作に乱れた前髪が額に落ちて、首筋には汗が一筋流れて、目尻には宮では気づかなかった薄い笑い皺がある。
最初の夜に見た、余裕の微笑みはない。前を見つめ、地形を読んでいる男の横顔だけがそこにあった。
野性味、という言葉が頭に浮かぶ。
後宮で磨き上げられた顔より、こちらのほうが好みかもしれない。
わたくしは慌てて目を伏せた。
怜鳳鳴の手綱さばきが一拍だけ乱れた。馬の歩調は変わらないままだった。
「……楽ですか」
頭の真上から低い声が降ってきた。
「楽だわ」
「それは……よかった」
しばらく黙って揺られていた。馬の蹄の音と葉擦れの音、そして怜鳳鳴の心臓の音が頬のすぐそこで聞こえていた。
ふと、頬に落ちる髪が一筋、視界の端で動いた。怜鳳鳴の指だった。手綱を片手に持ち替えて、乱れた髪をわたくしの耳の後ろへかけている。ゆっくりとした動作で、無骨な指が髪に触れる感触だけが妙に鮮明だった。
「……手、出してる」
「整えただけです」
「それでも」
「殿下の目に髪が入っておりました」
真顔で言うのが、顔は見えないけれど声でわかる。
わたくしは反論するのをやめて目を閉じた。頬の下で怜鳳鳴の呼吸がゆっくりと動いていて、緊張しているのか落ち着いているのかわからない呼吸の下で、心臓だけが少し速く打っていた。わたくしに合わせて速いのか、こちらが速いからそう聞こえるのかは判別がつかない。
村が先。男は後。
頭の中で、順番をつけ直す。
なのに、頬の下の心音ばかりが耳に残った。
昼を過ぎた頃、清流のそばで長めの休息を取った。
水は指が痺れるほど冷たく、持ってきた干飯は噛むたび口の中の水分を奪った。
怜鳳鳴は自分の分を半分ちぎり、わたくしに押しつけてくる。
「わたくしは足りているわ」
「もう一つ食べてください。夜まで、次の食事はありません」
言いながら自分は水で済ませようとするので、わたくしは残っている干飯の半分を割って男の口元に差し出した。
「食べて」
「殿下」
「お互い様よ。あなたが倒れてもわたくしは困る」
怜鳳鳴は一瞬ためらってから素直に口を開けた。指先に唇が触れた。温かく、柔らかく、意外なくらい静かな触れ方だった。
男に食べさせただけでしょう。なぜ、わたくしが動揺するの。
目を合わせずに水を飲んだ。歯にしみるほど冷たいはずなのに、妙にぬるく感じた。
日が落ちきらないうちに古い祠に辿り着いた。街道から外れた山中にある、半ば崩れかけた小さな廟だった。怜鳳鳴が「ここは以前から押さえてあります」と言う。街道を使わずに済ませるために知っていた休息地らしくて、この男の用意周到さに改めて感心した。
馬を繋いで水を与えて、祠の軒下に腰を下ろすと、怜鳳鳴が荒く織った布をわたくしの肩に掛けた。
「少しでもお休みください。明日の夜明け前に出ます」
「あなたは」
「馬の傍で番をします」
「それじゃあなたが休めないわ。一緒に休んでちょうだい」
言ってから自分の言葉に戸惑ったけれど、訂正する気は起きなかった。明日の道のりは全てこの男の判断にかかっていて、休ませなければならないのだから。
怜鳳鳴は長く黙った後で、ふっと息だけで笑った。
「殿下。私は朝まで手を出さないと約束しております」
「覚えているわ」
「背中合わせで寝ます。それでよろしいですか」
「構わないわ」
祠の奥に二人並んで壁へ背を預けると、肩甲骨が触れ合い、荒い布を二人で分ける形になった。布は肌に少しちくちくした。
外では沢が流れ、虫が鳴き、ときおり枝から落ちた雫が葉を打つ。床から這い上がる冷気に足先が冷えた。
こんな体勢で眠れるはずがないと思ったけれど、疲労のほうが勝った。
目を覚ますと、怜鳳鳴の肩にわたくしの頭が乗っていた。触れている頬だけが温かく、反対側は朝の冷気に冷えている。
自分から動いたのか、向こうが寄せたのかはわからない。怜鳳鳴は目を閉じたまま、静かに呼吸していた。
朝の光はまだ薄くて、横顔はほとんど影の中にあった。束ねていた髪がほどけかけて、後れ毛が頬にかかっている。顎のあたりに昨日の朝にはなかった髭の気配が浅く浮いていて、それが余計に、普段の余裕のある顔とは違う無防備さを見せていた。寝ている時までは作れないものなのだと、妙に納得してしまう。
わたくしが身を起こすと、怜鳳鳴はいつのまにか目を開けている。
「痛みますか」
「ええ」
「動けますか」
「動くわ」
二日目の馬上は一日目よりも辛く、腰も内腿も悲鳴を上げていた。
それでも山を下りるにつれて視界が開け、湿った木々の匂いが薄れていく。代わりに、乾いた土と日に焼けた草の匂いが風に混じり始めた。遠くには麒鳳州の赤い岩肌が見える。
「故郷の匂いがする」
怜鳳鳴が、小さく呟いた。
「もうすぐなの?」
「もう半刻」
山を抜けて街道に出ると、怜鳳鳴が手綱を引き締めた。
「殿下。姿勢を戻してください。疾走します」
両脚を鐙に戻して前を向くと、さっきまでの密着が嘘のように、また背中越しの体勢に戻った。
姿勢は戻った。けれど、頬に覚えた心音までは元に戻らない。
馬が速度を上げて、風がうなりを上げた。わたくしは手綱を握る怜鳳鳴の前腕にしがみついた。太くて筋の浮いた硬い腕が、わたくしを支えてこの馬を操り、これから焼かれる村へと急がせている。
「怜鳳鳴」
「はい」
「間に合わせて」
「約束しました」
馬の腹に踵が入って速度がもう一段上がる。わたくしは上体を前へ倒して怜鳳鳴の腕へ体重を預けた。
風が変わった。
風に焦げた匂いが混じっていて、木の燃えた匂いと土の焼けた匂いと、そしてもっと深い、言葉にしたくない匂いまでもが漂ってきていた。
馬が首を上げて、怜鳳鳴の腕がわたくしを抱え込むように前へ回ってくる。
「殿下」
声が低く引き絞られていた。
「この焦げ臭さは、これから私たちが向かう方角から運ばれてきています。あの先で、何かが大きく燃えている」
顔を上げると、丘の向こうから細い黒い煙が一筋、薄紫の夕空に立ち上っているのが見えた。
怜鳳鳴は約束どおり、日暮れ前に着いてくれたのに。
間に合わなかったのだと、頭より先に背骨が理解していた。
怜鳳鳴は何も言わずに馬を煙の方へ駆けさせた。わたくしは両手に力を込めた。
風はまだ焦げていた。




