16.杏里村
丘を越えた途端に視界が開けて、焼けた村が眼下に広がった。
畑と家屋の境目がわからないほど一帯が黒く沈んでいて、ところどころまだ細い煙が立ち上っている。
炎はすでに収まっていたけれど、燻った熱気が下方から押し上げられてきて、わたくしの頬を撫でる風に混じる。
土と木と、布と穀物と、そして生きていたものが焦げた匂いが、麓へ下るにつれて濃くなっていく。
空は西の縁だけが橙色に残っていて、あとは薄い灰色に沈みかけていた。日が落ちきるまで、あとわずかだった。
怜鳳鳴は村の入口で馬を止めて、先に降りた。両手でわたくしの腰を支えて地面に下ろしてくれる。
足がまだ痺れていてうまく立てないわたくしを、何も言わずに腕で支えたまま、彼は村の奥へ目を走らせている。
「殿下。しばらく私の後ろに」
「ええ」
返事は、自分でも驚くほど平坦だった。
怜鳳鳴を先頭に村へ踏み込んだ。足元で灰がかさりと鳴る。焼け落ちた家々には、黒い柱だけが立ち尽くしていた。屋根も壁も失い、残った梁が空を仰いでいる。
そこら中に焼けた壺の破片と、焦げた布切れと、炭になった農具が散らばっていた。
静かだった。
鳥の声もしない。犬も鳴かない。村というものが本来持っているはずの生活の音が、まるごと抜き取られていた。時折、熱で木が割れるぴしりという音だけが、遠くで乾いて響く。
道の真ん中まで進んだところで、怜鳳鳴が手を上げて足を止める。視線の先、崩れた納屋の隅に、ひとつの影があった。
老人が、うずくまるように座り込んでいた。
生きている。
煤で真っ黒になった顔に、目だけが白く光っている。両手で膝を抱えて、焼け跡の中ほどを見るともなく見ている。怜鳳鳴が近づくと、老人はのろのろと顔を上げた。
「……あんたら、どこの」
「都から来ました。怪我はありませんか」
怜鳳鳴の声は、いつもより一段低く、柔らかかった。怯えた者に届く声だった。老人はしばらく答えなかった。それから、ゆっくりと首を横に振った。
「……動ける者は、みんな出て行った。隣の村まで歩けるもんは、みんな歩いた」
「どちらの村へ」
「北の谷の向こうじゃ。あっちなら水もある、屋根もある」
「あなたは」
「わしは足が悪うてな。動ける者の邪魔になると言うて、ここに残らせてもろうた」
老人の口が震えた。それでも涙は出ていなかった。出すものが、もう残っていないようだった。
「火事はいつ」
「夜明け前じゃ。まだ真っ暗いうちに、煙で目が覚めた」
夜明け前。日が暮れてからどころか、そんなに早い時間に。
「原因は」
「わからん。わしは寝とった。這うて家を出たら、もう向こうの家も燃えとった。どこか一箇所から出た火じゃあない。あちこちから、ほぼ同時に」
怜鳳鳴の眉がわずかに動いた。
複数箇所へ、夜明け前に同時に火を放つ。事故であるはずがない。
「誰かが、火をつけた。それに違いない」
老人は絞り出すように言って、また黙った。燃え落ちた村を見渡す目に、怒りよりも先に疲労があった。
わたくしは一歩前に出る。
「ひとつ、聞いていいかしら」
老人が目を上げた。
「この村に、瑞華という娘と、烈央という若者がいたはずなの。知っている?」
老人の顔が、わずかに歪んだ。
「瑞華と烈央か」
「ええ」
「あの二人なら、家族をみんな失うた。家が真っ先に焼かれた口じゃった。父も母も、弟も妹もな」
頬の内側を噛んだ。鉄の味がした。
息を吐いて、もう一度吸う。
「二人は」
「二人で、どこかへ旅立って行った。焼け跡から親の骨を拾うて、布に包んで背負うて、それきりじゃ。わしには、『もう帰らんと思う』と言うて出て行った」
間に合わなかったのだ、と頭が理解した。
間に合っていたら、と頭が続けた。
間に合っていたら、何だった? 炎から家族を救えた? 火をつけに来た者たちを押しとどめられた? それができたと言える根拠がどこにある?
わたくしは馬にも乗れず、剣も兵も持っていない。ただ原作を聖典と呼び、読んだ記憶だけで先回りできるつもりになっていた。その日付さえ、正確には覚えていなかったのに。
間に合わなかった。
攻略本を読み込んで、先回りして、詰みの筋から逃げる。あの夜、寝台の端でそう決めた。頭のどこかで、これは盤上の遊びだった。
聖典は攻略本。日付は納期。人は駒。村は盤の上の升目。
けれどその升目には、焦げた梁が落ち、拾う骨があった。
ゲームは、ここで終わった。
怜鳳鳴が老人の前にしゃがみ込んで、水筒を差し出していた。
「これを。動けるようになったら、私たちが隣村までお連れします。今はまず水と、日陰へ」
「……すまんのう」
怜鳳鳴の所作に迷いはなかった。まず水。次に移動。それから情報。
わたくしが立ちすくむ間にも、彼は生きている者のために動いていた。
「怜鳳鳴」
「はい」
「わたくしは大丈夫よ。先に老人を」
自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
怜鳳鳴が振り返って、わたくしを見た。
その目がいつもと違った。
状況を把握する目ではない。わたくしを測る目でもない。ただ、こちらの顔の一点だけを見ていた。唇の端か、目の下か、どこを見ているのか、わたくしにはわからなかった。
けれど怜鳳鳴は、何か言いかけて、途中で言葉を止めた。慰めるために開きかけた口が、閉じられた。
怜鳳鳴は何も言わず、老人を背負うために身を屈めた。
老人を井戸端の日陰へ運んで、水を与えて、無事な馬小屋の脇に座らせた。
怜鳳鳴が何度か村の中を往復して、まだ使えそうな器に水を汲み、焼け残った衣類を探してきて老人に掛けた。
その間、わたくしは井戸端に立って、ただ村を見ていた。
平静でいるつもりだった。けれど、怜鳳鳴が戻ってきて老人に湯飲みを渡したあと、こちらへ歩いてきて、わたくしの前で足を止めた。
何も言わずに、わたくしの右手を取る。
強く握りしめていた拳が、そのとき初めて自分の意識に上った。爪が手のひらに食い込んでいて、怜鳳鳴が指を広げさせると、薄く血が滲んでいる。
怜鳳鳴は叱らなかった。溜息もつかなかった。
わたくしの拳を自分の手のひらに乗せて、もう片方の手で、指を一本ずつ、黙って開いていった。
親指、人差し指、中指、薬指、小指。ひとつひとつ、痛みを確かめるようにゆっくりと。
最後の指が開いたとき、彼は自分の袖を破って、わたくしの手のひらの血を拭った。
「……殿下」
低い声だったけれど、責める響きはなかった。
「握るなら、私の手を握ってください」
顔を上げられなかった。
ええ、とだけ答えて、差し出されたままの怜鳳鳴の手を、わたくしのほうから握り返した。
しばらくそうして立っていた。怜鳳鳴の手は温かくて、少し汗ばんでいて、指が節くれだっていた。馬の手綱を握り続けた手だと思った。硬い手のひらに触れているうちに、強張っていた指から力が抜けていった。
どれくらいそうしていたかわからない。先に動いたのは怜鳳鳴だった。
「殿下。もう一度、村を見て回ります。よろしいですか」
「わたくしも行くわ」
「では、離れずに」
村の外れまで歩いた。焼け残ったあぜ道を抜けて、裏手の緩やかな斜面に出たとき、わたくしたちは同時に足を止めた。
斜面の向こう一面に、花畑があった。
焼けていない。
端の一部だけが炎に舐められ、黒く枯れている。その先の花畑は、火事などなかったようにほとんど無傷だった。
百合に似た形の、けれど百合よりも少しだけ細くて、丈の高い花だった。花弁が空の色をしていた。薄い水色ではない。晴れた日の真上の空を、そのまま切り取ったような深い空色。秋の風が吹くと、花畑全体が淡く波打った。
こんな花は見たことがなかった。
怜鳳鳴もしばらく花畑を見つめていた。
けれど、その視線はすぐに花を離れ、隣に立つわたくしへ戻ってきた。
村が焼け、人が死に、瑞華と烈央が家族を失った土地で、空色の花だけが、何事もなかったように揺れていた。




