17.帰路
隣の村まで、怜鳳鳴が老人を馬の背に乗せて連れて行った。
わたくしと怜鳳鳴は馬の脇を歩いた。老人は鞍にしがみつくように乗って、小さな声で何度も礼を言っている。北の谷の向こうまで半刻もかからなかった。
隣村にはまだ灯りが点いていた。煤で顔を汚した人々が井戸水を運び、粥を炊き、怪我人の腕に布を巻いている。杏里村から逃げてきた者たちだった。
怜鳳鳴が村の長らしき男に老人を託し、事情を伝えた。長は深く頭を下げ、差し出された銭を押し戻した。
もう日はすっかり落ちていた。馬も一日走り通しで息があがっている。怜鳳鳴はしばらく馬の首を撫でてから、わたくしを振り返った。
「殿下。今夜は無理をなさらず、この村で泊めてもらいます。馬もこのまま夜に駆けさせれば潰れます」
「ええ。そうしてちょうだい」
長の家の裏にある物置のような小部屋を借り、藁の硬い寝床で一晩過ごした。怜鳳鳴は隣の馬小屋で馬と寝たらしい。
翌朝は夜が明ける前に起きて、蒸し餅と白湯をもらって、まだ薄暗いうちに馬を出した。都までは丸二日の道のり。
馬の上で、わたくしは前に座って怜鳳鳴の腕の内側に収まっていた。往きのときと同じ姿勢のはずだった。
けれど、何もかもが違っていた。背中の胸板も、わたくしを囲う腕も、往きにはただ近かった。今は、その近さに支えられている。
わたくしはひとりでも耐えられる、と思った。
焼け跡に一人で立ち、老人の話を聞き、瑞華と烈央が旅立ったと知らされても、崩れはしなかったはずだ。前世でも今でも、わたくしはそうやって立ってきた。
それでも、背中に押し当てられている胸の温度のおかげで、息が楽になっている。
息を吸い込むとき、もう肩が上がらない。往きの夜明け前に馬に乗った時のような硬さがなくて、呼吸が自然と深く落ちていく。それが怜鳳鳴という男の体温のせいだと、自分でもよくわかっている。
耐えられるのと、息が楽なのは、別の話なのだ。
道を半刻ほど進んだところで、怜鳳鳴が馬を緩めた。往きに一度下馬した大岩とは別の、小川が傍らを流れる草地に馬を止めて、先に降りる。
「殿下。少し休みます」
両手で腰を支えられて地面に降ろされた。足の裏に草の感触がある。馬から離れて、小川のほとりの平らな石に腰を下ろすと、腰と内腿の筋肉がじくじく痛んだ。怜鳳鳴は馬に水を飲ませて、鞍を少しだけ緩めて、それからわたくしの斜め向かいの石に座った。
しばらく沈黙があった。
わたくしは小川を見ていた。朝の光をまだ半分しか受けていない水面が、うっすらと銀色に光っている。小さな魚が一尾、石の影に走るのが見えた。
「殿下」
「何」
「空を見てください」
顔を上げた。まだ薄い明け方の空に、明けの明星が一つだけ残っている。
「明けの明星です。願い事は三回」
「……」
「叶うそうですよ」
怜鳳鳴が真顔でそう言う。
「わたくし、今そんな気分じゃないわ」
「そう仰らずに」
「あなた、本当に星に願い事をする人なの」
「しませんが」
「じゃあなぜ」
「なんとなく」
怜鳳鳴は真顔だった。
その顔で「なんとなく」と言い切れる面の皮。さすがだわ。
怜鳳鳴は立ち上がり、大きく伸びをした。肩を回しながら、唐突に「はっはっは」と笑い始める。
「あなた、どうしたの」
「いえ。笑っておこうかと」
「なぜ」
「腹の底に溜まった悪いものは、笑うと出て行くそうです」
「誰がそんなことを」
「南方の言い伝えです。たぶん」
「たぶん、って」
「多分です」
呆れより先に、苛立ちが立った。まだ髪にも衣にも焼け跡の匂いが残っているのに、何の冗談なの。
「ねえ、怜鳳鳴」
「はい」
「馬鹿じゃないの?」
本当に素で言った。怜鳳鳴は満足そうに頷く。
「ようやく普通の声が戻ってきました」
あ、と思った。
思った瞬間、怜鳳鳴が一歩こちらに踏み込んできて、両手でわたくしの口の端を左右から摘んで、そのまま外側へ引っ張った。
「ちょっ」
「笑え」
「いひゃい、いひゃいって」
「笑え」
目を丸くして抵抗したけれど、この男の力に敵うはずがない。両頬を横に引っ張られた間抜けな顔のまま、わたくしは動けなかった。口は勝手に笑顔の形にされている。
「俺が笑わせたいと言ったら、笑ってもらうぞ」
自分を俺と呼んでいる。
怜鳳鳴はわたくしの口の端を摘んだまま、自分の眉を跳ね上げ、目を寄せ、舌まで出した。百戦錬磨のプレイボーイが、文字通りの百面相だ。
それでも顔立ちだけは崩れきらない。
変な顔でも、顔がいい。ずるいわね。
そう思った瞬間、張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。
息が漏れる。
笑い声が、自分の喉の奥から、小さく、けれど確かに出てきた。
怜鳳鳴が口の端から手を離した。少しだけ満足そうな顔をしている。
笑っていた。
なのに、両目から勝手に涙がこぼれた。頬を伝い、顎から胸元へ落ちていく。笑った形のまま、口が震えた。
怜鳳鳴の目が見開かれた。
「……殿下」
「泣いてなんか、いないわ」
「泣いてます」
「笑っているの、あなたが笑わせたから」
「笑っていらっしゃる間に涙が出ています」
怜鳳鳴の両手が、今度はそっと頬に触れてきた。口を引っ張っていた指が涙を掬い、親指で拭う。触れられたところだけが熱かった。
わたくしはそのまま泣きながら、笑っていた。
濡れた頬を掌で押さえて、一度深く息を吐いてから、わたくしは顔を上げた。
「こういうとき、あなたは女を抱きしめて慰める人かと思ってたわ。普通はそうするんじゃないのかしら」
怜鳳鳴は少しだけ黙った。それから、静かに答える。
「……普通の女は、自分の拳で血を流したりしない」
言葉に詰まった。
「……普通の男は、皇太姫の口を引っ張らないわ」
「殿下。平にご寛恕のほど」
いきなり仰々しく頭を下げるふりをしてみせる。袖の中で両手を組んで、宮廷式の礼を真似るその芝居があんまり大仰で、今度こそ、わたくしは声を出して笑った。
笑った頬に、怜鳳鳴の唇が軽く触れた。
濡れた右頬に、風のような速さで一度だけ。
気づいたときには、怜鳳鳴はもう離れていた。
「痛かったよな」
低く、耳元で、そう呟いた声だけがあとに残った。
拳か、頬か、それとも村で見たものすべてか。
怜鳳鳴は、きっと分けていない。
油断も隙もない男だった。
わたくしは小さく笑った。
そこからの帰路は早かった。
翌日の昼過ぎには山を抜け、夕刻には都の城門が遠くに見えている。
消えていた数日は、宦官たちの噂が埋めてくれていた。皇太姫が熱病に伏し、怜鳳鳴にもうつったらしい。
衛兵の交代に紛れ、二人別々に新宮へ戻った。
自室に戻った途端、体から力が抜けた。
寝台の縁に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
老太太が静かに現れて、お茶を淹れて、そのあと静岳を呼びにやってくれた。静岳が来るまでのわずかな間、老太太はわたくしの前に膝をついて、皺の刻まれた指でわたくしの手のひらを取った。傷のある右手のほうだった。
何も言わずに、その傷だけを、じっと見ていた。
それから軟膏を持ってこさせて、何も尋ねずに塗ってくれる。
静岳が入ってきたとき、わたくしはもう声を整えていた。
静岳に向かって、老人から聞いた話を順に伝える。
村は夜明け前、複数箇所から同時に焼かれた。生き残った者は隣村へ逃げ、瑞華と烈央は家族を失って旅立った。行き先も、命じた者も、実行した者もわからない。
静岳は全てを聞き終えてから、一度だけ深く頭を下げた。
「お疲れさまでございました」
それだけ言って、しばらく黙っていた。
「……姫様。一つだけ、申し上げてもよろしゅうございますか」
「何」
「間に合わなかったことは、間に合わなかった、と受け止めていただくしかございません。ただ、この先もまだ、間に合わせられることは残っております。多く」
顔を上げた。
静岳は慰めているのではない。わたくしがこの先も動くことを、当然の前提として話している。
最初から見抜いていたのね。この人。
静岳の目は伏せられていたけれど、その睫の奥でこちらを測っているのがわかった。
ならば、いま言っておくことはひとつ。
「静岳。瑞華と烈央の行方を探してちょうだい」
「承知いたしました。南へ人をやります」
静岳が退いたあと、老太太が夜着を整えてくれた。
寝台に横になる前に、老太太が筆と朱を用意した。数日ぶりに陽輝印を描くため、わたくしの前に立った。
老太太の指先が、筆を持って、わたくしの額に近づいた。
冷たい朱が、額の真ん中に触れる。
筆先が、円を描き、その内側に太陽の光条を一本ずつ入れていく。毎朝見慣れた動き。
けれど今日、その筆が動くたびに、わたくしは一つずつ、間に合わなかったことを頭の中で数えていた。瑞華の父。母。弟妹。烈央の家族。名前も知らない村人たち。
死んだ人数すら知らない。それが、今のわたくしの無力だった。
老太太は何も言わなかった。
筆を動かし終えると、静かに一礼して、朱と筆を片付けていく。部屋を出る前、老太太は一度だけ振り返り、深く頭を下げた。
その礼が、静岳の言葉以上に重かった。
灯りを消して、寝台に横たわった。
額の朱がまだ、かすかに冷たい。
目を閉じる。焼けた梁。骨を包んだ布。「もう帰らん」と旅立った二人。
処刑を回避する。その目的は変わらない。けれど、もうそれだけでは足りない。
自分が助かるためだけには、動けない。
これはゲームなんかじゃない。
あの村のような場所を、二度と作らせない。
攻略本が現実に負けたのなら、現実の側で一手ずつ打ち直す。間に合わせられるすべてに、間に合いに行く。




