18.快気祝い(1)
朝、老太太が陽輝印を描いてくれていた。
冷たい筆先が額に円を描き、光条を一本ずつ足していく。
目を閉じていると、焼け跡の灰の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がしてくる。
いつまでも引きずっているわけにはいかない。次の手を考えよう。
聖典のなかでは、命令を下したのは母だった。今回も同じらしい。けれど、なぜ母が杏里村を焼かせたのか、その理由は聖典にも書かれていなかった。母の真意。瑞華と烈央の行方。調べる項目はいくらでもある。
けれど、その前に。
「老太太」
「はい」
「今日の午後、中庭の亭で小さな茶会を開きたいの。颯真と理珂と悠珀と怜鳳鳴を呼んでちょうだい。快気祝いということにして」
老太太は筆を止めずに、小さく頷いた。
「かしこまりました」
四人に会いたかった。焼け跡の匂いを、新宮の日常の音で追い出したかった。軍議も駆け引きもなしに、四人の声を聞く。
癒しというなら、今はそれが必要だった。
昼前に、新宮の外から見舞いの品が届いた。
皇配さまからだった。秋の果物をひと籠と、絹の膝掛け。添えられた厚い文には、整った、急がない文字が並んでいた。
――快癒の由、何よりに存じます。そなたは幼い頃、熱を出すたび梨の蜜煮ばかり欲しがられた。籠の底に、入れさせております。ご無理はなさいますな。困りごとの折は、いつでも、私に。
籠の底には、甘い蜜の匂いが染みた油紙の包みがあった。
覚えていてくださった。熱を出した幼いわたくしの枕元に、匙で蜜煮を運んでくれた大きな手。母は政務で来られなかった。来てくれたのは、いつもこの人だった。
あの家族の卓と、同じ結びだった。いつでも、私に。言葉どおりの人だ。文を畳んで文箱にしまうと、灰の匂いが、少しだけ遠のいた気がした。
午後、庭の亭に卓を出した。亭は東屋みたいなものね。
卓には茶器と点心、果物の鉢。湯気に茶の香りが混じる。
秋の終わりの日差しが、瓦を薄く光らせ、儀礼用の黄菊が並んでいた。蓮が葉を枯らしかけた池では、鯉が水面を叩いている。
最初に来たのは颯真だった。
「姫様! もう本当にお加減は大丈夫なんですか。顔色は。熱は。食欲は」
「大丈夫よ、颯真。顔色も熱も食欲も全部合格点」
「本当ですか」
「本当」
大きな体を折り曲げるようにして、わたくしの顔を下から覗き込んでくる。
本当に大型犬だわ。大きくて、元気で、忠実。しかも心配性。
頬が勝手に緩んだ。
次に入ってきたのは理珂で、腕に分厚い本を三冊抱えていた。
「殿下。ご本復おめでとうございます。これ、病み上がりの方に効くという処方を集めた書です。お読みください」
「三冊も?」
「同じ症状でも、流派によって処方が違います。比較した方が理解が深まります」
見舞いに学術書を三冊。
うん。理珂は今日も理珂だわ。安心した。
悠珀は、二胡を手に提げて現れた。秋の風に柳の枝が撫でられるような、そういう歩き方をする男だった。
「姫様」
それだけ言って、深く頭を下げた。顔を上げたとき、切れ長の目尻がわずかに濡れていた。
見なかったことにした。
最後に怜鳳鳴が来た。
「殿下。お招きいただき光栄です」
恭しく一礼した顔が、わたくしと目を合わせた瞬間にほんのわずか緩んだ。
一瞥だけで、焼け跡も帰路も思い出した。
次の瞬間には、怜鳳鳴は礼儀正しい顔へ戻っていた。
四人が揃い、茶器の触れ合う小さな音がした。
わたくしは卓の上座に座って、一口茶を飲んで、息を吐いた。呼吸が、楽だった。
そのまま、四人をゆっくり眺めた。
四人が揃うのは、最初の面談以来だった。わたくしとはそれぞれ夜を過ごしたけれど、男同士が向き合うのは、選ばれてから初めてだ。
茶の湯気の向こうで、四対の視線が静かに動き出していた。
最も目が動くのは颯真だった。理珂の本、悠珀の二胡、最後に怜鳳鳴を少し長く見る。
好奇心ではない。警戒だ。
飼い主の隣を狙う相手を見張る大型犬。わかりやすいわね。
怜鳳鳴のほうは、颯真の視線を受け止めて、一度だけ頷くように礼を返した。颯真も小さく会釈を返して、ただそれだけだった。けれど、ほんの短い間に何か男同士のやりとりが済んだのがわかった。
怜鳳鳴の目には、武人へ向ける静かな敬意があった。颯真の隙のなさを、一目で見抜いたらしい。
怜鳳鳴は優雅に茶を飲んでいた。けれど、わたくしと目が合う一瞬だけ、瞳の奥にあの夜の熱が戻る。
涼しい顔をして、一番ガルガルしているのはこの男かもしれない。
隠すのが上手い。
悠珀はそれとは対照的だった。
三人の男にほとんど関心を払っていない。ただ、理珂の横顔を時々眺めていた。熱ではない。観察だった。絵にする目。おそらく理珂の顔を、頭のなかで描き起こしている。やがて満足したように、二胡の弦へ指を触れた。
悠珀は時々、人を人ではなく、光と線として見る。
そして理珂は、誰も見ていなかった。
理珂の目に入っているのは、わたくしだけだった。
茶の飲み方、菓子を取る指、扇の動き。理珂はわたくしだけを順に観察している。
颯真が怜鳳鳴を警戒しているのも、悠珀が自分を眺めているのも、ほとんど気づいていない。
理珂の世界にあるのは、わたくしと本と理珂自身。あとは背景。
前世ならコミュ障。けれど、この集中力が天才を作っている。たぶん。
わたくしは扇を軽く動かして口元を隠した。
一人ずつでは見えなかった並びが、卓を囲んで初めて見えた。これが、わたくしの選んだ四人。美しさも、欲しいものも、寄り添い方も違う。
いい男を選ぶ目には、自信があるのよ。
呼吸が、また少し楽になった。
その平和が崩れたのは、茶が二杯目に入った頃だった。




