19.快気祝い(2)
回廊の向こうから足音が近づいてきて、老太太が静かに亭の脇へ寄ってきた。
「殿下。失礼ながら、景鶴鈴様がご挨拶をと申しておいでですが」
「……誰だっけ?」
「夫候補の選考に参られた方のお一人でございます。ご本復のお祝いを申し上げたいと」
老太太の声はまったく動じていなかった。つまり老太太の判断では、入れても問題ないということだった。
「わかったわ。通して」
まもなく、若い男が姿を現した。姿より先に、強くまとった香が届いた。
背は高い。薄緑の衣に銀の帯。鼻筋の通った、世間一般なら十分に美形と呼ばれる顔だ。
けれどわたくしの好みではなかった。
そそらない。
颯真の童顔と体のギャップも、理珂の削り出した刃のような美しさも、悠珀の柳のような儚さも、怜鳳鳴の野性味のある男くささも、この顔には一つも混じっていなかった。
いいえ、思い出した。
顔より先に自信のほうが歩いてきて、わたくしの目が次へ滑った男。
ないわね、と切った相手だ。
景鶴鈴は、わたくしに深く礼をした。そこまでは良かった。
「皇太姫殿下。ご本復のこと、心よりお慶び申し上げます」
「ありがとう」
「……ところで、殿下。失礼ながら一つ、かねてより申し上げたいと思っておりましたことがございます」
「何かしら」
「殿下がご選考なさった夫候補四名について、私は選に入っておりませんでした。しかしながら、率直に申し上げて、あの四名と私のどこに差があったのか、未だに解せぬところがございます」
颯真の眉が上がり、理珂が本から顔を上げ、悠珀は二胡を置いた。
怜鳳鳴だけが茶を飲み続けている。
一番怖いのは、その沈黙なのだけれど。
景鶴鈴が共通の敵になった瞬間、互いを測っていた四人の視線が同じ方向を向いた。
あら。初めての共同戦線ね。
わたくしは扇を開いた。
「あなたの目にはそう映ったのね」
「殿下の目がお疲れだったのかと。私は、この四名のいずれよりも、殿下にふさわしいと自負しております」
「それは頼もしい自負だこと」
景鶴鈴は頷いた。皮肉が通じていなかった。こういう男なのだ、と理解した。
わたくしは扇をゆっくりと閉じて、卓の上に置いた。
「では、試してみる?」
「と、仰いますと」
「あなたと四人の差を、その目で確かめるの。快気祝いの余興には、ちょうどいいわ」
「……望むところです」
さあ。
わたくしの男たちの値打ちを、順に見せてあげる。
一番手は、怜鳳鳴にした。
わたくしが扇を一振りしただけで、怜鳳鳴は席を立って、静かに中庭の奥の厩へ歩いて行った。しばらくして、愛馬・火鹿毛に跨がったまま中庭に戻ってきた。栗毛の馬は主の気配を受けて、耳を前に倒して、脚をわずかに浮かせている。
怜鳳鳴は景鶴鈴を一瞥して、それから馬の腹を軽く蹴った。
中庭を三周した。
ただそれだけだった。
けれど、その三周が、この男の馬術の全てを語っていた。狭い中庭のぎりぎりの半径で、速度を落とさずに旋回する。瓦塀に擦りそうなくらいまで馬体を傾けて、次の瞬間には完全に立て直す。馬の意志と怜鳳鳴の意志が、そもそも一つだった。
景鶴鈴が、無意識に一歩後ろへ下がっていた。
「……これほどとは」
怜鳳鳴は三周目で火鹿毛を止めてひらりと降りた。小袋から何かを取り出して火鹿毛に食べさせる。ご褒美だろう。何事もなかったように席に戻って茶を一口飲んだ。見せつけている意識すらないのが、この男の恐ろしいところだった。『南方の狼』と誰かが言っていたのを思い出した。
「火鹿毛にあげたご褒美はなに?」
「砂糖を丸めたものです。ことのほか好きで」
そういえば杏里村の往復でも与えていた。貴重な砂糖を惜しげもなく与えるほど大切な相棒なのだろう。
二番手は、悠珀。
悠珀は傍らの二胡のケースを引き寄せた。持ち手の銀の鈴が、ちりりと鳴った。景鶴鈴の目が、音につられて一度そちらへ動いた。
悠珀は黙って二胡を取り出して、弓を構えた。
最初の一音が鳴った瞬間、中庭の空気が変わった。
秋の終わりの日差しの中で、悠珀の弓が弦を撫で、細い音が柱を抜けて中庭へ広がった。
祝いの席には少し静かな曲だと思った。それでも、この場の棘を洗い流すには、この静けさがちょうどよかったのかもしれない。
聴いているうちに、体の奥にある澱のようなものが静かに溶けていく。焼け跡から持ち帰ったものが少しずつほどけていった。
中庭にいた宦官たちも、みな動きを止めていた。
景鶴鈴は、口を半開きにしたまま、二胡を見つめていた。目のふちがうっすらと湿っているのが、離れたわたくしの席からもわかった。
曲が終わった。
悠珀は弓を下ろしてそっと礼をした。それだけで、音は完全に空気の中に溶けて、中庭は元の静けさに戻っていた。
「……俺には、こんな才能はない」
景鶴鈴の声が小さく漏れた。
三番手は、颯真。
颯真は立ち上がると衣の袖を手早く括って中庭の中央へ出た。
「景鶴鈴殿。よろしければ、そこに立っていてください。動かないでくださいね」
「……立っていろと?」
「はい、動かずに」
颯真は腰の剣を抜いた。刃の長さに景鶴鈴の喉が動いた。
颯真は景鶴鈴から三歩離れた位置で剣を構えて、地を蹴った。
何が起きたのか、わたくしにも見えなかった。
剣先が頬、耳元、鼻先を走り、鬢の毛が一本だけ宙を舞った。三つの突きが、景鶴鈴の輪郭を正確になぞったらしい。
颯真は石畳を蹴り、三度続けて宙を返った。最後に両足で着地し、礼をしたときには剣も鞘へ戻っている。
「……虎だ」
景鶴鈴が震える声で呟いた。
わたくしの目には、颯真はいつも元気な大型犬だった。主人に褒めてほしい顔で尻尾を振っているような男。
他人には虎。わたくしの前では大型犬。
悪くない。むしろ、かなりいい。
景鶴鈴はもう、さっきの高慢さをほとんど失っていた。けれど、それでも最後のプライドが残っていたらしい。ふらついた膝を踏みしめて声を振り絞った。
「……しかし、それでも、俺の方が美しい! 顔だけなら、俺は誰にも負けない!」
わたくしは扇の陰から、静かに理珂を見た。
理珂は、景鶴鈴の叫びに顔をあげ、きょとんとしていた。また本を読んでいたのだろう。それから、景鶴鈴をしばらく観察し、心底不思議そうに言った。
「どなたが見ても、あなたより僕のほうが美しいのに、何を騒いでいるのですか?」
理珂の声には、悪意のかけらもなかった。
ただ、事実を事実として告げただけの、論理的な正論だった。
そして、理珂の顔立ちは実際にそのとおりだった。景鶴鈴が整った顔だとすれば、理珂は作り物のように整えられた顔で、羽を広げた孔雀のように、ただ存在するだけで周囲の光を集めてしまう質の美しさだった。
空気が止まった。
そのあとに来たのは、沈黙ではなかった。
颯真が口を押さえ、悠珀の肩が揺れた。怜鳳鳴も杯へ顔を伏せている。
堪えきれない笑いが、四方から漏れた。
景鶴鈴の顔から、さっと色が消えた。
理珂。容赦がないわ。本人にその気がないぶん、なお悪い。
わたくしは扇を軽く一振りした。
それだけで、控えていた宦官たちが静かに前へ出て景鶴鈴の両脇に付いた。言葉はかけなかった。かける必要がなかった。景鶴鈴は何かを言いかけて、けれど言葉にならずに、宦官に促されるまま回廊を去って行った。
去り際、景鶴鈴は一度だけ振り返った。目にあったのは恥ではなく、行き場を失った熱だった。
足音が消え、中庭に静けさが戻る。
颯真が最初に噴き出した。
「姫様! 今の、今の理珂のあれ」
「言わないで、颯真」
「何かいけないことを言ってしまいましたか」
理珂が困ったような顔でわたくしを見る。
「事実陳列罪ね」
颯真が手を叩き、悠珀も怜鳳鳴も声を上げた。
意味のわかっていない理珂まで、わたくしを見て笑い出す。
笑いがひと段落したところで、怜鳳鳴が杯を置いた。
「殿下。お詫びをひとつ。……あれは、麒家の遠い縁の者です。景の家は南の端の商家——武でも学でもなく、銭で立ってきた家です。あの男は、昔からああいう男でした。一族の恥をお目にかけました」
「あら。あなたのせいではないでしょう」
「ですが、お忘れなく。ああいう男は負けを認めず、負けた場所を憎みます」
珍しく、冗談の色のない声だった。それきり怜鳳鳴は杯を取り直して、話はそこで流れた。
笑い声が、秋の中庭に重なった。
わたくしも声を上げ、肩を揺らし、涙が滲むまで笑った。杏里村から持ち帰った焦げ臭さが、ようやく鼻の奥から消えていく。
次の手は、また打つ。
けれど今は、この四人と笑う。それも必要な仕事だわ。




