↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/47

20.女帝謁見


 朝はいつも同じだった。

 陽輝印を描いてもらい、粥をとり、執務室で書類を確認する。

 皇太姫とはいえ、国政の重要案件は女帝と皇配へ回る。わたくしの机に来るのは、形式上の承認と新宮の細かな決裁が中心だった。


 文字を追い、判を押す作業は頭を整えるのに都合がよかった。

 杏里村も、瑞華と烈央も、手がかりはない。けれど書類なら一枚ずつ片づく。進んだ気になれる。

 現実逃避。わかっていても、手は止めなかった。


 昼前に女官から使いが来た。


「皇太姫殿下。陛下より、午後の時間にご謁見をとの仰せでございます」


 筆を止めた。

 女帝・華陽《かよう》。華音の母。

 聖典では『暗黒女帝』と恐れられ、瑞華と烈央に倒される独裁者。そして、わたくしを道連れに処刑される人。

 

 その母に呼ばれる。立太子の儀以来、二人きりで向かい合うのは、転生してからは初めてになる。


 その母が、杏里村を焼けと命じた張本人でもある。

 命じた相手に、これから会う。


 ひと月ぶりの呼び出し。表向きは病み上がりの挨拶だろう。

 けれど、呼ばれた以上、裏がある前提で動く。


「承りました、と伝えて」


 使いが下がったあとで静岳を呼んだ。


 静岳は表も奥も、宮中全体を差配する宦官長で、わたくし付きではない。

 それでも内々に呼べば、こうして音もなく現れる。

 

 武人のような身のこなしに、冷たいほど整った顔。目の奥だけが柔らかい。

 外廷で女官たちが目で追うのもわかる。前世なら、若めのイケオジ。そういう男だ。


「陛下に呼ばれたの」


 静岳はわずかに眉を動かしただけで顔色は変えなかった。


「ご挨拶とご機嫌伺いと、その他、陛下が姫様にお話しになりたいことがおありなのでしょう」

「何か心当たりは」

「ございません。ただ、姫様におかれましては、構えずにお会いになるのがよろしゅうございます」

「構えずに?」

「陛下は、構えられると構えてお返しになる方でいらっしゃいます」


 静岳は断定しない。けれど、必要な一手だけは置いていく。


「わかったわ。ありがとう」


 午後。

 老太太の手を借りて身支度を整え、静岳を伴って母の宮へ向かった。


 長い回廊を歩く。秋風が朱塗りの柱を抜け、重い袖を膨らませた。

 静岳は一歩後ろを音もなく歩いていた。その足音のなさが、この男の存在そのもののようだった。


 女帝の宮の前殿に辿り着いた。

 取次の宦官が名を確かめて奥へ通してくれた。静岳は前殿の回廊で控えるという。


 扉が開いた。薬湯と香の混じった空気が流れてくる。

 本殿の奥、帳に遮られた薄暗い壇の上に母が座っていた。

 昼の光はそこまで届かない。衣の深い紅《くれない》だけが、闇の中で血のように浮いて見える。

 近くで見ると、立太子の儀の日よりさらに頬が削げていた。白粉の下でも、頬骨が目立つ。


「華音」


 母の声は、思ったよりも穏やかだった。


「体はもう良いのか」

「はい。お陰様で」

「近う」


 壇の前まで進み出て、膝を折った。母の目が、わたくしの顔を頭のてっぺんから順に見下ろしてきた。


「熱病と聞いたが」

「軽いものでございました。ご心配をおかけいたしました」

「四日、伏せっておったそうだな」

「はい」


 真っ赤な嘘。

 けれど顔には出さない。前世で鍛えた面の皮は、こういうときに使うものよ。

 母は黙ってわたくしを見ていた。威圧感はない。

 ただ、焦点が少しずつこちらから滑っていく。


「立太子の儀の日、そなたはよう堂々としておった」


 急に話題が飛んだ。


「……恐れ入ります」

「あれはいつのことだった」

「ひと月ほど前になります」

「そうか。ひと月か」


 母はそこで一度目を伏せて、また上げた。


「わたくしはそなたの歳の頃、何をしておったか。覚えておらぬ」


 声が少し、ひとりごとのような色を帯びた。

 わたくしの背筋を何かが撫でていく。


 立太子の儀では、堂々たる女帝だった。

 けれど、あの日にも焦点の抜ける瞬間があった。始まったのは最近ではないのかもしれない。

 目の前の母は、ひどく頼りなかった。


 母は不意にまた目を上げた。


「そなたは夫を四人選んだそうだな」

「はい」

「颯真。理珂。悠珀。怜鳳鳴」


 四人の名を、よどみなく言った。

 自分の若い頃は覚えていないのに、わたくしの夫候補は四人とも覚えている。


「四人の候補でございますが、このまま夫として召すつもりでございます」

「少し多いが……良い選別だ。そなたは見る目がある」

「恐れ入ります」

「ただし、怜鳳鳴には気をつけよ」


 声が少し低くなった。


「あの男は麒家の息子だ。南方の力を宮中に引き込む一族だ。味方にも敵にもなりうる。そなたが情を傾けすぎれば、あの一族に取り込まれる」

「……肝に銘じます」

「情を傾けてはおらぬな」

「はい」


 否定はすんなり出た。

 けれど、どこまでが事実で、どこからが見栄かはわからない。

 名前をつけるには、まだ早い。それだけだ。

 女帝の目は、その曖昧さを見抜く切れ味を今日は持っていなかった。母はひとつ頷いてまた目を伏せた。


「南のものは、昔から、都の水に馴染むまで時がかかる。……ああ、暁遠《ぎょうえん》も南の生まれであったな。あれは、ようも馴染んだ」


 ふ、と母の口元がゆるんだ。皇配さまの話をするとき、この人の声は少しだけ若くなるらしい。


「馴染みすぎて、いまではわらわより宮の作法にうるさいわ」


 ……今の、のろけ?

 娘に聞かせないでほしいわ。


 ゆるんだ口元から、視線が、ふらりと別のところへ流れた。


「……最近、南の民は減ったか」


 また話が飛んだ。


「南、でございますか」

「南だ。民が減ったと、誰かが申しておった。誰であったか」


 母は言いながら自分の袖を見下ろしていた。指先が袖の刺繍をなぞっている。その指先の動きだけが目よりも正直だった。


 南の民が減った。杏里村のことだ。

 命じた本人が、誰から聞いたかさえ覚えていない。しかも、誤魔化している顔ではない。

 喉の奥で言葉が一度詰まった。


「……特別にご報告は受けておりません」

「はっきりせよ」


 声が鋭く跳ね、本殿の空気を打った。

 母の目が強く光る。立太子の儀で見た、独裁者の顔が一瞬だけ戻った。


「そなたは次期女帝であろう。南に何が起きたかも知らぬと申すか」

「陛下」


 わたくしは頭を垂れた。


「……申し訳ございません」


 頭を下げたまま息を整えた。

 母は何かを言おうとしたようだったが、続きの言葉は出なかった。


 顔を上げたときには母の苛立ちはもう引いていた。代わりに、自分でも戸惑っているような、焦点のぼやけた目に戻っている。


「……いや、よい。気にせずともよい」


 母は袖を引き寄せてまた指先で刺繍をなぞり始めた。自分がさっき声を上げたことをもう整理しきれていない顔だった。


 わたくしは黙って控えていた。

 そのあとは、形式的な会話が続いた。新宮のこと。体調のこと。夫たちのこと。

 同じ問いが、何度か繰り返された。

 わたくしは同じ答えを返した。母は気づいていない。


「下がってよい」


 そう言われたとき、わたくしの体の奥で何かが静かに冷たくなっていた。


 退出の礼をして扉のほうへ向かった。扉の手前で振り返ると壇上で母が静かに目を閉じていた。


 その傍らに、いつの間にか静岳が控えている。


 いつ本殿に入ってきたのか、わたくしには見えなかった。けれど静岳は玉座の壇のすぐ下、影になる位置に立っていて、母に向かって静かに頭を垂れていた。母の左手が小さく動く。静岳は音もなく膝を進め、薬湯の細い杯を差し出した。

 杯が爪に触れ、かすかな音を立てた。母は目を閉じたまま受け取る。


 静岳は母の視界に入らぬ位置へ退き、頭を下げた。

 いつもの冷たい宦官長の気配ではない。

 この男は、母に尽くしている。


 そして、もうひとつ。

 薬湯を出す間も、呼吸に合わせた動きも、今日初めて覚えた所作ではなかった。

 静岳は、ずっと母を支えている。


 誰も気づいていないのではない。気づいても、口にできないのだ。

 女帝の判断が鈍ったなどと言えば、首が飛ぶ。宦官も女官も、見て、黙る。

 その沈黙を、静岳が実務で支えている。


 母を疑うだけでは足りない。そう思いながら、本殿の扉を閉めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。