20.女帝謁見
朝はいつも同じだった。
陽輝印を描いてもらい、粥をとり、執務室で書類を確認する。
皇太姫とはいえ、国政の重要案件は女帝と皇配へ回る。わたくしの机に来るのは、形式上の承認と新宮の細かな決裁が中心だった。
文字を追い、判を押す作業は頭を整えるのに都合がよかった。
杏里村も、瑞華と烈央も、手がかりはない。けれど書類なら一枚ずつ片づく。進んだ気になれる。
現実逃避。わかっていても、手は止めなかった。
昼前に女官から使いが来た。
「皇太姫殿下。陛下より、午後の時間にご謁見をとの仰せでございます」
筆を止めた。
女帝・華陽。華音の母。
聖典では『暗黒女帝』と恐れられ、瑞華と烈央に倒される独裁者。そして、わたくしを道連れに処刑される人。
その母に呼ばれる。立太子の儀以来、二人きりで向かい合うのは、転生してからは初めてになる。
その母が、杏里村を焼けと命じた張本人でもある。
命じた相手に、これから会う。
ひと月ぶりの呼び出し。表向きは病み上がりの挨拶だろう。
けれど、呼ばれた以上、裏がある前提で動く。
「承りました、と伝えて」
使いが下がったあとで静岳を呼んだ。
静岳は表も奥も、宮中全体を差配する宦官長で、わたくし付きではない。
それでも内々に呼べば、こうして音もなく現れる。
武人のような身のこなしに、冷たいほど整った顔。目の奥だけが柔らかい。
外廷で女官たちが目で追うのもわかる。前世なら、若めのイケオジ。そういう男だ。
「陛下に呼ばれたの」
静岳はわずかに眉を動かしただけで顔色は変えなかった。
「ご挨拶とご機嫌伺いと、その他、陛下が姫様にお話しになりたいことがおありなのでしょう」
「何か心当たりは」
「ございません。ただ、姫様におかれましては、構えずにお会いになるのがよろしゅうございます」
「構えずに?」
「陛下は、構えられると構えてお返しになる方でいらっしゃいます」
静岳は断定しない。けれど、必要な一手だけは置いていく。
「わかったわ。ありがとう」
午後。
老太太の手を借りて身支度を整え、静岳を伴って母の宮へ向かった。
長い回廊を歩く。秋風が朱塗りの柱を抜け、重い袖を膨らませた。
静岳は一歩後ろを音もなく歩いていた。その足音のなさが、この男の存在そのもののようだった。
女帝の宮の前殿に辿り着いた。
取次の宦官が名を確かめて奥へ通してくれた。静岳は前殿の回廊で控えるという。
扉が開いた。薬湯と香の混じった空気が流れてくる。
本殿の奥、帳に遮られた薄暗い壇の上に母が座っていた。
昼の光はそこまで届かない。衣の深い紅だけが、闇の中で血のように浮いて見える。
近くで見ると、立太子の儀の日よりさらに頬が削げていた。白粉の下でも、頬骨が目立つ。
「華音」
母の声は、思ったよりも穏やかだった。
「体はもう良いのか」
「はい。お陰様で」
「近う」
壇の前まで進み出て、膝を折った。母の目が、わたくしの顔を頭のてっぺんから順に見下ろしてきた。
「熱病と聞いたが」
「軽いものでございました。ご心配をおかけいたしました」
「四日、伏せっておったそうだな」
「はい」
真っ赤な嘘。
けれど顔には出さない。前世で鍛えた面の皮は、こういうときに使うものよ。
母は黙ってわたくしを見ていた。威圧感はない。
ただ、焦点が少しずつこちらから滑っていく。
「立太子の儀の日、そなたはよう堂々としておった」
急に話題が飛んだ。
「……恐れ入ります」
「あれはいつのことだった」
「ひと月ほど前になります」
「そうか。ひと月か」
母はそこで一度目を伏せて、また上げた。
「わたくしはそなたの歳の頃、何をしておったか。覚えておらぬ」
声が少し、ひとりごとのような色を帯びた。
わたくしの背筋を何かが撫でていく。
立太子の儀では、堂々たる女帝だった。
けれど、あの日にも焦点の抜ける瞬間があった。始まったのは最近ではないのかもしれない。
目の前の母は、ひどく頼りなかった。
母は不意にまた目を上げた。
「そなたは夫を四人選んだそうだな」
「はい」
「颯真。理珂。悠珀。怜鳳鳴」
四人の名を、よどみなく言った。
自分の若い頃は覚えていないのに、わたくしの夫候補は四人とも覚えている。
「四人の候補でございますが、このまま夫として召すつもりでございます」
「少し多いが……良い選別だ。そなたは見る目がある」
「恐れ入ります」
「ただし、怜鳳鳴には気をつけよ」
声が少し低くなった。
「あの男は麒家の息子だ。南方の力を宮中に引き込む一族だ。味方にも敵にもなりうる。そなたが情を傾けすぎれば、あの一族に取り込まれる」
「……肝に銘じます」
「情を傾けてはおらぬな」
「はい」
否定はすんなり出た。
けれど、どこまでが事実で、どこからが見栄かはわからない。
名前をつけるには、まだ早い。それだけだ。
女帝の目は、その曖昧さを見抜く切れ味を今日は持っていなかった。母はひとつ頷いてまた目を伏せた。
「南のものは、昔から、都の水に馴染むまで時がかかる。……ああ、暁遠も南の生まれであったな。あれは、ようも馴染んだ」
ふ、と母の口元がゆるんだ。皇配さまの話をするとき、この人の声は少しだけ若くなるらしい。
「馴染みすぎて、いまではわらわより宮の作法にうるさいわ」
……今の、のろけ?
娘に聞かせないでほしいわ。
ゆるんだ口元から、視線が、ふらりと別のところへ流れた。
「……最近、南の民は減ったか」
また話が飛んだ。
「南、でございますか」
「南だ。民が減ったと、誰かが申しておった。誰であったか」
母は言いながら自分の袖を見下ろしていた。指先が袖の刺繍をなぞっている。その指先の動きだけが目よりも正直だった。
南の民が減った。杏里村のことだ。
命じた本人が、誰から聞いたかさえ覚えていない。しかも、誤魔化している顔ではない。
喉の奥で言葉が一度詰まった。
「……特別にご報告は受けておりません」
「はっきりせよ」
声が鋭く跳ね、本殿の空気を打った。
母の目が強く光る。立太子の儀で見た、独裁者の顔が一瞬だけ戻った。
「そなたは次期女帝であろう。南に何が起きたかも知らぬと申すか」
「陛下」
わたくしは頭を垂れた。
「……申し訳ございません」
頭を下げたまま息を整えた。
母は何かを言おうとしたようだったが、続きの言葉は出なかった。
顔を上げたときには母の苛立ちはもう引いていた。代わりに、自分でも戸惑っているような、焦点のぼやけた目に戻っている。
「……いや、よい。気にせずともよい」
母は袖を引き寄せてまた指先で刺繍をなぞり始めた。自分がさっき声を上げたことをもう整理しきれていない顔だった。
わたくしは黙って控えていた。
そのあとは、形式的な会話が続いた。新宮のこと。体調のこと。夫たちのこと。
同じ問いが、何度か繰り返された。
わたくしは同じ答えを返した。母は気づいていない。
「下がってよい」
そう言われたとき、わたくしの体の奥で何かが静かに冷たくなっていた。
退出の礼をして扉のほうへ向かった。扉の手前で振り返ると壇上で母が静かに目を閉じていた。
その傍らに、いつの間にか静岳が控えている。
いつ本殿に入ってきたのか、わたくしには見えなかった。けれど静岳は玉座の壇のすぐ下、影になる位置に立っていて、母に向かって静かに頭を垂れていた。母の左手が小さく動く。静岳は音もなく膝を進め、薬湯の細い杯を差し出した。
杯が爪に触れ、かすかな音を立てた。母は目を閉じたまま受け取る。
静岳は母の視界に入らぬ位置へ退き、頭を下げた。
いつもの冷たい宦官長の気配ではない。
この男は、母に尽くしている。
そして、もうひとつ。
薬湯を出す間も、呼吸に合わせた動きも、今日初めて覚えた所作ではなかった。
静岳は、ずっと母を支えている。
誰も気づいていないのではない。気づいても、口にできないのだ。
女帝の判断が鈍ったなどと言えば、首が飛ぶ。宦官も女官も、見て、黙る。
その沈黙を、静岳が実務で支えている。
母を疑うだけでは足りない。そう思いながら、本殿の扉を閉めた。




