21.共闘
前殿の回廊へ戻り、ひとりで新宮へ向かった。静岳はまだ本殿に残っている。
日は高いのに、回廊の風が妙に冷たかった。
自室に戻り、扇を閉じた。
書類を一枚取る。三行読んで、何も残っていない。
仕事にならないわね。
母の判断は、崩れ始めている。
聖典の母は、最初から『暗黒女帝』だった。倒されるための暴君。
けれど今日見たのは、怒りと記憶の間で足場を失っている、一人の女性だった。
聖典だけを信じていたら、見落としていた。
何かが進んでいる。原因は見えない。放っておけば、行き着く先は処刑だ。
なら、結果から逃げるだけでは足りない。原因を止める。
感傷はあと。混乱した案件ほど、紙に落とす。前世からの鉄則だ。
筆と紙を卓の上に出した。
聖典の記憶の整理から始める。
母が『暗黒女帝』と呼ばれた理由は、一つではない。
杏里村は、積み上がった火薬へ落ちた火花にすぎなかった。
その前から、母は民衆からも宮廷からも恐れられる治世を続けていた。読んだはずの描写が、断片的に頭の奥から浮かび上がってくる。
筆を取った。
一、贅沢と浪費。農繁期の人夫徴発。献上品の強制。飢饉の年の豪奢な儀礼。
二、理不尽な処罰。朝議での公開叱責。奏上を「不敬」として退ける。表情まで罪にする「笑った罪」「泣いた罪」。
三、連座。本人に留まらず、家族や同郷の者まで巻き込む刑。官職永久追放。罪人の一族を宦官化する刑。密告の奨励。
四、見せしめ。宮門前の晒し。官服を剥ぐ。髪を切る。屈辱で心を折る罰。
五、一地方の壊滅。
これが聖典での決定打だった。杏里村のことだと思い込んでいた。
けれど、書かれていたのは「一地方」だった気がする。
村一つでは終わらない。もっと大きな災厄が、この先にある。
筆を止めた。
書き出してみると、把握していないものの大きさが形を持った。
わたくしは杏里村しか見ていなかった。村を救えばクーデターが消え、自分も助かる。そこだけ。
甘かったわ。
暗黒女帝が作られていく全体を見ず、処刑回避という非常口だけを探していた。
なら、今から立て直す。
五項目のうち、どれが始まり、どれがまだなのか、わたくしは知らない。
後宮と執務室からでは、国の全体が見えない。
見えなければ、手は打てない。
わたくしは立ち上がって、老太太に静岳を呼ぶよう命じた。
静岳はすぐに現れた。
「姫様」
「静岳。座ってちょうだい」
静岳が円卓の向かいへ座る。
伏せた紙の端を指で押さえると、まだ乾ききらない墨がわずかに匂った。
「単刀直入に聞くわ」
「はい」
「杏里村が二日後に焼かれるとあなたから聞いた夜、あなたは『ですが』と言いかけて、言葉を止めたわね」
静岳の目がほんのわずかに動いた。
「あのとき止めた続きを、今、聞かせてちょうだい」
しばらく、静岳は黙っていた。
「姫様」
「ええ」
「まだ、申し上げられぬことがございます」
「そう」
わたくしは扇を卓の上に置いた。息をひとつ、深く吸う。
ここで、踏み込む。
前世にも、駆け引きをせずに信頼できた上司がいた。静岳は、あの人と同じ種類の男だ。
なら、先に見せる。
わたくしは伏せてあった紙を、静岳の側にそっと差し出した。
「静岳。手の内を先にお見せするわ」
静岳が目を上げた。
「この紙は、わたくしが知る未来の道筋よ。すでに始まっているものもある。そして行き着く先は、民衆の蜂起と、陛下とわたくしの処刑」
静岳の表情がわずかに固まった。
「そうなる前に手を打ちたいの。そのために、あなたの力がいる」
静岳の目が紙に落ちた。五項目を一行ずつ追うように読んでいく。
読み終わるのを待って、続けた。
「わたくしには、別の時代の記憶があるの」
静岳の視線が、ゆっくりとわたくしに戻った。
「信じるかどうかは、あとでいい。事実だけ話すわ。わたくしには、この世界とは別の場所で生きた記憶がある。立太子の儀の日に、その人生を思い出したの」
「……」
「その記憶の中で、わたくしはこの国について書かれた本を読んでいた。物語として書かれた本。そこに書かれていた未来が、今まさに起きようとしている。陛下が暗黒女帝として倒される未来も、わたくしが母と並んで処刑される未来も。ただし、一度読んだ物語よ。細部まで完璧、とはいかないわ」
静岳はしばらく何も言わなかった。
目を見開きもせず、顔色も変えず、ただ静かに言葉を一つずつ受け止めていた。視線だけが何度か、紙とわたくしの顔を往復した。最後に一度だけ、長く息を吐いた。
「……なるほど」
「なるほど?」
「立太子の儀で、姫様が別の方になられたように見えた理由が、今日ようやく腑に落ちました」
驚きより、納得の色が強かった。
「信じるの?」
「姫様が、そういう種類の嘘をおつきになる方ではないと、存じております」
それだけだった。
長い説明も、証明も求めない。わたくしが嘘をつかないと知っているから。
……ずるいわね。そんなふうに信じられたら、こちらも応えるしかない。
「ありがとう」
わたくしは一度、目を伏せた。
「姫様。ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「ええ」
「その物語の中で、村は、いつ焼かれるはずでございましたか」
問いが、まっすぐ急所に来た。
「立太子から、二か月ほど後よ。実際は、ひと月余りで焼かれた。ひと月近く、早かったの」
「覚え違いだと、お考えでしたか」
「ええ。日付も満足に覚えていなかった、と」
あの焼け跡からずっと、そう自分を責めてきた。
静岳は少しの間、黙っていた。それから、静かに言った。
「以前、申し上げました。立太子の儀より、殿下はお変わりになった、と」
「言ったわね」
「気づいたのは、私だけではございませぬ。壇上のお姿。四人のご選定。献上を半分に裁かれた話も、宮中を回っております。……姫様。その物語に書かれていたのは、どちらの姫様でございますか」
息が、止まった。
聖典の華音。台詞ひとつ与えられないまま、母の隣で首を落とされる、名前のあるモブ。物語は、あの華音を前提に書かれていた。
今ここにいるのは、別の女だ。
「……わたくしを見て、誰かが急いだ」
「断定はいたしませぬ。ですが、殿下が帝位を継がれてからでは遅い、と考える者がいたとしたら。その者の目に、今の殿下はどう映りましょう」
覚え違いではなかった。
前倒しだ。
聖典から外れる最初の一歩を踏み出した、あの瞬間から。わたくしの一手一手が、顔のない誰かの時計を進めていた。
わたくしが変わらなければ、村は――
そこまで考えて、やめた。
変わらなければ、わたくしは処刑の日をただ待つだけだった。答えの出ない問いに割く工数はない。使う場所は、次だ。
「静岳。確かなことが、ひとつ増えたわ」
「はい」
「敵は、わたくしを見ている。そして、急いでいる。焦りは、恐れの証よ」
静岳が、深く頷いた。
「命令に道筋がなかったこと。この前倒し。……同じ手つきに見えてきたわ。記録に痕を残さず、人を駒にして、自分は外に立つ誰か」
「その誰かは、殿下のお働きに応じて、動きを速める。……厄介にございますな」
「ええ。だから、今日からひとつ決める。聖典の日付は、全部手前に倒して読む。締め切りは、書いてある日より必ず早い」
前世で守れなかった納期はない。敵が締め切りを動かすなら、こちらはもっと手前に置くだけよ。
「あなたにもお願いがあるの。あなたが知っていることを、同じように見せてほしい。隠し合っていたら、前に進めない」
静岳は少しのあいだ目を閉じた。それから、開けた。
「姫様。私が知っていることを申し上げます」
わたくしはゆっくりと頷いた。
「陛下のご体調に、半年ほど前から異変が生じております。急に激昂されたかと思えば、次の瞬間には何も覚えておられぬ。判断が以前と比べて粗くなられる一方で、ご本人がそれを自覚されている様子がない」
「薬湯のようなものを飲ませていたわね」
「対症療法にすぎませぬ。私が毎日お淹れしているのは、気を落ち着けるための煎じ薬です。それだけでは追いつかぬ速さで、陛下の何かが変わり続けております」
「何が原因だと思っているの」
静岳は一度、言葉を選ぶ間を置いた。
「正直に申し上げれば、二つの可能性を捨てきれずにおります」
「二つ?」
「一つは、ご病気。神智を蝕む病というものがあると、典医から聞き及んでおります。記憶が乱れ、怒りやすくなり、少しずつ判断が崩れていく病」
神智。前世で言うなら、脳の病の症状だ。
「もう一つは」
静岳が声を少し落とした。
「お体の中に、何か本来入るべきでないものが入っている可能性でございます」
「毒」
静岳は否定しなかった。
病だけなら、記録の外から入る何かを警戒する必要はない。疑う理由は、十分にある。
「ただ、確証がございませぬ」
静岳は慎重に言葉を置いた。
「陛下の煎じ薬や湯薬は、すべて私の差配にございます。ですが、日常の中へ、私の目を通らず入るものがある。そこまでは掴みました。何か、どこからかは、まだ」
「毒の痕は」
「出ておりませぬ。それが私を迷わせております。毒なら、体にもっと兆候が出るはずです。ですが、増えたのはお咳ほど。その一方で、神智の症状だけが早く進んでおります。病と見るのが素直ですが、速すぎる」
「両方を捨てずに考えている、ということね」
「はい。病であれば神智の治療を、毒であれば出所の特定を。どちらであっても、陛下のお側を離れるわけにはまいりませぬゆえ」
「静岳」
「はい」
「ありがとう」
わたくしは紙をもう一度引き寄せて、静岳の前に差し出し直した。
「この紙を、一緒に埋めたい。何が起き、何がまだなのか。あなたの目と、わたくしの記憶を突き合わせる」
一人で未来を読むのは、もう終わりだ。
「承知いたしました」
静岳の肩から、わずかに力が抜けた。抱えていたものを、ようやく同じ卓に置けた顔だった。
最後に、一番言いたかったことに戻った。
「静岳。もうひとつ」
「はい」
「昼間、見てしまったわ。あなたが母を大切にしていること。壇の下の背中も、薬湯を渡す手も」
静岳は今度は目を伏せた。
「わたくしは母を救いたい。あなたは陛下を守りたい。呼び方は違っても、行き先は同じでしょう」
「……姫様」
「なら、組みましょう。わたくしと」
しばらくの沈黙のあと、静岳が低く言った。
「それを言われてしまえば、私には抗う言葉がございません」
静岳にしては、十分すぎる肯定だった。静岳は立ち上がって深く一礼した。
「姫様。本日のお言葉、しかと承りました」
「ええ」
静岳はもう一度礼をして扉へ向かった。扉の手前で一度だけ足を止めて、振り返らずに言った。
「姫様。本日、お打ち明けくださったこと、感謝申し上げます」
「こちらこそ」
「これからは、お一人ではございませぬ」
扉が閉じたあとも、その言葉だけが部屋に残った。
悪くない。ひとりより、二人のほうが打てる手は多い。
一人になって、卓の紙にもう一度目を落とした。
五項目。聖典の恐怖政治の骨組み。どれがどこまで進んでいるのか、これから静岳と埋めていく。
最初は、自分が助かればよかった。
次は、杏里村を救おうとした。
今は、それでは足りない。
母を救う。国を変える。そのうえで、わたくしも生き延びる。
そして、瑞華と烈央を見つける。聖典で母を倒すのはあの二人だ。その筋書きが動き出す前に会って話す。
原因を掴み、結末ごと書き換える。
暗黒女帝になる未来も、この国が壊れる筋書きも、まとめて相手をしてあげるわ。




