22.耳は弱い
杏里村から戻ってからも、後宮の日常は表向き何も変わらない。朝の陽輝印、執務、夕方の茶、夜は夫の誰かと過ごす。たいていは颯真か悠珀。たまに理珂。怜鳳鳴もほんの一回。いずれも夜伽は無し。
静岳との共闘が始まり、五項目を、届く情報で少しずつ埋めている。
ある夕、悠珀が珍しく自分から願い事を口にした。
「新宮に入る前から頂いていた依頼が、ひとつ残っています。南の古刹の奉納画で、山の紅葉の頃に描いてほしいと。いまが、ちょうどその頃です。……行ってもよいでしょうか」
紅葉の寺。いいわね。悠珀の絵を待っている人がいる。頷くと、悠珀は一拍おいて、静かに付け足した。
「高名な僧のおられる寺です。もし、何か弔いたいお気持ちがおありでしたら、代わりに、おさめてまいります」
杏里村のことを、わたくしは悠珀に話していない。それでもこの人は、わたくしの様子から何かに気づいている。何も訊かずにいてくれて、こういう手の差し出し方をする。
香をひと包み、託した。
「ありがとう。お願いするわね」
手配は静岳に頼んだ。悠珀は絵具の箱を背負い、馬で発っていった。
後ろ姿を見送りながら、気づいたことがある。
わたくしは馬に乗れない。
杏里村までの二日、わたくしは怜鳳鳴の腕の中にただ収まっていただけだった。
けれど今後、単独で動く場面もある。いつまでも誰かの腕の中で運ばれていては遅い。自分で馬を操れるようになる。
わたくしは怜鳳鳴を呼んだ。
翌日の午後、新宮の奥の馬場にわたくしと怜鳳鳴と、それから一頭の栗毛の馬がいた。
「殿下」
馬を引いてきた怜鳳鳴が、こちらを見る。
「杏里村以来の再会ですね、この馬とは」
「火鹿毛」
名を呼ぶと、火鹿毛がぶるりと鼻を鳴らし、大きな首をこちらへ向けた。
「覚えていらしたのですか」
「帰りの道中に教えてくれたでしょう。あなたが。『火鹿毛、よく走った』と首を撫でながら」
「……よく覚えておいでで」
怜鳳鳴が少しだけ目を細めた。
わたくしは近づいて、火鹿毛の鼻先にそっと手のひらを出した。火鹿毛は耳を前へ向け、鼻先をわたくしの掌へ押しつけた。温かく、少し湿っている。
そのまま首を下げ、頬を肩へ寄せてきた。
怜鳳鳴が、珍しく言葉を失った。
いい顔ね。
首筋を撫でると、火鹿毛は目を細め、もっとと言うように鼻を鳴らした。
「殿下」
怜鳳鳴の声が、普段より一段低かった。
「この馬は、気位が高いのです」
「そう?」
「私以外の人間には、滅多に鼻先も許しません。杏里村までの二日も、殿下に触れさせたのは私の前に乗せていたからで、殿下が一人で近づいても、こう簡単には寄ってこないはずでした」
「あら」
わたくしは火鹿毛のたてがみの根元を、爪の先で軽く掻いた。火鹿毛は嬉しそうに頭を押し付けてきた。
「気位が高いのに、わたくしにはこんなに甘えるのね」
「……これは、驚きました」
愛馬が懐いて嬉しいのか、取られた気分なのか。
どちらにせよ、面白いわ。
「それでは、始めましょうか」
怜鳳鳴が気を取り直すように言って、火鹿毛の鞍を確かめた。
馬術の手ほどきは、思ったよりも厳しかった。
まずは地上で基本姿勢。背筋、膝、踵。一つ直せば、次を直される。
「先ほどより崩れております」
進歩どころか退化。ひどいわね。
「殿下。今のお姿勢で、馬に乗られたら落ちます」
「落ちないように支えてくれるのではないの?」
「支える前に落ちます」
真顔だった。
「もう一度、最初から」
「もう五回目よ」
「六回目です」
「……」
「殿下。姿勢を整えるというのは、体で覚えることです。頭で覚えるものではございません」
「正論が腹立つわね」
「殿下のご健康のためです」
にこりともしない。けれど、絶対に愉しんでいる。
できないわたくしへ、丁寧に意地悪を重ねる顔だ。
……ドS。
思わず口に出してしまった。
「今なんとおっしゃいましたか」
「なんでもないわ」
「どえす、と聞こえましたが」
「聞き間違いよ」
「どえす、とは。……私のことのようですが」
「気にしないでいいの」
「なにか悪口ですね」
「悪口ではないわ」
「では、何ですか」
「……褒め言葉」
「ほう」
「ありがたく受け取りなさい」
怜鳳鳴が口角を微かに上げた。聞き出すのを楽しんでいる顔。
やがて地上での姿勢に合格が出て、ようやく火鹿毛に乗せてもらえることになった。
鞍へ上がっても、鐙、手綱、腰、肩と、次々に直される。
四半刻ほど歩かせたところで、怜鳳鳴が火鹿毛の口輪に手をかけた。
「殿下。一度、お降りください」
「まだ始めたばかりよ」
「降りていただかないと直せない箇所がございます」
仕方なく降りる。腰を掴まれ、軽々と地面へ下ろされた。
大きな手がまだ離れないまま、怜鳳鳴が正面に立つ。
近い。
視線の先には鎖骨。顔を上げれば、顎、唇、目。指導に必要な距離とは思えないわね。
「肩に力が入りすぎておいでです」
怜鳳鳴が、わたくしの両肩に手を置いた。軽く、下へ押さえるように。
「こう、落として」
「落としているわ」
「もう少し」
両肩を押さえる手に、わずかに力が入った。言われるままに肩の力を抜くと、確かに呼吸が深くなる気がする。
「次に、腕」
今度は手首を持ち上げ、角度を直される。
指が内側をかすめた。普通の手ほどき。そのはずなのに、妙に熱い。
「最後に、頭の位置」
そう言って、怜鳳鳴の右手が、わたくしの頭のほうへ伸びた。
「髪が乱れておいでです」
指がこめかみの髪を掬い、耳の後ろへかける。ごく普通の動作だった。
耳の縁をかすめるまでは。
「……ん」
小さな声が、止めるより先に出ていた。
怜鳳鳴の手が宙で止まった。指はまだ髪の中にあった。けれどもう動かなかった。
怜鳳鳴の視線が、ゆっくりと、わたくしの顔に落ちてきた。
目が合った。
怜鳳鳴の口元が、わずかに動いた。まずい。弱点を見つけた目だ。
「……失礼いたしました」
指先が髪から離れた。離れた手が、もう一度戻る。
今度は手の甲で、耳の縁をゆっくり撫でた。
「……っ」
息を飲んだ。
耳の付け根から、背筋へ甘い震えが走った。体がわずかに揺れる。隠せる距離ではなかった。
「殿下」
低い声。
「ここがお好きなのですね」
「そん、な、ことは」
「お体が正直でいらっしゃる」
腹立たしい。否定できないのが、もっと腹立たしい。
怜鳳鳴がわずかに身を屈めた。背の高いこの男が顔を近づけてくると、耳の位置にちょうど彼の唇が来た。息が、耳たぶに直接かかった。
「殿下も、お望みのことをなさいませんか」
「……っ」
「耳だけで終わるお約束では、なかったはずですが」
「耳……そんな、約束をした覚えは」
「村から戻ったら、と。殿下ご自身がそう」
「それは」
「お覚えでございますか」
村から戻ったら。
わたくしが抱く、と返した、あの約束。
耳から頬、こめかみまで、一気に熱くなった。
顔が赤い。自分でもわかる。
まずい。こんな顔は見せたくない。扇は鞍の袋。遠すぎる。反射的に頬を手で隠した。
その瞬間、目の前の怜鳳鳴の気配が、変わった。
さっきまでわたくしを余裕で追い詰めていた男の気配が唐突に静かになった。屈めていた身を、ゆっくりと引いた。
わたくしは下から怜鳳鳴の顔を見上げた。
怜鳳鳴の頬が、はっきり赤い。
……あら?
怜鳳鳴は、わたくしと目が合った瞬間、さっと顔を背けた。耳の後ろまで、赤くなっていた。わたくしから一歩離れた。
何が起きたのか、わからなかった。
わたくしが赤くなった理由はわかる。耳を攻められ、反応した。
けれど、この男まで赤くなる理由は一つしかない。
わたくしの赤面が、効いたのだ。
頬は熱い。男は顔を背けている。
火鹿毛だけが、呑気にぶるる、と鼻を鳴らした。
沈黙が馬場に落ちた。
わたくしはそのうち、小さく笑ってしまった。笑うしかなかった。
プレイボーイの仮面の下で、わたくしの赤面一つに困っている。そうわかると、恥ずかしさより愉快さが勝った。
わたくしは、姿勢を整え直した。
「怜鳳鳴」
「……はい」
「続けるわよ。稽古」
「……承知しました」
それからのレッスンは怜鳳鳴が妙におとなしかった。耳元で囁くこともなく、厳しい指示だけを淡々と出してくれた。
どうにか、自分で火鹿毛を歩かせられるようになった。
小さくても、前進は前進よ。
稽古が一通り終わって、怜鳳鳴が馬の脇にやってきた。
「お疲れさまでございました」
「今日はありがとう」
「降りましょう」
怜鳳鳴が両手を伸ばしてわたくしの腰に触れた。難なく持ち上げられて地面に下ろされる。
腕が離れかけた瞬間、背伸びをして右頬へ口づけた。
ちゅ、と小さな音がした。
怜鳳鳴が固まった。
近いところで、喉がごくりと鳴る。
「殿下」
「約束は覚えているから」
それだけ言って、わたくしは怜鳳鳴から一歩離れた。
「そういえば近頃、静岳をよくお呼びだとか」
背を向けたところで、平坦な声が追ってきた。
あら。今度はそこが気になるのね。
「ええ。頼み事があって」
「……そうですか」
それ以上は言わなかった。わたくしも何も説明しなかった。
ふう、と息を吐き、心の中でふふと笑った。
耳では負けた。けれど、顔を赤くさせ、頬まで頂戴した。
引き分け。いいえ、僅差でわたくしの勝ちね。
火鹿毛がこちらへ首を振り、ぶるりと鼻を鳴らした。
別れの挨拶らしい。
わたくしは振り返って、馬の首筋に手を置いた怜鳳鳴に向かって軽く会釈した。
怜鳳鳴はまだ、こちらを見ない。耳まで赤いままだ。
わたくしは「ふふん」と小さく笑い、馬場を出た。
悪くない。次も楽しみだわ。




