23.突然の発作
朝の陽輝印、朝の粥、朝の執務。決まった順序をこなすうちに、体が先に動くようになった。頭が別のことを考えていても、指先は筆を選び、印を押す場所を間違えない。前世の仕事と同じだ。
静岳が集めた情報は、夕方のわずかな時間にわたくしの卓へ届く。五項目は、少しずつ埋まっていった。
けれど、埋まるほど肩は重くなる。現実が聖典と同じ方向へ動いているとわかるからだ。
夕方、執務室を出て、新宮へ戻る道を歩いていた。
朱塗りの回廊が枯れかけた蓮池の脇を通って、築山のある中庭に繋がる。
一日の最後にその庭を通るのが、わたくしの気分転換になっていた。
その日も、いつものように回廊から中庭へ入った。
紅葉の終わりかけた楓が、一枚、また一枚と石畳に散っている。
夕日が西の塀を赤く染めて、池の水面に一筋の金を引いていた。
ふと、築山の向こう側に人の気配がした。
築山の陰の小径を進んで、視界が開けた場所に出た。
一人の若い男が、池のほとりに立っていた。
黒い髪を無造作に束ねていた。深い藍色の衣。肩の線は細めで、けれど立ち姿には皇族らしい重心の低さがあった。水面を見つめている横顔に、見覚えがあった。
兄の暁雲だった。
立太子の儀の日、広間の柱の陰に立っていた、あの男。祝いの場にいるのに祝う顔をせず、何かを諦めたような遠い目をしていた青年。今日もその目は、水面の向こうの何かを見ていた。
血の繋がった兄なのに、わたくしはこの人を何も知らない。華音の記憶にあるのは、名前と、立太子の儀の遠い姿と、回廊ですれ違ったときの伏せた目だけだった。
前世の記憶にも、暁雲は引っかからない。聖典に出ていたのかさえ曖昧だ。重要人物なら役割くらい覚えているはずだから、端役だったのか、読み飛ばしたのか。
暁雲が、こちらに気づいた。
ゆっくりと顔をこちらに向けた。その顔に、驚きも喜びもなかった。ただ、静かに誰か来たと認識した顔。
わたくしは軽く会釈した。兄妹というより、皇族同士の形式的な礼だった。
暁雲は、目を伏せた。
軽く頭を下げる仕草をして、それからわたくしと目を合わせないまま、池のほとりをゆっくりと歩き去って行った。何も言わなかった。
わたくしも何も言わなかった。
すれ違った時に衣擦れの音だけがして、それきりだった。
いずれ、この人とはきちんと向き合わなければならない。そう思うのに、今は話しかける言葉がひとつもなかった。
楓の葉が、また一枚、池に落ちた。水面の金色が揺れる。
わたくしは新宮へ戻った。
翌朝。
陽輝印を描いてもらっている最中に、戸の外で静岳の咳払いが聞こえた。
「姫様。朝のお時間に失礼を。急ぎ、お耳に入れたいことがございまして」
老太太が筆を止めて振り返った。わたくしは鏡の中で軽く頷いた。
「入って」
戸が開き、静岳が入ってきた。普段なら朝の挨拶は戸口で済ませる男が、今朝は部屋の中まで進み出る。ただの報告ではない。
「何」
「昨夜、宮中で女官の一人が命を落としました」
「どなた」
「陛下のお側で働いていた中級の女官でございます。姫様は直接ご存知ではない者かと」
「状況は」
「夜半、突然暴れ出し、部屋の中のものを次々と壊し、叫び声を上げながら回廊を走り出て、二階の窓枠に足をかけ、そのまま飛び降りたとのことでございます。直ちに駆けつけたときには、もう息がなかったと」
老太太の筆先が、額の上でわずかに止まった。わたくしも息を詰めた。
「暴れて、飛び降りた」
「はい」
「発作、ということ?」
「公式にはそのように処理される見込みでございます。『心の病による発作で、自ら命を絶った』と。典医が診て、そう所見を出しております」
「あなたはどう見ているの」
静岳は一拍置いてから、静かに答えた。
「所見に異を唱えるほどの材料は、私にはございませぬ。ただ、あの女官は普段から心を病んでいる様子はなく、むしろ勝気でしっかり者でございました。同僚の女官たちも、口々に『昨日までのあの方が、なぜ』と申しております」
「突然の発作」
「突然の、でございます。そこが、気になっております」
老太太が陽輝印の筆を再び動かし始めた。けれどその手元の速度は普段より少し遅かった。
「静岳。あなたは、この件を疑っているのね」
「疑う、というほどの根拠はございませぬ。ただ、違和感がございます。突然の発作、突然の錯乱、突然の飛び降り。全てが、突然でございました。普段の勤めぶりとのあいだに、橋がかかりませぬ」
「何か、飲まされたか、与えられた可能性は」
「可能性としては、ございます。ある種の薬物や毒物の中には、過剰な興奮や錯乱を引き起こすものがあると、典医の書にも記されております」
「でも、証拠はない」
「本人の部屋からは、特におかしなものは見つかっておりませぬ。ご本人は既にこの世になく、体の検分から何か出るとは考えにくい。少なくとも、公式の調べではそこまで踏み込めませぬ」
「調べが尽くされる前に『発作で飛び降り』で終わる」
「おそらく」
老太太が陽輝印を描き終わって筆を下げた。朱を片付ける手が普段より丁寧に見えた。
「静岳」
「はい」
「あなたがわたくしに朝一番で知らせに来たのは、どうして。『気になる』というだけではないでしょう」
静岳は一度目を伏せた。それから上げて言う。
「その女官が、陛下のお側で働いていたからでございます。姫様と私が共に追っているもののそばで、こういう死が起きた。偶然であればそれで良い。けれどもし偶然でなかった場合、姫様にも必ずお耳に入れておかねばならないと判断いたしました」
「ありがとう、静岳」
「はい」
「記録に残すわ。今は動けなくても、忘れない」
「はい。私の方でも、女官の同僚や日頃の様子を、それとなく聞き集めておきます。無理には動きませぬ。ただ、『発作で飛び降り』で終わらせて忘れてしまうことだけは、避けとうございます」
「お願い」
静岳が一礼して退がった。扉が閉まった。
部屋に老太太とわたくしだけが残った。老太太は何も言わずに卓の上に朝の茶を整え直す。湯気の立つ杯をわたくしの前に置いた。
「老太太」
「はい」
「宮中で女官が自分から飛び降りるなんて、よくあることなの?」
老太太は少し考えてから静かに答えた。
「あると申せばございますが、多くはございませぬ。心を病まれる方は、もっと長い時間をかけて静かに衰えていかれます。今日までしっかりしておられた方が、明日突然、というのは、あまり耳にいたしませぬ」
「そう」
「姫様。老婆の感覚で申し上げますれば、今日のような話は、覚えておかれるのがよろしゅうございます。けれど、追いすぎぬのもよろしゅうございます」
「どうして」
「追いすぎれば、追われるゆえでございます」
老太太はそれだけ言って茶器を整える手に戻った。
わたくしは杯を手に取って一口飲む。
追いすぎれば、追われる。
静岳の言った「偶然でなかった場合」と、老太太の言った「追われる」は、同じ場所を指していた。
わたくしたちはもう、薄い氷の上にいる。下で動く誰かに気づかれれば、次に「突然の発作」を起こすのは、こちらかもしれない。
わたくしは茶を置いて筆と紙を引き寄せた。
五項目の紙の下に新しい一行を足した。
陛下付きの若い女官が、夜半に突然錯乱し、二階から飛び降りて死亡。原因不明。
筆を置いて、紙を見下ろした。
この一行がいつか別の何かと繋がるのか、ただの発作として消えるのかは、まだわからない。だから書いておく。残さなければ、並べて見ることもできない。
窓の外では、初冬の光が昨日より少しだけ冷たくなっていた。
文机の隅には、朝のうちに届いた文が載っている。皇配さまからだった。
――宮の内が、騒がしゅうございます。そなたの耳にも届いておりましょう。若い者が亡くなるのは、いつの世にも胸にこたえるもの。心を痛めすぎられますな。陛下の御身は、案じずともよろしい。私が、側におりますゆえ。
事件のことを口にする人は、この宮にほとんどいない。みな、なかったことの側に並んでいく。そのなかでこの人だけが、わたくしの心持ちを案じる文をくれた。
私が、側におりますゆえ。
その一行を、わたくしはもう一度だけ目でなぞって、文箱に戻した。
わたくしは紙を伏せて老太太に声をかける。
「老太太。今日も一日、始めましょうか」
「かしこまりました」
老太太が穏やかな顔で頷いた。その穏やかさが、今朝のわたくしの支えだった。




