24.避妊薬
あれから、また数日が過ぎた。
飛び降りた女官のことは、静岳と突き合わせた紙の末尾に一行だけ残っている。続報なし。誰も蒸し返さない。
忘れず、記録して、次へ。
その日は執務が長引いた。初冬の日暮れは早い。外廷を出る頃にはすでに柱のあいだに夕闇が溜まっていて、回廊の先で宦官が灯籠をひとつ吊るしたところだった。
新宮へ戻る長い回廊の途中で、前方から人の気配がした。
先導の宦官が早足に寄ってきて、柱の陰で膝を折る。
「皇太姫殿下。陛下がこちらへおいでになっております」
一歩下がって控えた。回廊の向こうから女帝の一行が進んでくる。先導の宦官、両脇の女官、中央に深い紅の常服をまとった女帝、一歩後ろに静岳。
思わず目を瞠った。
今日の女帝は足取りが確かで、背筋も伸びている。焦点の合った目が、まっすぐわたくしを捉えた。
今日は、母がいる日だ。
先日の謁見で見た、あの揺れる目の人とは別人のように見えた。女帝の後ろの静岳とわたくしは、ごくわずかに目だけ合わせた。今日は調子の良い日なのだ、と短く合図が渡る。
日によって、こんなに違うのね。
五項目は、悪い方へ埋まり続けている。
それでも、こういう日には思う。聖典の「暗黒女帝」の奥に、まだ母その人が残っている。
わたくしは膝を折った。
「陛下。お目通りがかない、恐悦至極に存じます」
「華音か」
母は立ち止まった。
「顔を上げよ」
顔を上げると母はわずかに目を細めてわたくしを見下ろした。
「近頃、夫たちとは仲よう過ごしておるか」
「はい。皆、よく仕えてくれております」
「四人、であったな」
「はい」
母は小さく頷いてそれから口角をほんの少しだけ上げた。
「候補ではなく、全員夫とするのでよいのだな」
揶揄しているような、どこか面白がっているような声だった。
「はい。おっしゃる通りにございます」
「では、どの者が第一夫だ」
「順番は、付けられません」
わたくしはまっすぐに言った。
「皆、大切ですから」
模範解答。けれど、嘘ではない。
母は満足げに頷いた。そしてふとわたくしの腹のあたりに目を落とした。
「早く女子を産め」
来たわね。母娘の会話というより、皇統からの業務命令だ。
「承知しております」
「次期女帝の務めじゃ」
この国は女の血だけで皇統が続く。女子でなければ継げない。
一瞬、暁雲の顔が浮かんだ。
女の血だけが皇統を継ぐ国で、男に生まれた兄。血筋の脇道に置かれたまま、彼は何を思っているのだろう。
浮かんだのは一瞬だった。頭の奥へ仕舞って、母に視線を戻した。
「良い」
母は頷いてもう目を逸らしていた。その目が先ほどの焦点からわずかに外れかけている。薄い翳が射してきたような揺らぎ。静岳が目だけで合図をくれた。そろそろ下がれ、の目。
「失礼いたします」
もう一度膝を折り一行が通り過ぎるのを待った。衣擦れと足音が遠ざかる。顔を上げたときには回廊の先で母の背中が小さくなっていた。
自室に戻ると老太太が戸口で待っていた。
「姫様。お帰りなさいませ」
「ただいま」
「理珂様付きの宦官が、先ほど伝言を持って参りました」
「伝言?」
「『できた、とお伝えしてほしい、と』」
できた。
一言で十分だった。余計な飾りなし。報告としては満点ね。
引き受けてから、ひと月あまり。杏里村へ行く間も、執務に追われる間も、理珂は黙って研究を続けていた。
できるまでは黙り、できたら知らせる。実に仕事がしやすい男だ。
扇を閉じて、告げた。
「今夜、理珂を」
「かしこまりました」
その夜。
戸が開いて理珂が入ってきた。手には薄い布包みがある。
「皇太姫殿下。お呼びと伺い、参上いたしました」
「顔を上げて。座って」
理珂は布包みを円卓の上にそっと置き腰を下ろした。そのまま結び目を指先で解く。中から小さな紙袋がふたつ出てきた。片方は淡い緑の粉、もう片方は茶色の粉。
「できました」
「よくやったわ、理珂」
「緑は毎朝一匙。水に溶いて、三週続けて、一週休みます。女の体に、子を迎える支度が始まらないようにします」
説明は論文を読み上げるような声だった。そのくせ複雑な話をよく噛み砕いて渡してくれる。つまりは避妊用ピルのようなものらしい。
「茶色は?」
「急ぎの分です。緑を飲み始める前や、飲み忘れた時に。ただし、こちらは体への負担が大きい。続けて使わないでください」
「両方を作ったのね」
「そのほうが研究としては堅牢ですから」
避妊薬に「堅牢」という言葉を使う男。嫌いじゃないわ。
「他に注意は?」
「毎朝、欠かさず。やめれば効き目は落ちます。体が重い、熱、息苦しさ、めまい、その類が出たらすぐに知らせてください。量を調整します」
「わかったわ」
理珂は布包みを畳み直してからわたくしを正面から見た。
「殿下」
「何?」
「薬ができました。約束を、履行していただきたく」
まっすぐだった。
研究成果への報酬を求めるだけの目ではない。あの夜の約束を、今日まで一度も手放さなかった男の目だった。
忘れていなかったのね。
わたくしも、忘れてはいない。
わたくしは一度目を閉じて開けた。
「そうね」
立ち上がって寝台の方へ歩き出す。
「約束は、守るわ。急ぎのほうなら、今夜から使えるのね?」
理珂が頷くのを見て、円卓の上の茶色の紙包みをつまみ一匙分を杯の水に落とした。
理珂の『できました』を疑わないと決めたから。
淡く色が広がっていく。杯を干して、ふう、と息を吐いた。
寝台の傍で振り返ると、理珂は自分で帯を解きかけていた。
あの夜は、わたくしに教えられるままだった人が、今夜は自分の意思でここにいる。
「理珂。今夜は、わたくしに任せてくれる?」
「……はい。お願いします」
素直。この素直さだけでもう、ご褒美のような気持ちになる。
隣に腰を下ろして、理珂の手を取った。熱い。指先が少し震えている。
「緊張しているの?」
「……はい。前よりも、少し」
「どうして? 前は何も知らなかったのに」
「知っている分、これから何が起きるかの見当がついてしまうからです」
なるほど。未知より既知のほうが怖い種類の人間なのね、この男は。
「大丈夫。嫌ならいつでも言ってね」
理珂は頷いて、わたくしの手を握り返した。
その夜、理珂はいつものように、何度も質問をした。
けれど、やがて質問が途絶えた。
あの夜と同じ。天才にも、言葉を失うことがあるらしい。
それから、ゆっくりと言った。
「殿下……美しい……僕よりも。もっとよく、見せてください」
細く掠れた声だった。
わたくしはそっと、理珂の頬に手を添えた。
灯籠の光が梁に影を作って、小さく揺れていた。
どれくらい経っただろう。
理珂の目がゆっくりとわたくしを見上げた。澄んだ瞳に、今まで見たことのない色が浮いていた。
涙だった。
溢れるほどではない。目尻にうっすら滲んで、理珂自身はそれに気づいていない。ただわたくしを見ている。
「……殿下」
「ん」
「……こんなに、胸が、震えるものなのですか」
言葉を探しあぐねている声だった。天才の語彙から今いちばん近い言葉を引き出した結果の「胸が震える」。
美しくて、賢くて、きまじめで、今この瞬間、自分の中に生じた感情の名前を知らないままでいる男。その瞳にわたくしがゆらゆらと映っている。
愛しい、という思いが自然に浮かんだ。可愛い人。
けれど、その感情に溺れるほど、わたくしは素直ではない。
理珂の震えに引かれて岸を離れるのではなく、きちんと自分の足で戻ってくる。どれほど熱を上げても、朝まで酔ってはいない。それで判断を狂わせない。
――そうだったわ。わたくしは、そういう女だ。
楽しむ。堪能する。でも、人生の舵までは渡さない。
指先で、理珂の目尻の涙を拭った。拭いながら、自分の輪郭をもう一度確かめていた。
「よく、頑張ったわね」
「……はい」
「薬、ありがとう」
「……こちらこそ。履行していただいて」
こんなときまで「履行」。
可愛い。これなら、明日の朝も気まずくならずに済みそうね。
わたくしは理珂の隣に横になって、天井を見上げた。
理珂が顔をゆっくりとこちらに向けた。
「殿下」
「ん?」
「……良い、研究でした」
こんな場面でその言い方。けれど、それがこの男の、今夜の終わりに選べた精一杯の言葉なのだとわかった。研究。そう呼びながら、それでも胸は震えている。理珂らしい、不器用な仕舞い方だった。
愛しさに蓋がされても、可愛いは残る。どうやら、そこは別勘定らしい。
「ええ。とても、よかったわ」
わたくしは天井を見たまま短く答えた。
理珂はそれ以上何も言わず、静かに目を閉じた。わたくしも目を閉じる。
夜は静かだった。
それが、心地よかった。
楽しむ。溺れない。
わたくしは、そういう女だ。




