25.文官の死
朝の光が、薄く寝台の天蓋を透かしていた。
目が覚めてすぐ、隣の体温に気づいた。理珂はまだ眠っていた。頬に朝の光がかかって長いまつ毛が影を作っている。昨夜の翻弄された顔はもうどこにもなく、ただ整った美しい顔が静かに呼吸していた。眠る孔雀ね。
わたくしは起き上がって、寝衣の前を合わせた。
円卓の上には、昨夜のままの二つの紙袋。茶色と緑。緑のほうを手に取って水差しから杯に水を注ぎ一匙を溶いた。緑が水に広がってほんの淡い色に落ち着く。一息に飲み干した。味はほとんどしない。少しだけ草の匂い。
これを、毎朝。
今日から、毎朝。
薬は飲み忘れない場所に置き、決まった時間に飲む。仕組みにしてしまえばいい。理珂が作った薬を、わたくしが正しく運用する。役割分担として完璧ね。
杯を置いたとき背後で衣擦れの音がした。
「殿下」
振り返ると理珂が半身を起こしていた。髪が一房、頬に落ちている。
「起こしてしまったわね」
「いえ。――その緑が、朝の分でしょうか」
「ええ。今、一口目よ」
「味は」
「ほとんど、しないわ。少し草の匂いがする程度」
理珂は頷いて安堵したような顔をした。
「それなら、続けられますね」
もう研究者の顔に戻っている。
それでも、目の奥には昨夜の名残が薄く残っていた。
本人がまだ名前を知らないのなら、今はそれでいい。
「理珂。ご苦労さま。今日からは、朝の運用の記録も取ってくれる?」
「もちろんです。体の重さ、熱、息、月のめぐり、食事との関係。全て記録します」
「頼もしい」
理珂は迷いなく衣を整えると、わたくしに一礼して部屋を出ていった。
戸が閉まって、静けさが戻る。
朝の薬は、もう体の中にある。
自分の身体の主導権を、自分で持つ。今日から、そのための習慣が始まる。
老太太が朝の支度のために入ってきた。いつもと同じ穏やかな顔で、円卓の上の紙袋ふたつを一瞥して、何も言わずに朱塗りの小箱に移した。緑と茶色を、わたくしの手の届く場所にきちんと収める。余計なことを言わない。この侍女のこういうところに、わたくしは何度助けられてきただろう。
額に陽輝印が描かれていく。朝の筆の感触。
この世界で初めて一線を越えた翌朝も、驚くほどいつもどおりだった。
橙色の太陽が形を取るあいだわたくしは目を閉じて、今日の段取りを頭の中で組み立てていた。
今日は朝議に出る日だった。
皇太姫が朝議に出るのは月に数度。奏上も裁決もせず、諸官の顔を覚えるだけの形式的な列席だ。
以前なら退屈なだけだった。今は違う。
誰が叱責され、どの地方から何が上がってくるのか。朝議は、五項目を埋める情報収集の場になっていた。
朝議の間は冷えていた。初冬の朝、まだ炭もろくに入らない広間に官吏たちが列をなして控えていた。
壇の最も高いところに女帝。その斜め後ろに皇配。わたくしはひとつ低い壇。官吏たちは床。……まさに雛飾りの段飾りだわ。
静岳は壇の下、母のいつもの位置に控えている。
今日の母は、顔色が良くなかった。
昨日の回廊で見た、良い日の面影はもうない。目の焦点も、わずかに定まっていなかった。
一日も、もたないのね。
薄い不機嫌が顔に乗っている。静岳の背中がいつもより少しだけ強張って見えたのは、わたくしだけが気づくことだった。
奏上が順に続いた。徴発の件、地方からの陳情、秋の税の取り立て。どれも乾いた報告。わたくしは袖の中で指を折りながら五項目のどれに重なるかを頭の中で分類していた。
中ほどの順番で書記官が一枚の紙を取り出して読み上げた。
「先般の不敬に関し、文官・柳旬の処分について申し上げます」
わたくしの指が、袖の中で止まった。
柳旬。名前に聞き覚えはない。けれど「文官」「不敬」「処分」という三つの言葉の並びが、耳の奥に引っかかった。
書記官が淡々と続ける。
「過日、陛下の御前における奏上の折、不敬の言動ありと同僚の奏上がございました。調べにより事実と認められ、本日、刑が執行されました。一族は官籍より除かれ、本人の身は」
その先は、処刑されたという事実だけで足りた。
刑は昨日のうちに執行。家族は連座で官籍を失った。
処分が速い。
速すぎる。
上申、審議、裁可。この国でも、処刑までにはいくつもの手続きがある。それを数日で通した。
仕事が早いのではない。最初から結論が決まっていたような速さだ。
女帝がひとつ頷いた。
「よい」
それだけだった。苛立ちも同情も判断の重みもない「よい」だった。昨日の回廊で「早く女子を産め」と言ったときのほうがまだ母という人の声に近かった。今日の「よい」は書類に朱を入れる音のようだ。
書記官が次の案件を読み上げ始めた。朝議は何事もなく進んでいく。柳旬という文官の名はもう誰の口にも上らない。広間の中で彼の死は一行の記録として通り過ぎた。
わたくしは袖の中でもう一度指を折った。
不敬罪。速すぎる処分。家族への連座。
五項目の「理不尽な処罰」と「連座」、両方に当たる。
けれど、分類はあとでいい。
誰が、何のために、これほど急いだのか。
わたくしは何も顔に出さず、その問いだけを袖の中に隠した。
朝議が終わって官吏たちが退出していく。わたくしも広間を出た。
回廊で静岳が追いついてきた。
「姫様」
「静岳」
「お気づきでございましたか」
この男はいつもこういう言い方をする。断定はしない。ただ、わたくしが気づいたかどうかだけを確かめる。
「柳旬という名は」
わたくしが口にすると、静岳はごく短く頷いた。
「先般、飛び降りた女官がおりましたね。あの女官の部屋へ薬湯を差し入れたとされる文官が、柳旬でございます」
広間から続く回廊をわたくしたちは歩調を揃えずに歩いていた。近くに人がいないことを、静岳はすでに確かめていた。
薬湯。
「確か、差し入れの件は、公には出ていなかったはずよ」
「はい。同僚の女官が小声で言っていた話を、私が拾っただけでございます。ほかには、ほとんど誰も知りませぬ」
「その男が、別件の不敬で、昨日処分された」
「でございます」
わたくしは歩きながら、ひとつ息を吸って吐いた。
まだ、断定はできない。
女官の死は「突然の発作」。柳旬の死は「不敬」。別々の事件として処理されている。
けれど、両方に同じ名前がある。
柳旬。
「処分が、速かったわね」
「はい。奏上から執行まで、三日でございます」
「三日。ずいぶん仕事のできる処刑ね」
「……不敬罪では、本来あり得ぬ速さでございます」
「誰が奏上したの? 同僚、とあったけれど」
静岳は短く沈黙した。
「名は出ておりませぬ。記録には『同僚複数名の奏上』とございますが、実際に声を上げたのが誰であったかは、広間の中では明かされておりませぬ」
「ふうん」
わたくしは回廊の柱のひとつに目を留めた。朱塗りの柱が、朝の光に照らされている。
昨日の母と、今日の母。その間に、柳旬の刑が執行されている。
関係があるとは限らない。けれど、日付は残しておく。
「静岳。このことを、静かに追ってちょうだい。無理はしないで」
「心得ております」
「柳旬の家族は」
「連座で籍を失っております。どこへ送られたかは、追えるだけ追います」
「お願い」
静岳は頷いてから、声をさらに低くした。
「それと、姫様。南の二人の足取りは、いまだ掴めておりませぬ。ただ、村を離れた者の多くは、川筋を伝って北へ流れておるとのことでございます」
「焼け出された人たちが、都のほうへ来ているということ?」
「食い扶持を求めるなら、向かう先は人手の要る町にございます。存外、近くまで来ているやもしれませぬ」
「わかったわ。その線で進めて。これは切られないように」
「無論でございます」
静岳は一礼して、別の回廊へ折れていった。
わたくしは自分の宮へ歩いて戻った。
部屋に入ると、老太太が茶器を整えていた。朝議のあとのいつもの茶の支度。湯気の立つ杯を、円卓の上に置いてくれる。
「姫様。お疲れさまでございました」
「老太太」
「はい」
「今日の朝議で、文官が一人、処分された話を聞いたの」
老太太は湯気を立てる茶を差し出す手を止めずにゆっくりと頷いた。
「存じております」
「あなたも、耳にしていたのね」
「宮中の朝は、噂が早うございます」
「柳旬という名、知っていた?」
老太太はしばらく手元の湯気を見てから答えた。
「存じ上げておりませんでした。ただ、先般飛び降りた女官と繋がりのあった者だと、女官たちが小さく申しておりました」
「繋がり、というのは」
「亡くなられた方のお部屋の前を、よく通る文官だったと申す者がおりました。お役目の通り道やもしれませぬが」
老太太も、線の端には気づいている。
けれど、自分からは引かない。だからこそ、この人の忠告には重みがあった。
わたくしは杯を受け取って、一口飲んだ。
「老太太。あなた、この前言ったわね。追いすぎれば追われる、と」
「申しました」
「今日は、どう思う」
老太太はわずかに目を伏せた。朱盆の縁を指でそっとなぞる。
「今日も、同じでございます」
「追うべきではない、と」
「追うのをおやめなさい、とは申しませぬ。ただ、追っていることを、見せぬようになさいませ」
老太太の目がこちらに戻った。穏やかな目だった。けれどその奥には、いつもの知恵者の静かな光がある。
「姫様が気づいておいでだと、相手に悟らせてはなりませぬ。悟られれば、次に亡くなるのは、姫様のお側の方やもしれません」
わたくしは息を吸って吐いた。
老太太はそれ以上は言わなかった。茶を差し出した手はもうすっかり引いていて、次の仕事へ取りかかるために部屋の隅の衣装箱のほうへ歩いて行く。余計なことは言わない。けれど要所では必ず置いていく。
卓の上の杯を置いて筆と紙を引き寄せた。
五項目の紙を開く。先日書いた一行の下にもう一行を足した。
文官・柳旬、不敬罪により処刑。奏上から執行まで三日。一族は連座により官籍除名。柳旬は、飛び降りた女官へ薬湯を差し入れたとされる。
筆を置いて紙を見下ろした。
事件が閉じたのではない。閉じられたのだ。
飛び降りた女官へ繋がる、唯一の生きた線。柳旬は、三日で切られた。不敬罪という名札をつけて。
誰かが、急いでいる。
わたくしはまだ、その誰かの顔を知らない。
紙を伏せて杯の残りを飲み干した。
卓の上に、朱塗りの小箱がそっと置かれていた。老太太が、朝の薬袋を移した箱。蓋を開けると、緑と茶色の紙袋がきちんと並んでいる。
朝、飲んだ。明日も飲む。
そのためには、明日も生きていなければならない。
単純で、悪くない目標だ。
誰かの都合で、わたくしの人生に蓋をされてたまるものですか。




