↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/48

26.悠珀の絵


 柳旬の一件を書き留めた紙を伏せてから、三日が過ぎた。


 あの一行は、五項目の紙の末尾に静かに居座っている。続報はない。

 静岳は柳旬の家族の行方を追っているけれど、今日までに届いた報告はなかった。

 事件は、向こうの都合で閉じられた。

 こちらから開け直す材料は、まだない。


 その朝も、緑の薬を一匙飲んだ。三日目ともなれば、もう朝の手順のひとつだ。


 杯を置いて、老太太に告げた。


「今日は悠珀を呼んでちょうだい。庭で絵を描いてもらうわ」


 老太太が穏やかに頷いた。


 朝議のない日の午後は、新宮の奥に静けさが落ちる。わたくしは庭の亭に出て、椅子の上に厚手の膝掛けを重ねさせた。

 初冬の空気は乾いて冷たく、けれど日差しにはまだ柔らかな温度が残っている。


 悠珀はすぐに現れた。


 薄い緑の上衣に、画材を包んだ布袋を肩にかけている。亭の階段の下で跪こうとしたのを、わたくしは手で止めた。


「ここでは礼はいいわ。座って描いて」


「……かしこまりました」


 悠珀は階段を上がって、亭の床に布袋を下ろした。中から折り畳みの小さな画架、紙の束、墨と筆、色を入れた貝殻をいくつか取り出して並べていく。指の動きに無駄がない。

 楽器を構えるときと同じ手つきだと思った。


「何を描くの」


「今日は庭を。姫様の庭の、今日の風景を」


「いつもと違う日?」


「庭は毎日違います。今日だけの光と、今日だけの風があります」


 悠珀はそう言って画架を立てた。紙を挟み、筆を取る。墨を擦る音が、かすかに響いた。


 わたくしは椅子に腰を下ろし、膝掛けを引き上げた。最初の一線は柳の幹だった。灰色の筆致が、紙の上で柔らかく立ち上がる。


 絵を描く悠珀の横顔は、二胡を弾くときと似ていた。頬が柔らかく緩み、口元に薄い微笑みが浮いている。

 この男は、音と絵の中にいるときだけ、少しも迷わない。


 柳の幹から枝へ、枝から池の水面へ。悠珀の筆が進んでいく。時折、貝殻の色を小筆に取り、葉のわずかな黄や水の底の藍を置いていく。


「冷たくないの?」


「ふ……」


 悠珀が小さく笑った。


「冷たいですが、描いている間は忘れます」


「芸術家ね」


「姫様のお言葉なら、そう名乗らせていただきます」


 微笑みながら、筆は止めない。この男は褒め言葉をかわすのがうまい。綺麗な応対は、後援者たちの頃に身につけた鎧なのだろう。


 けれど、絵を描く手は嘘をつかない。


 筆が一度止まった。悠珀が布袋の奥から、別の紙の束を取り出した。


「姫様。よろしければ、過去に僕が描いたものもご覧になりますか」


「見せて」


 悠珀は束を円卓の上に置き、ゆっくりと広げてくれた。


 一枚目は、宮の一角の秋の景色。紅葉した楓が朱塗りの回廊にかかっている。

 二枚目は夜の池。月が水面に揺れている。

 三枚目は遠くの山並みと、薄い雲。どれも静かだった。技巧を誇るでもなく、感情を押し付けるでもなく、ただその日その場所にあったものを紙に移している。


 四枚目で、わたくしの指が止まった。


 花の絵だった。


 細長い葉の上に、空色の花弁が開いていた。百合に似た形。百合よりも細く、花弁の先がわずかに反っている。背景は薄い靄、葉の根元は深い緑の下草に沈んでいた。

 見覚えがあった。


 ――杏里村の、空色の花。


 杏里村の焼け跡の近くで、わたくしはこの花の群生を見た。畑の端に、一面の空色が広がっていた。名前を知らないまま、「焼け残った、綺麗な花」として頭の隅に置いていた。


 その花が今、悠珀の紙の上に、ある。


「この花……」


 考えるより先に、声が出た。


「はい?」


「この花は何という」


「存じません」


 悠珀は淡々と答えた。絵の説明をしているだけの声。答えるより先に、筆先が硯の縁で一度だけ止まっていたけれど、名を訊かれて思い出そうとしたのだろう。


「名のある花かどうかも、僕は知らないのです。実物は、一度しか見たことがありません」


 筆を置き、悠珀は絵に目を落とした。


「一度いただいたことがあるのです。この花を」


 わたくしの呼吸が、ほんの半拍止まった。


「いただいた? 誰から」


 少し、食いつきすぎたわね。悠珀は少し首を傾げて、わたくしを見返した。


「……芸の後援をしてくださっていた方からでございます。もう、随分と前のことです」


「いつ頃の話?」


「三年ほど前、でございましょうか。その方は珍しい花を好まれる御方で、僕の絵を見たいと言われて、一輪お分けくださったのです。描いたら、枯れる前にお返ししました。何枚も描きました。いちばん良く描けた一枚をお納めして、残りが手元にあるのです。これは、その一枚で」


「三年前」


「はい」


 懐かしむでも、嫌がるでもない。ただ、過去の事実を卓に置くような声だった。


 絵をもう一度見た。空色の花弁。葉の根元の深い緑。悠珀はこの花を手に取り、間近で見ている。

 花弁の数も、葉の反りも、この紙に残っていた。


「その後援者というのは――」


 頭の中で、銀の鈴が鳴った。


「二胡の、鈴をくれた、東鈴?」


「そうです。姫様、よく覚えておいでですね」


 悠珀は気負いなく答えた。

 ここで追えば、杏里村でこの花を見た理由まで話すことになる。


 今は、訊かない。

 わたくしは絵の束を、そっと閉じた。


「綺麗な絵ね。大切に描いてあるのがわかる」


「恐れ入ります」


「続けて。今日の絵を」


 悠珀は頷いて画架に戻った。筆が再び動き出す。


 名前は、分からないまま。杏里村のそばで一面に咲いていた、空色の花。同じ花が三年前、東鈴という号の人からこの男へ、一輪だけ届いている。――五項目の紙に、今夜また一行を足すことになる。あの焼け跡に不似合いな花畑。

 偶然として捨てるには、覚えておく価値がある。


 悠珀の筆が、紙の上で柳の葉を置き始めたときだった。

 下庭の小径のほうから、足音がした。


 顔を上げると、小径を歩いてくるのは理珂だった。腕に薄い書物を二、三冊抱えている。視線は書物に落ち、わたくしたちにまだ気づいていない。


「理珂」


 わたくしが呼ぶと、理珂は顔を上げた。わたくしに気づいて歩みを止め、一礼する。


「殿下。失礼いたしました。お邪魔にならぬよう、先を急ぎます」


「急がなくていいわ。少し顔を見せて」


 理珂は素直に小径から逸れて、亭の階段の下まで来た。書物を腕に抱えたまま、一段下から見上げてくる。


「朝のほうは、いかがでしたか」


「ええ。続けているわ」


「それは、よろしゅうございました」


 朝の薬の話だとは、悠珀にはわからない。

 理珂は余計な説明をせず、必要なことだけを確かめる。実に仕事がしやすい。


「体調にお変わりは」


「今のところないわ」


「何か感じたらすぐに」


「ええ」


 理珂はわずかに目を細めた。あの夜の名残が、その奥で一瞬だけ揺れた気がした。けれどすぐに研究者の顔に戻り、書物を抱え直す。


「それでは失礼いたします」


「ご苦労さま」


 理珂は一礼して、小径を戻っていった。背中が冬の柳の向こうに消える。


 そのとき、ふと絵のほうを見た。

 悠珀の筆が止まっていた。

 筆先が紙の手前で浮いたまま、動かない。悠珀の横顔は、さっきまでの柔らかさを失って強張っていた。焦点が、理珂の消えた小径の先にまだ残っている。


 少しして、悠珀はゆっくりと筆を紙に戻した。

 けれど、先ほどまでの迷いのない動きは戻らない。一線を引くあいだに、筆がかすかに震えた。


 この男が、絵の前で迷っている。


「悠珀」


「はい」


「寒くなってきたわね。お茶を入れさせるわ」


「……ありがとうございます」


 声がわずかに遅れた。


 老太太に目で合図すると、すぐに温かい茶器が運ばれてきた。湯気が二つ、冷たい空気の中に立つ。悠珀は杯を両手で受け、一口だけ飲んだ。喉が小さく動く。


 悠珀が理珂と会うのは、今日が初めてではない。快気祝いの席でも隣にいた。それなのに、今日だけ筆が止まった。


 理珂が変わったのか。

 それとも、わたくしたちの短いやり取りが何かを伝えたのか。


 絵師の目は、わたくしが思うより多くを見る。


 悠珀は何も訊かない。けれど、筆を握る指の関節が、白くなっていた。


 ――ああ。気づいたのね。


 口元が思わずほころびかけて、慌てて茶に隠した。


 可愛い。

 ……そして、嬉しい。


 もらう練習をしていた男が、もらえないかもしれないと知って揺れている。

 ずいぶん育ったわね、あなたの「欲しい」も。


「姫様」


 静かな声だった。


「……今日の風が、少し、変わってきました」


「風、ね」


「はい」


 わたくしは目を伏せ、茶を一口飲んだ。


 亭の外で、柳の最後の葉が一枚、音もなく池の水面に落ちた。悠珀の筆がその一瞬を拾い、紙の上にほんの小さな波紋を置いた。


 今日の絵は、きっと悪くない。


 庭は同じでも、描いている男の中身が少し変わったのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。