26.悠珀の絵
柳旬の一件を書き留めた紙を伏せてから、三日が過ぎた。
あの一行は、五項目の紙の末尾に静かに居座っている。続報はない。
静岳は柳旬の家族の行方を追っているけれど、今日までに届いた報告はなかった。
事件は、向こうの都合で閉じられた。
こちらから開け直す材料は、まだない。
その朝も、緑の薬を一匙飲んだ。三日目ともなれば、もう朝の手順のひとつだ。
杯を置いて、老太太に告げた。
「今日は悠珀を呼んでちょうだい。庭で絵を描いてもらうわ」
老太太が穏やかに頷いた。
朝議のない日の午後は、新宮の奥に静けさが落ちる。わたくしは庭の亭に出て、椅子の上に厚手の膝掛けを重ねさせた。
初冬の空気は乾いて冷たく、けれど日差しにはまだ柔らかな温度が残っている。
悠珀はすぐに現れた。
薄い緑の上衣に、画材を包んだ布袋を肩にかけている。亭の階段の下で跪こうとしたのを、わたくしは手で止めた。
「ここでは礼はいいわ。座って描いて」
「……かしこまりました」
悠珀は階段を上がって、亭の床に布袋を下ろした。中から折り畳みの小さな画架、紙の束、墨と筆、色を入れた貝殻をいくつか取り出して並べていく。指の動きに無駄がない。
楽器を構えるときと同じ手つきだと思った。
「何を描くの」
「今日は庭を。姫様の庭の、今日の風景を」
「いつもと違う日?」
「庭は毎日違います。今日だけの光と、今日だけの風があります」
悠珀はそう言って画架を立てた。紙を挟み、筆を取る。墨を擦る音が、かすかに響いた。
わたくしは椅子に腰を下ろし、膝掛けを引き上げた。最初の一線は柳の幹だった。灰色の筆致が、紙の上で柔らかく立ち上がる。
絵を描く悠珀の横顔は、二胡を弾くときと似ていた。頬が柔らかく緩み、口元に薄い微笑みが浮いている。
この男は、音と絵の中にいるときだけ、少しも迷わない。
柳の幹から枝へ、枝から池の水面へ。悠珀の筆が進んでいく。時折、貝殻の色を小筆に取り、葉のわずかな黄や水の底の藍を置いていく。
「冷たくないの?」
「ふ……」
悠珀が小さく笑った。
「冷たいですが、描いている間は忘れます」
「芸術家ね」
「姫様のお言葉なら、そう名乗らせていただきます」
微笑みながら、筆は止めない。この男は褒め言葉をかわすのがうまい。綺麗な応対は、後援者たちの頃に身につけた鎧なのだろう。
けれど、絵を描く手は嘘をつかない。
筆が一度止まった。悠珀が布袋の奥から、別の紙の束を取り出した。
「姫様。よろしければ、過去に僕が描いたものもご覧になりますか」
「見せて」
悠珀は束を円卓の上に置き、ゆっくりと広げてくれた。
一枚目は、宮の一角の秋の景色。紅葉した楓が朱塗りの回廊にかかっている。
二枚目は夜の池。月が水面に揺れている。
三枚目は遠くの山並みと、薄い雲。どれも静かだった。技巧を誇るでもなく、感情を押し付けるでもなく、ただその日その場所にあったものを紙に移している。
四枚目で、わたくしの指が止まった。
花の絵だった。
細長い葉の上に、空色の花弁が開いていた。百合に似た形。百合よりも細く、花弁の先がわずかに反っている。背景は薄い靄、葉の根元は深い緑の下草に沈んでいた。
見覚えがあった。
――杏里村の、空色の花。
杏里村の焼け跡の近くで、わたくしはこの花の群生を見た。畑の端に、一面の空色が広がっていた。名前を知らないまま、「焼け残った、綺麗な花」として頭の隅に置いていた。
その花が今、悠珀の紙の上に、ある。
「この花……」
考えるより先に、声が出た。
「はい?」
「この花は何という」
「存じません」
悠珀は淡々と答えた。絵の説明をしているだけの声。答えるより先に、筆先が硯の縁で一度だけ止まっていたけれど、名を訊かれて思い出そうとしたのだろう。
「名のある花かどうかも、僕は知らないのです。実物は、一度しか見たことがありません」
筆を置き、悠珀は絵に目を落とした。
「一度いただいたことがあるのです。この花を」
わたくしの呼吸が、ほんの半拍止まった。
「いただいた? 誰から」
少し、食いつきすぎたわね。悠珀は少し首を傾げて、わたくしを見返した。
「……芸の後援をしてくださっていた方からでございます。もう、随分と前のことです」
「いつ頃の話?」
「三年ほど前、でございましょうか。その方は珍しい花を好まれる御方で、僕の絵を見たいと言われて、一輪お分けくださったのです。描いたら、枯れる前にお返ししました。何枚も描きました。いちばん良く描けた一枚をお納めして、残りが手元にあるのです。これは、その一枚で」
「三年前」
「はい」
懐かしむでも、嫌がるでもない。ただ、過去の事実を卓に置くような声だった。
絵をもう一度見た。空色の花弁。葉の根元の深い緑。悠珀はこの花を手に取り、間近で見ている。
花弁の数も、葉の反りも、この紙に残っていた。
「その後援者というのは――」
頭の中で、銀の鈴が鳴った。
「二胡の、鈴をくれた、東鈴?」
「そうです。姫様、よく覚えておいでですね」
悠珀は気負いなく答えた。
ここで追えば、杏里村でこの花を見た理由まで話すことになる。
今は、訊かない。
わたくしは絵の束を、そっと閉じた。
「綺麗な絵ね。大切に描いてあるのがわかる」
「恐れ入ります」
「続けて。今日の絵を」
悠珀は頷いて画架に戻った。筆が再び動き出す。
名前は、分からないまま。杏里村のそばで一面に咲いていた、空色の花。同じ花が三年前、東鈴という号の人からこの男へ、一輪だけ届いている。――五項目の紙に、今夜また一行を足すことになる。あの焼け跡に不似合いな花畑。
偶然として捨てるには、覚えておく価値がある。
悠珀の筆が、紙の上で柳の葉を置き始めたときだった。
下庭の小径のほうから、足音がした。
顔を上げると、小径を歩いてくるのは理珂だった。腕に薄い書物を二、三冊抱えている。視線は書物に落ち、わたくしたちにまだ気づいていない。
「理珂」
わたくしが呼ぶと、理珂は顔を上げた。わたくしに気づいて歩みを止め、一礼する。
「殿下。失礼いたしました。お邪魔にならぬよう、先を急ぎます」
「急がなくていいわ。少し顔を見せて」
理珂は素直に小径から逸れて、亭の階段の下まで来た。書物を腕に抱えたまま、一段下から見上げてくる。
「朝のほうは、いかがでしたか」
「ええ。続けているわ」
「それは、よろしゅうございました」
朝の薬の話だとは、悠珀にはわからない。
理珂は余計な説明をせず、必要なことだけを確かめる。実に仕事がしやすい。
「体調にお変わりは」
「今のところないわ」
「何か感じたらすぐに」
「ええ」
理珂はわずかに目を細めた。あの夜の名残が、その奥で一瞬だけ揺れた気がした。けれどすぐに研究者の顔に戻り、書物を抱え直す。
「それでは失礼いたします」
「ご苦労さま」
理珂は一礼して、小径を戻っていった。背中が冬の柳の向こうに消える。
そのとき、ふと絵のほうを見た。
悠珀の筆が止まっていた。
筆先が紙の手前で浮いたまま、動かない。悠珀の横顔は、さっきまでの柔らかさを失って強張っていた。焦点が、理珂の消えた小径の先にまだ残っている。
少しして、悠珀はゆっくりと筆を紙に戻した。
けれど、先ほどまでの迷いのない動きは戻らない。一線を引くあいだに、筆がかすかに震えた。
この男が、絵の前で迷っている。
「悠珀」
「はい」
「寒くなってきたわね。お茶を入れさせるわ」
「……ありがとうございます」
声がわずかに遅れた。
老太太に目で合図すると、すぐに温かい茶器が運ばれてきた。湯気が二つ、冷たい空気の中に立つ。悠珀は杯を両手で受け、一口だけ飲んだ。喉が小さく動く。
悠珀が理珂と会うのは、今日が初めてではない。快気祝いの席でも隣にいた。それなのに、今日だけ筆が止まった。
理珂が変わったのか。
それとも、わたくしたちの短いやり取りが何かを伝えたのか。
絵師の目は、わたくしが思うより多くを見る。
悠珀は何も訊かない。けれど、筆を握る指の関節が、白くなっていた。
――ああ。気づいたのね。
口元が思わずほころびかけて、慌てて茶に隠した。
可愛い。
……そして、嬉しい。
もらう練習をしていた男が、もらえないかもしれないと知って揺れている。
ずいぶん育ったわね、あなたの「欲しい」も。
「姫様」
静かな声だった。
「……今日の風が、少し、変わってきました」
「風、ね」
「はい」
わたくしは目を伏せ、茶を一口飲んだ。
亭の外で、柳の最後の葉が一枚、音もなく池の水面に落ちた。悠珀の筆がその一瞬を拾い、紙の上にほんの小さな波紋を置いた。
今日の絵は、きっと悪くない。
庭は同じでも、描いている男の中身が少し変わったのだから。




