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27.女帝と皇配


 十二月に入った。


 朝ごとに静岳が運んでくる紙の束は、少しずつ厚くなっていた。地方からの陳情、処分の記録、徴発の通達。


 五項目が埋まる速さは、先月までとは明らかに違う。


 贅沢と無駄遣いの項目には、北の離宮の補修の通達が足された。人夫の割り当ては十郡にまたがっている。

 理不尽な処罰の項目には、柳旬のあとで二件、新しい名が並んだ。どちらも不敬罪。奏上から執行までが速い。

 連座の項目には、柳旬の家族の行方がいまだに掴めないことが一行。


 五項目の紙を閉じて息を吐いたとき、女官から使いが来た。


「皇太姫殿下。陛下より、午後の時間にご謁見をとの仰せでございます」


 筆を置いた。

 先月と同じ形だ。ただ、あれから、わたくしは女帝の良い日と悪い日を、両方見ている。今日はどちらの日だろう、と思いながら支度を命じた。


 午後。

 老太太の手で身支度を整え、静岳と護衛の颯真を伴い、女帝の宮へ向かった。冬の光は秋より低く硬く、柱の朱がいっそう深く見えた。


 女帝の宮の前殿で、静岳と颯真はいつものように回廊で控えると告げた。けれど今日に限って、取次の宦官が「宦官長もお入りください」と言い添えた。


「のちほど皇配さまが、温室よりお花をお持ちになるご予定にございます」


 静岳は短く頷き、わたくしの後ろについて本殿へ入った。颯真だけが外に残る。


 深紅の帳が垂れ、その向こうだけ昼の色が薄い。

 そこに女帝が座っていた。


 今日は、良くも悪くもない日だった。

 焦点は合っている。けれど表情が薄く、何を考えているのかが見えない。

 紅の常服。額の陽輝印。袖の刺繍を指先でなぞる癖。

 いつもの女帝の中の、何も突出しない水面のような日だった。


「華音か」


「陛下。お目通りかない、恐悦至極に存じます」


「近う」


 壇のすぐそばまで行って膝を折った。女帝の視線は先月と似ていて、威圧もなく、代わりにどこか薄い。


「執務はどうじゃ」


「滞りなく務めております」


「夫たちは」


「よく仕えてくれております」


 先月と同じ問いだった。女帝は頷いた。

 先月も同じことを訊かれた。

 覚えていないのね。


「暁遠は、まだか」


 女帝が誰にともなく訊いた。


「温室より、こちらへ向かわれております」


 取次の宦官が答えると、女帝は小さく頷いた。


 問いが途切れて、短い沈黙が落ちた。


 その沈黙を埋めるように、脇に控えていた女官が茶を運んできた。若い女官だった。所作は丁寧で、女帝の脇の小卓に杯を置く手つきにも粗はなかった。女帝は袖から手を出して杯を取り、一口含んだ。


 次の瞬間、女帝の顔が変わった。


「――誰が淹れた」


 声は大きくなかった。大きくないのに、本殿の空気が一度に硬くなった。


「は……わたくしが、お淹れいたしました」


「味が違う」


 女帝は杯を小卓に突き放した。茶がわずかに縁から零れて、漆の上に細い筋を引いた。


「昨日までと味が違う。そなた、何を入れた」


「な、何も。いつもと同じ茶葉を、いつもと同じように」


「同じであるものか。わらわの舌が分からぬと思うてか」


 女官はその場に平伏した。額が床に着くほど深く。肩が小刻みに震えているのが、わたくしの位置からも見えた。


「申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ。ただ、決して、何も」


「下がれ。二度とわらわの茶に触れるな」


 女官は平伏したまま後ずさり、戸口で一度だけ顔を上げた。血の気の引いた白い顔だった。目の縁が赤くて、けれど泣くことも許されない顔のまま、深く一礼して退がって行った。


 本殿が静まり返った。


 わたくしは膝を折ったまま、顔だけは動かさなかった。茶の味が変わったかどうか、わたくしには分からない。ただ、あの女官の手つきに何の粗もなかったことと、女帝の怒りが、何の前触れもなく噴き出したことだけは、この目で見た。


 脇に控える静岳の顔には、いつもの冷たい端正さしかなかった。けれど伏せた目が一瞬だけ、退がって行った女官の戸口のほうを追ったのを、わたくしは見た。


 女帝は何事もなかったように、袖の刺繍をなぞり始めていた。杯はもう視界に入っていないようだった。零れた茶の筋が漆の上で乾き始めている。誰もそれを拭きに出られない。


 ――理不尽だ。


 喉の奥にその言葉が浮かんで、そして沈んだ。ここで浮かべていい顔はない。わたくしは息を整えて、空白に戻った女帝の顔を見上げていた。


 先日死んだ女官も、陛下のお側の人だった。今日のあの女官が、同じことにならなければいいけれど。

 

 目のやり場に困って、視線が壇上の小卓に逃げた。杯の横に、煙管が一本、横たえてある。黒い柄に銀の飾り。火皿のまわりだけ、色が深く沈んでいる。成人祝いに届いた、わたくしの煙管とよく似ている。


 老太太が「陛下はお煙草は好まれませんね」と言ったときの、妙に長い間を思い出した。


 ……煙草以外の用途ね。


 はい、解散。親の閨まで調査対象にする気はないわ。


 ……いえ。ちょっと待って。


 たしかに閨の品なら、わたくしの立ち入る場所ではないわ。それでも、火皿の沈んだ色だけは目の底に残った。長く使い込まれた道具の色。誰が詰めて、誰が火を入れるのかしら。

 解散撤回。これは覚えておかなくてはいけないことだわね。


 やがて、予定どおり本殿の奥の扉が静かに開いた。取次の宦官がわずかに身を引いて、深く礼をする。奥の回廊から人の気配が進んできた。


「陛下。皇配さまがおいでになりました」


 女帝が扉の音に顔を上げた。


 袖の刺繍をなぞっていた指が止まり、肩からわずかに力が抜ける。表情はまだ薄い。それでも、待っていた人が来たときの顔だった。


 扉の向こうから男がひとり、ゆっくりと入ってきた。


 皇配・暁遠。


 深い群青の長衣で、歩みは静かだった。髪には白いものがわずかに混じり、それが穏やかな顔立ちによく似合っている。


 立太子の儀で目が合ったとき、この人は静かに頷いてくれた。

 あの安心を、この体はまだ覚えている。


 皇配はわたくしの存在に気づいて、わたくしの近くで足を止めた。


「皇太姫殿下」


「皇配さま。お目にかかれて光栄にございます」


 膝を折ったまま挨拶を返すと、皇配は柔らかく頷いた。


「そのままで結構ですよ。私のほうが場を横切らせていただいたのですから」


 声は深く、けれど重くない。皇族や高官にありがちな威圧がなく、部屋の空気を一度温めるような響きだった。


 皇配は小卓に残った茶の筋へ目を向けた。事情を問うことはせず、近くの女官に穏やかに告げる。


「陛下のお袖にかからぬうちに、拭いて差し上げてください」


 その声音に責める色はなかった。止まっていた女官たちが、ようやく息を取り戻したように動き出した。


 皇配は壇上の女帝に向き直った。両手に薄い絹の布を添えて、何かを捧げ持っている。小ぶりな一輪。花のようだ。布の上から薄紅が覗いていた。


 母の花印の花だ、と気づくのに一拍かかった。


 天覧蘭。わたくしの桃花にあたるものが、母では天覧蘭。華音の記憶は名前だけを知っていて、実物を見るのはこれが初めてだった。宮中の温室でしか咲かない、女帝だけの花。


 皇配は膝をついて、一輪を女帝の前に差し出した。


「陛下。今年も、ひとつ咲きました」


「まあ。今年は、もう咲かぬと思うておったのに」


「時季に遅れた分、気張った顔をしております。お目にかけることができて、安堵いたしております」


 皇配は花を絹ごと、女帝の膝の近くの卓に置いた。花弁が揺れて、冬の日差しにひとつ瞬いた。


 女帝の目に、見覚えのある喜びが戻った。


 目尻が少し下がって、唇の端が自然と上がる。手が袖からするりと出て、花弁の先に、壊さぬよう指を添えた。


「まあ」


 ほとんど吐息のような声だった。


 女帝の顔に、先月見た焦点の乱れも、苛立ちも、今日の空白もなかった。ただ、花を贈られて喜ぶ女性の顔。この数週間のあいだにわたくしが見た、どの顔よりも表情のある顔だった。


 皇配が花を置くとき、その指が女帝の手の甲にかすかに触れた。女帝は避けなかった。ほんの一瞬、指先を重ね、それから花へ戻した。


 この人たちは、ちゃんと夫婦なのだ。


 当たり前のことのはずなのに、わたくしは今日まで、この人たちが夫婦であるところを見ていなかった。壇上の独裁者と、その傍らに立つ皇配。役割だけが先に立って、夫婦という形がその下にあることを、わたくしは見落としていた。


 皇配がふと顔を上げて、わたくしに目を留めた。


「皇太姫殿下。花に目を留められましたか」


 わたくしは花から、ゆっくりと視線を戻した。目を留めていたことを、この人はきちんと見ていた。


「はい。陛下の花印の花、ですね。実物を拝見するのは初めてです」


「左様でございますか。宮の温室でしか咲かぬ、気難しい花にございます。庭師たちが今年もよく世話をしてくれました。咲いた一輪を陛下にお届けするのは、私の役目でしてね」


 役目、と言う声に、わずかな誇らしさがあった。

 長く続けてきたことを、今年も果たせた人の声だった。


 それだけ言って、皇配は視線を女帝に戻した。


 女帝は花弁に指先を添えたまま、皇配と娘の短いやり取りを静かに聞いていた。聞いていたのか、聞くともなく流していたのかは判然としない。ただ、ほころんだ顔のまま、女帝はまた花を見下ろした。


「美しいこと」


 女帝は花弁を撫でながら、かすかに笑った。


「そなたは昔から、いちばんよい一輪を見つける」


 皇配は答えなかった。答えの代わりに、女帝の膝の近くに置いた絹をもう一度丁寧に整えた。花の向きを、女帝の視線から見やすい角度に直してやる。指先の動きに、何ひとつ乱暴なものがなかった。女帝を見る眼差しが深く優しい。


 ――素敵な方。


 妻に花を渡すだけなのに、見せつけるところがひとつもない。

 この人の優しさは、誰かに評価されるためのものではないのだろう。


 皇配は、母を別人に変えたのではない。

 母の中にまだ残っている柔らかな場所を、昔から知っているのだ。

 わたくしの知らない母を、この人はきっと何度も見てきた。


 壇の下に、静岳が控えていた。

 女帝の呼吸が落ち着いたのを確かめたのか、静岳の強張っていた背中がほんのわずかに緩んだ。


 長く母を支えてきた二人には、言葉にしない役割分担があるのだろう。


 しばらくして、皇配は女帝に軽く一礼し、わたくしにも会釈をして本殿から出ていった。扉が閉まり、花だけが女帝の傍に残った。


 女帝は花を見下ろしながら、小さく呟いた。


「あの人は、いつも……昔から変わらぬ」


 声は穏やかだった。

 女帝が、花から目を上げた。


「快気祝いの折には、それぞれの得意を見せたと聞いた」


 ……届いているのね。あの日の余興まで。宮中に隠し事はできない。


「良い披露目じゃ。日を改めて、わらわにも見せよ」


「……承ります」


 それ以外の答えは、この国のどこにもない。

 女帝の目は、もう花のほうへ戻っていた。


「下がってよい」


「失礼いたします」


 本殿を出て、前殿の回廊に戻った。静岳は今日も本殿に残る。わたくしは颯真を伴って、長い回廊を戻り始めた。


 歩きながら、指先で袖の中の扇の縁をなぞっていた。


 花が母を治したわけではない。


 天覧蘭を毎年待っていた記憶と、それを届け続けた人が、ほんの一瞬、母を現在へ連れ戻したのだ。


 薬とは違う。夫婦が積み重ねた時間の働きだった。


 自室に戻ってから、筆を取って五項目の紙を開いた。末尾のあたりの空白に一行を足そうとして、ふと手が止まった。


 今日の光景は、五項目のどれにも当てはまらなかった。


 贅沢でも、処罰でも、連座でも、見せしめでも、地方の壊滅でもない。女帝が一瞬だけほころんだ昼の景色は、暗黒女帝の恐怖政治の骨組みの、どこにも書き込めない。


 わたくしは筆を別の紙に移した。


 皇配さまが、温室で咲いた天覧蘭を陛下へ届けた。毎年続けてきた古い役目。陛下は花を見て笑い、昔から変わらないと仰った。


 事実だけを並べて、筆を置く。


 同じ昼、母は茶の味ひとつで女官を退け、天覧蘭の一輪に笑った。


 どちらも母だ。

 だから、片方だけを本物だと思うわけにはいかない。何がこの人を、良い日と悪い日に分けているのだろう。


 目の焦点が合わない朝。急に変わる機嫌。同じ茶を、味が違うと言い張る舌。袖の刺繍を何度もなぞる指。並べてみると、どれも体のどこかが狂っている印に見える。


 病なら、典医が名前を付けて、治療が始まっているはず。毒なら、誰が、いつから、どうやって。


 どちらとも、まだ決められない。それがいちばん怖い。


 五項目の紙は、その問いに答えてくれない。わたくしは灯りを引き寄せて、今日の分の紙を閉じた。


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