28.兄様
朝の膳を下げさせてから、わたくしは机で例の別紙を開いた。皇配と天覧蘭のことを事実だけ並べた、五項目には当てはまらない紙。その末尾に筆を足す。
女官の死。柳旬の死。母の良い日と悪い日。煙管。
並べて、眺めて、まだ線は引けない。引けないから、書いて残す。
筆を置くと、窓の外の光が目に入った。今日は冬にしては日差しが柔らかい。
――兄様に、会いに行こう。
思い立ったら、体が先に動いた。老太太に行き先だけ告げて、上着を羽織る。
あの人がいるのは、たいてい池のほとりの築山の小径だ。この半月で、それだけは掴んでいた。
庭に出ると、空気は冷たいのに、日差しの当たる場所だけほんのり温かい。
池を回って築山の小径へ入る。
いた。
深い藍の衣。池のほとりの石の傍に立って、水面を見ている。いつもの場所、いつもの立ち姿。
わたくしは、少し離れた場所で足を止めた。
さて、どう声をかけようかしら。
皇族同士の距離で「暁雲様」と呼べば、たぶんこれまでと同じ会釈だけで終わる。
妹の距離まで、一気に詰める。
「――兄様」
暁雲の肩が、大きく揺れた。
振り向いた顔には、驚きがそのまま出ていた。目を見開いて、わたくしを見て、それから背後に誰かいるのかと視線を彷徨わせた。
誰もいない。呼ばれたのは、あなたよ。
「……皇太姫、殿下」
「華音です。兄様」
もう一度、兄様、と重ねた。
暁雲の口が、何かを言いかけて、閉じた。目が泳ぐ。この人の中で、どう受けていいか分からないものが渦を巻いているのが、離れていても見えた。
「お散歩ですか」
「……日に、当たっておりました」
「ご一緒しても?」
「……お好きに」
断られなかった。一歩前進ね。
わたくしは暁雲の隣、二歩ぶん空けた場所に立って、同じように池を見た。
水面に、冬の空が映っている。鯉が一匹、ゆっくりと藻の間を抜けていった。
沈黙が続いた。けれど、気詰まりな沈黙ではなかった。この人の沈黙は、拒絶ではなく、言葉を探す時間なのだと、なんとなく分かってきた。
「……先日は」
先に口を開いたのは、暁雲のほうだった。
「先日?」
「築山で。……礼を、失しました。名も、名乗らず」
「あら。わたくしも名乗りませんでしたわ。おあいこです」
暁雲が、わたくしを見た。おあいこ、という言葉の意味を確かめるような目だった。それから、ほんのわずかに、口元が動いた。笑おうとして、笑い方を思い出せなかった、そんな動きだった。
「兄様は、いつもこの庭に?」
「……日のある時間は。部屋は、冷えますので」
「お部屋、日当たりが悪いのですか」
「北向きです」
皇子の宮が、北向き。
女の血だけが継ぐこの国で、男に生まれた第一子の扱いが、その返事に詰まっていた。
「……そう」
怒りを顔に出さないように、水面に目を戻した。
「兄様。昨日、陛下に召されました。……目の前で、女官がひとり、理不尽に叱責されるのを見ました。今朝になっても、あの方の顔が離れなくて」
暁雲はしばらく黙っていた。それから短く息を吐いた。笑ったのだと、一拍遅れて気づいた。
「羨ましいことです」
「……羨ましい?」
「陛下は、その者を見ておられた。怒りというものは、相手を見なければ生まれません。私は陛下に怒鳴られたことが一度もない。叱られたことも、褒められたことも」
声は平坦だった。皮肉も自嘲もなかった。だからこそ、深いところへ落ちてきた。
「兄様は——」
続きが見つからない。暁雲は初めてこちらへ顔を向けた。目だけが、立太子の儀の日と同じ遠さのままだった。
「私のことは、お気になさらず。血を残すためにここに置かれている者ですので。それ以上を望む立場にありません」
「……兄様は、お母様の若い頃をご存知?」
暁雲は少し黙った。
「昔は、よく、笑っておられました」
「お母様が?」
「はい。……私が幼い頃は。庭で、花を摘んで、髪に挿してくださったことも」
声が、記憶を辿ってやわらかくなった。
「花を」
「……本当に、昔のことです」
暁雲はそこで言葉を仕舞った。仕舞い方が、大切なものを箱に戻す手つきに似ていた。
目を伏せたその袖口で、白い花の刺繍が揺れた。
「兄様の袖の、そのお花は」
「花印……唐桃です」
唐桃。
わたくしの花印は、桃の花。
兄妹ふたり、桃つながりなのね。
「また、聞かせてください。昔のお母様のこと」
「……私の話など」
「聞きたいのです。妹ですから」
妹。
その言葉に、暁雲の目がまた揺れた。
「……お戻りの時間では」
逃げたわね。でも、今日はここまでで十分。
「ええ、戻ります。兄様、お風邪を召しませんように」
一礼して、小径を戻り始めた。
数歩進んだところで、背中に小さな声が届いた。
「……妹に、初めて呼ばれました」
振り返ると、暁雲はもう池のほうを向いていた。
聞かせるつもりの声ではなかったのかもしれない。それでも、届いた。
わたくしは、そのまま歩き出した。頬が緩むのを、止めなかった。
部屋に戻ると、老太太が茶を淹れてくれた。
「楽しいお散歩でございましたか」
「ええ。とても」
茶を一口飲んで、机の別紙を見た。
事実だけの紙に、今日の兄様のことは書かない。あれは調べ物ではなくて、家族の話だから。
その代わり、頭の中の帳面に書き込んだ。
兄様は、母の花摘みを覚えている。北向きの部屋で、日のある時間だけ庭に出る。妹と呼ばれて、揺れる。
この宮で、わたくしが家族の卓に着かせたい人が、また一人増えた。
窓の外で、冬の日が少し傾いていた。




