29.お披露目会
理珂の緑を飲み始めて三週。予告どおり、擬似的な月のものが来た。今週末には落ち着くはずだ。
その間は、誰も夜に呼ばない。この国の流儀だから怪しまれもしない。夜はひとりで、静岳の報告を整理した。
前世の深夜残業に比べれば、扇を弄びながら紙を睨む程度、贅沢の極みよ。
朝。
静岳が朝の束を運んできた。いつもの五項目の紙に落とす情報の下に、別の一枚が挟まっている。
「姫様。こちらは別の話でございます」
「何?」
「南方の阜水という地方に、年若い男女の二人連れの噂が立っているそうです。焼け出された村の者だと名乗っているとか」
南を探らせてから、届くのは空振りの報せばかりだった。
わたくしは筆を止めた。
「瑞華たちなのね」
「ただの噂でございますから、まだ確度は低うございます。似た者、というだけのことかもしれませぬ」
静岳は断定しない。それでも報告へ上げたということは、確度はゼロではない。
動く前に共有する。有能な部下の基本ね。
「似た者たち、ね」
「はい」
五項目の紙の横に、新しい一枚を置いた。筆で一行だけ書く。阜水に二人連れの噂。焼け出された村の者。追って確認。
紙を畳んで、息を吐いた。
瑞華と烈央が、聖典の結末へ向かって動き始めている。
会って、女帝の様子がおかしいことを伝えたい。首を刎ねる以外の道があるはずだ、と。
……駄目ね。
家族と故郷を失った二人に、そんな言葉だけ届くはずがない。
情報は集めた。けれど、資料を揃えただけでは人は動かない。理解と納得を得て、次の行動へ繋げる。
プレゼンは、そこまで作って完成よ。
「ありがとう、静岳」
静岳が一礼して退がった。部屋の入口で、颯真が静かに静岳を見送る。
そして昼からは、御前で夫たちのお披露目。
快気祝いの余興を、わらわにも見せよ。母の一声で決まった。四人の夫候補を並べて芸を披露するのだから、参観日と発表会と披露宴を一度に開催するようなものだ。
演目は、わたくしにも秘密。
本来、緊張するのは夫たちのはずなのに、なぜかわたくしのほうが恥ずかしい。
……いいえ。開き直りましょう。四人とも、わたくしが選んだ男たちよ。
支度を整えて、老太太と颯真を連れて内廷の広間へ向かった。
広間は、祝いの日らしく明るかった。
高い格天井から幾筋もの薄絹が垂れ、朱と金で彩られた灯籠が昼の光を受けて柔らかくきらめいている。磨かれた白い床にはかすかに揺れる絹の彩りが映り、どこか祭りのような華やかさがあった。
その中央に、家族の席が整えられていた。壇上に母と皇配さま。下には父の律音。そして、少し離れて兄様までいる。
なぜ兄様まで。
母が呼んだのだろうか。急に家族の形を思い出したらしい。
兄様は、少し離れた席で目を伏せていた。
家族の形を思い出したわりに、母の三人目の夫は今日もいない。立太子の後の午餐に呼ばれなかった人は、今日も呼ばれないままらしい。顔を知らないのも、そのまま。
女官が数名、壁際に控えている。壇の下には静岳。いつもの顔ぶれに、いつもより柔らかい空気が乗っていた。今日の母は、良い日らしい。目の焦点が合っている。壇上から夫たちを眺める顔に、うっすらと面白がる色さえある。
「始めよ」
最初は、颯真だった。
名を呼ぶと、颯真が中央へ進み、軍に伝わる拳の型を打ち始めた。
直前まで四人でいちばん緊張していたのに、踏み込めば床が鳴り、突きの先で空気が切れる。派手さはない。ただ、止まる位置が寸分も揺れなかった。
女帝が小さく頷いた。拍手が沸いた。
「強い男を選んだな。華音、良い目じゃ」
「恐れ入ります」
母娘のやりとりに、颯真はほっとしたように人懐こい笑顔を浮かべ、礼をして席へと戻った。
二番目は、理珂。
理珂は小卓へ、透き通った器と色のついた液を並べた。
……何をする気。
御前で毒の講義を始めたら、扇を投げるわよ。
理珂は無言で、ひとつの器の液を、ふたつの器へ注ぎ分けた。同じ淡い色の液。それから、左右の器に別々の水差しから水を足す。
左は澄んだ青へ、右は淡い紅へ変わった。
女官たちから声が上がる。光に透けた色は薄い層を作り、底から花びらめいたものが舞い上がった。
きれい。
あの理珂が、ちゃんと「見せる」ことを覚えている。
理珂は器を掲げて、一言だけ言った。
「水が違えば、色が変わります」
それだけ。仕組みの講釈はなし。一礼して下がる。
女官たちが沸いた。母までが、少女のような顔で楽しげな顔をしている。
「そなたの夫は見目ばかりでなく、やることも綺麗じゃ。これは良い」
……あの理珂が。人に、女性に、ウケることをやっている。女帝を喜ばせた。
実験と講義と「堅牢」の男が、御前で座興を披露して、場を沸かせた。誰の入れ知恵よ、これ。
老太太を見る。済ました横顔。
……あなたね。
三番目は、怜鳳鳴。剣舞だという。
伴奏に、悠珀が呼ばれた。いつのまに二人で相談していたのかしら。これももしかすると老太太の差配かもしれないわね。
悠珀は広間の隅で二胡のケースを引き寄せた。持ち手の銀の鈴が、ちりりと鳴る。
その澄んだ一音に、律音が顔を上げた。
「……良い音だ」
控えめな声だった。けれど、続く言葉は止まらなかった。
「律に、合っている。悠珀どの、その鈴は、調弦に?」
「さすがでございます。仰るとおり、この鈴の音が、ちょうど律の高さにございます。狂いのない音ですので、調弦の基準に。手放せない一粒です」
「ほう……」
律音が目を細めた。父のこんな声を、初めて聞いた。音楽のことになると、この控えめな人の中の何かが、少しだけ前に出てくるらしい。
悠珀と、どこか通じるものがあるのかしら。
そこへ、壇上から声が降った。
「して、その鈴はなんじゃ。どこで手に入れよった」
女帝だった。
「以前、花の絵を描きました折の、頂き物にございます」
「絵の対価に、鈴とは。誰じゃ」
「号を、東鈴さまと仰る方にございます。文と鈴だけを頂き、お目にかかったことはございませぬ」
「ふうん。酔狂な者もおるものじゃ」
女帝の興味は、そこで逸れた。
東鈴。
名を伏せて花の絵を求め、律の高さの鈴を対価にする。
趣味のいい隠者、という像が浮かぶ。
悠珀が調弦を終えた。
怜鳳鳴が広間の中央に立って、剣を抜いた。
二胡の旋律へ、剣の光が重なった。
颯真が精度の武なら、怜鳳鳴は見せる舞。旋律の山で剣先が伸び、谷で沈む。大きな体が回るたび、袖が遅れて翻った。
武術としては知らない。けれど、目を奪う。
舞い終わって、怜鳳鳴は剣を納め、壇上へ流れるような礼をした。息ひとつ乱れていない。女官たちの拍手が、理珂のときより少し長かった。
「これはまた見事であった。麒家の者であったな。南の男らしくて良いのう」
女帝はそう言って皇配さまを見た。皇配さまが柔らかく口元を緩め頷いている。
「暁遠。久しぶりにそなたも舞ってみせよ」
まさかここで皇配さまが。
驚いたところで、すぐに穏やかな声が続いた。
「では、今夜」
二人で目を合わせて、急にしっとりとした雰囲気になった。
娘の披露宴で、親のほうがラブラブってどういうこと。
そして、最後が悠珀だった。
伴奏者から、今度は主役へ。
悠珀は中央で二胡を構え直した。硬かった指も、最初の一音が伸びるころには柔らかくほどけていた。
ふと見ると、兄様は目を伏せたままだった。ただ、袖の上の指だけが、二胡の拍子を一度なぞった。
穏やかな旋律が、広間の温度を少しずつ上げていく。どこか懐かしい、ゆるやかな恋の曲。
そこへ、悠珀の声が重なった。
歌を聞くのは初めてだ。柔らかな声が二胡へ寄り添い、もう一つの楽器のように響く。
――人の心は 七変化
――朝に青く 夜に赤く
いい詞。誰が書いたのかしら。この国の古い恋歌には、案外きれいなものがあるらしい。
――あなたが欲しい
扇を持つ手が止まった。
――欲しくてたまらない
いま、なんて言った?
――雨のように 花のように
――触れていたい 触れてほしい
ちょっと待って。これ、恋歌。それも、ものすごく直球の。
御前で。母、父、義理の父、兄。家族勢揃いの前で。
悠珀は目を閉じ、二胡も喉も熱く震わせて、まっすぐこちらへ歌っている。
この男、こんなに色っぽかったかしら。
――あなたの唇に 目を奪われ
――ただせつなくて 欲しくて
頬が、熱くなる。
うそ。このわたくしが? この場で?
顔に集まっていく熱を、扇の陰に隠した。隠しながら、視線だけを動かす。女官たちはうっとりと聴き入っている。律音は目を細めて、拍子に合わせて指先をかすかに揺らしている。壇上の母は――面白がっている。娘の顔と、歌う夫とを、交互に見て。
最悪だわ。全部、見られている。ますます恥ずかしさに顔が熱くなる。
兄様だけは、こちらを見ないでいてくれた。ありがたい。
そのとき、悠珀が目を開けた。
わたくしを見て、扇で隠しきれなかった顔の色に気づいた。
弓が、ほんの一拍、揺れた。
見開いた目に、自分が何を歌っていたのかを、いま知った者の色が浮かんだ。声が一瞬掠れかける。……けれど、落ちなかった。悠珀は目を閉じ直して、掠れごと旋律に混ぜて、最後まで歌い切った。芸が、男を支えていた。
最後の一音が、広間の高い天井に昇って、消えた。
静けさのあと、拍手が来た。今日いちばんの長さだった。壁際には、頬を染めた女官が数名。今にも倒れ込みそうな者まで。
悠珀は立ち上がって、深く一礼した。伏せた顔の、耳だけが赤かった。
「良い声じゃ。華音をこれほど赤らめるとはのう。仲の良いことじゃ」
女帝が言った。
「そなた、良い夫たちを持ったの」
母の目が、確かに笑っていた。
今日は本当に良い日らしい。こんな母を、もっと知りたいと思った。
「恐れ入ります」
答える声が、自分でも少し上ずっていた。
皇配さまが、悠珀に穏やかに声をかけた。
「見事なものだ。良いものを聴かせてもらった」
「……もったいないお言葉にございます」
労いの声は、いつもどおり静かで、温かかった。
律音が、席から悠珀に歩み寄った。
「悠珀どの。あの節回しは、どちらの……いえ、あとで。あとでゆっくり、聞かせてください」
控えめな父が、音楽のことだけは我慢できずに前へ出た。悠珀も嬉しそうに頷く。
父と夫が並んでいる。妙だけれど、悪くない眺めだった。
帰りの回廊で、悠珀が半歩後ろを歩いた。
「……悠珀」
「はい」
「いい曲だったわ」
「……恐れ入ります」
声が掠れている。
「続きは、また今度」
「……はい」
悠珀の耳が、また赤くなった。
「そういえば、歌は誰に習ったの」
「習っておりません。……母が、歌のうまい人だったそうです」
悠珀は無意識のように、二胡のケースの持ち手の鈴に触れて言った。
少し前を行く颯真の背中が、いつもより静かだった。
恋歌を聴いて、思い出す顔があったのだろう。この人には、帰りたい人がいる。
いつか必ず、返してあげるわ。約束は、忘れていない。
夜。
ひとりで扇を弄びながら、昼の出来事を思い返した。
……おかしい。
もっと大胆な場面でも平然としてきたのに、恋歌一つであの有様。
たぶん、悠珀だったからだ。
普段は気持ちを二胡へ預け、言葉は遠くから投げてくる男が、あんな直球を無自覚に歌った。
自覚して口説かれたなら、受け流せた。
無自覚は反則よ。
まったくもう。うぶな女みたいに。
ふう、と息を吐いた。
悠珀に惚れたわけではない。
ただ、無自覚の直球に足を取られた。段差を見落としたようなもの。事故よ、事故。
そういえば、怜鳳鳴はどんな顔をしていたかしら。
赤くなったのを、見られた?
……ん?
扇を閉じる手が止まる。
待って。なぜ、いま怜鳳鳴?
悠珀の恋歌で赤くなった直後に、なぜあの男の顔が浮かぶのか。理珂でも颯真でもなく、あの男。意識のどこかが、ショートカットで怜鳳鳴のところへ飛んだ。その経路の設計図が、自分でも読めない。
最近、あの男を呼んでいない。そろそろ呼ばなくては。夫候補への務めとして――
自分で考えて、自分で笑った。
はいはい。務め、務め。
答えは、今夜出さなくていい。
明日、静岳に怜鳳鳴を呼ぶよう言いつけよう。
そう決めると、胸の奥が少し静かになった。
理由まで追えば朝になる。今夜は寝る。
窓の外では、冬の月が雲の切れ間に細く浮かんでいた。遠い阜水で、瑞華たちも同じ月を見ているかもしれない。
プレゼンは、明日また組み直す。
本日の敗因、恋歌一曲。




