30.愛馬
擬似的な月のものが、そろそろ終わる朝だった。理珂の指示どおり、緑の薬は休んでいる。
朝の粥を二口ほど食べて、老太太に告げた。
「馬場に行くわ。火鹿毛に会いたいの」
「かしこまりました。颯真様に、お声がけを」
怜鳳鳴を呼ぶと決めたものの、まだ夜には呼べない。
なら、昼に火鹿毛へ会いに行けばいい。
口実として自然。しかも、会いたいのも本当。完璧ね。
颯真を伴って、新宮の奥の馬場へ回廊を抜けた。冬の風が、衣の裾を軽く持ち上げる。
馬場の門をくぐった瞬間、様子がおかしいことに気づいた。
厩番が三人、厩の入口に集まって中を覗き込んでいる。普段の火鹿毛の厩は静かで、厩番はひとりで黙々と世話をしているはずだった。
「何があったの」
厩番たちがはっと振り返って膝を折った。
「殿下。……火鹿毛が、急に。震えが止まらず、泡を吹いておりまして」
わたくしは厩に歩み寄った。颯真が一歩先に出て警戒する。
火鹿毛は立っていたが、四肢が震え、口元には泡が浮いている。わたくしを見ても首を寄せてこない。鼻先に触れると、熱い息だけが掌にかかった。
――中毒?
前世で見た、薬草を誤食した犬の症状に似ていた。待っていてよくなる状態ではない。
「颯真。理珂を、すぐに。それから怜鳳鳴も」
「ただちに」
駆けていく背中を見送って、わたくしは厩番に向き直った。
「今朝、火鹿毛に何か与えた? 水、飼い葉、それ以外のものでも」
「飼い葉も水も、いつも通りでございます。……ただ」
いちばん若い厩番が、ためらいながら口を開いた。
「つい先ほど、二胡の君が、火鹿毛に、何かを」
「悠珀が?」
「はい。火鹿毛の鼻先に、ひらりと掌を出されて、火鹿毛がそれを食べておりました。時折お立ち寄りになるのです。馬場の様子を絵に描かれたり、火鹿毛にお声を掛けられたり」
指先が止まった。
悠珀が?
けれど、問いただすのはあと。今は火鹿毛が先だわ。呼吸が浅く、早い。
足音がした。颯真に連れられた理珂が、息を切らして駆け込んできた。
「殿下。状況を」
「震え、泡、発汗。口に入れたものはおそらく毒。吐かせて」
「承知しました」
颯真には、今度は悠珀を連れてくるように言う。
理珂は懐の小袋から黒い粉を取り出した。
「炭を細かく砕いたものです。水に溶いて飲ませます。毒を吸いつけ、体に回る量を減らせるかもしれません」
厩番が桶を運び、理珂が粉を水に溶く。
「水も少しずつ。無理に歩かせないでください。口にしたものが残っていれば、すべて回収を」
理珂の指示に、厩番たちが一斉に動く。火鹿毛が首を振るたび、理珂と厩番が押さえた。
門のほうから、激しい足音。
怜鳳鳴だった。常の落ち着いた歩みではなく、走っていた。外套の裾が乱れている。
「火鹿毛」
男の声が、わたくしの聞いたことのない温度で出た。怜鳳鳴は厩に踏み込んで、愛馬の首に手を置いた。その手が震えている。この男の手が震えるのを見るのは、初めてだった。
「間に合いました」
理珂が淡々と言った。
「炭が毒を抱えて、外へ流します。体の大きい馬です。回りきる前に抱え込めれば、助かります」
「……理珂殿。恩に着る」
「殿下のご指示です」
理珂は顔を上げずに答えた。そのあいだも、手は動き続けていた。
火鹿毛の体が一度、大きく波打った。脚が藁を掻き、荒い息が厩に響いた。
そのとき若い厩番が、敷き藁の間から小さな欠片を拾い上げた。
「殿下、こちらが」
崩れかけた砂糖の塊だった。表面に、砂糖とは違う粉が薄く付着している。
理珂がほんのわずかに眉を寄せた。
「殿下。この粉はただの砂糖ではありません。持ち帰って調べます」
炭の水を三度に分けて飲ませるうちに、震えが少しずつ収まり始めた。理珂は火鹿毛の口元を洗い、耳の後ろに手を当てて熱を測った。
「震えは弱まっています。ですが、まだ安心はできません。今夜は付ききりで様子を見てください」
怜鳳鳴の体から、ひとつ大きな息が抜けた。火鹿毛の首筋に額を押し当てて目を閉じる。
わたくしはその横で、たてがみをそっと撫でた。
彼の指が、触れた。わたくしの小指の脇と、大きな手の甲が、火鹿毛の首の上で自然に触れた。
怜鳳鳴が顔を上げて、わたくしを見た。
「殿下。理珂殿を、ありがとうございます」
真摯な感謝だった。いつもの誘う色は、どこにもない。
「助けるのは当たり前よ」
わたくしは指を引かなかった。怜鳳鳴も引かなかった。火鹿毛の熱が、触れた指のあいだにあった。
そこへ颯真が戻ってきた。
「姫様。悠珀殿を呼んで参りました」
颯真の声で、怜鳳鳴の手がゆっくりと退いた。
厩の入口に、悠珀が立っていた。わたくしは夫たち以外の者を下がらせた。
悠珀の顔は血の気が引いていた。火鹿毛と、敷き藁の砂糖、怜鳳鳴、理珂、わたくしを順に見た。視線が、最後に砂糖の塊で止まった。
そして、凍った。
怜鳳鳴が一歩、悠珀へ踏み出した。
「悠珀殿。火鹿毛に、何を与えた」
声が、低かった。声に刃が混じる。
悠珀は口を開きかけて、閉じた。
「答えよ」
怜鳳鳴がもう一歩踏み出した瞬間、颯真があいだに体を入れた。
「怜鳳鳴殿。殿下の御前だ」
「颯真殿。どけ」
「どかない」
颯真の声も低かった。普段の爽やかさではなく、武人の声。二人のあいだに、ぴりりとした空気が走った。
わたくしは、一歩前に出た。
「止めなさい。ふたりとも」
二人の男が、わたくしを見た。
「悠珀。あなたを信じる。わたくしに言いなさい。何を、与えたの」
悠珀の肩が、一度震えた。視線が床の塊に落ちて、わたくしに戻った。唇が動くまでに、たっぷり一息分の時間があった。
「……砂糖です。火鹿毛の好物だと、以前の茶会で怜鳳鳴様がおっしゃっていました。砂糖を丸めたものを、ことのほか好むと。頂き物の砂糖が手元にございましたので、ひと塊、差し上げました」
声は掠れていたが、嘘の声ではなかった。自分が何を引き起こしたのかを、理解している人間の声だった。
「その砂糖は、誰から?」
悠珀は答えない。誰かを庇っているのだろうか。
「悠珀。あなたが火鹿毛を害そうとしたとは思っていない。だから、答えて」
揺れる瞳が、わたくしの視線を受け止めた。
「……陛下からの、下賜でございます」
厩の中が、しん、と静まった。
怜鳳鳴の顔から刃の温度が引き、代わりに別の種類の硬さが顎のあたりに現れた。颯真の肩の線も変わった。
女帝から、悠珀への下賜。
火鹿毛でこの状態なら、悠珀が口にしていたらどうなった。
けれど――なぜ、悠珀?
女帝が悠珀を狙う理由が、ひとつも思い浮かばなかった。悠珀は四人の中で、最も政治から遠い。派閥も後ろ盾もなく、武力もない。
それに、もしも女帝が悠珀を罰したいのなら、口実などいくらでも作って堂々と罰することができる。まどろっこしい毒など、要らない。
誰かが動いている。女帝の名前を使って。
けれど、夫たちはみな「女帝が悠珀を狙った」と受け取っている顔をしている。この受け取り方を、今崩すのは得策ではなかった。
「悠珀。あなたは、悪くない。火鹿毛の好物を知っていて、あげただけ」
悠珀の目が、ほんのわずかに潤んだ。
「でも、今日から、頂き物はまずわたくしか静岳に見せて。どんな些細なものでも。いいわね。砂糖の残りはある?」
「……はい。姫様」
「颯真。悠珀をお部屋まで送って。砂糖の残りを受け取って、後で持ってきてちょうだい。悠珀を一人にしないで。護衛のできる宦官もつけて」
「承知しました」
颯真は怜鳳鳴へ向き直った。
「怜鳳鳴殿。姫様を頼む」
怜鳳鳴が頷き、ぐったりとした火鹿毛の首に手を戻した。
「殿下。この砂糖は、私が預かる。処分せず、保管しておく」
「お願い」
「……重ねて、恩に着る」
今度の声は、さっきよりも深かった。
理珂が道具を片付けながら、こちらを見ずに言った。
「殿下。今夜は、自分をお呼びください」
わたくしは一瞬、耳を疑った。
「……今夜?」
理珂がこちらを向く。
「ご褒美に、今夜の殿下をいただきたいです」
声は、いつもと同じ温度で淡々としていた。報酬を要求する研究者の声。けれど、わたくしを見る目には明らかに艶のある色があった。
怜鳳鳴の顔が、硬くなった。悠珀の肩が、こわばった。
わたくしは一度、息を吐いた。火鹿毛を救ったのは理珂だ。報酬を求める権利くらいはある。
「わかったわ。理珂。今夜、いらっしゃい」
「はい」
颯真が悠珀の肩に手を置いて、厩の外へ促す。悠珀は一度だけ振り返ってわたくしを見た。颯真がそっと背を押して、二人は厩を出た。
わたくしは火鹿毛の首筋を最後に一撫でして、厩を出る。怜鳳鳴が護衛として後に続く。何も言葉を交わさないまま歩き、部屋の前で別れた。彼はまたすぐに火鹿毛の側に戻るだろう。
部屋の前では、もう静岳が待っていた。相変わらず耳が早い。
「静岳。聞いたわね」
「大筋だけ」
部屋に入って、卓を挟んだ。
「陛下からの下賜、となっているわ」
「はい」
「静岳。これは、陛下のご判断ではないと思う」
静岳の目がひとつだけ動いた。
「根拠は」
「狙いが、合わないわ。陛下には悠珀を消す理由がないし、その気なら毒など使わず処罰できるでしょう」
「……同意いたします」
「誰か別の手が動いているわ。陛下の名を使って。下賜の経路を、調べて。陛下のお手元から、どの段階で、誰を通って悠珀に渡ったのか」
「承知いたしました」
静岳は短く頭を下げた。
「姫様。『誰か別の手』の見当は」
「人の見当は、ないわ。ただ、順番がひとつ引っかかっている」
静岳が目だけで先を促した。
「お披露目の場で、悠珀は鈴と花の絵の話をした。東鈴という号も、あの場で出た。あなたも聞いていたわね」
「はい」
「その、すぐあとの毒よ」
「……偶然やもしれませぬ」
「偶然かもしれない。だから確かめるの。誰が砂糖に毒を仕込んだのか。なぜ悠珀なのか。花の絵が、どうして人の命に関わるのか」
「東鈴の筋を、当たれと」
「ええ。号の主を探して。それから、あの場にいた顔ぶれを書き出しておいて。……誰かが動いている。そこまでは確かね」
「承知いたしました」
静岳は目を伏せた。
「それと、姫様。阜水の件、裏が取れましてございます。二人連れは互いを名で呼んでおりました。瑞華、烈央、と」
――見つけた。
最悪の日に、待ち望んだ報せが来た。
「お気をつけを」
「ええ」
静岳が退がってから、五項目の紙を開いて、末尾に一行を足した。
火鹿毛に毒の砂糖。お披露目のすぐあと。東鈴の号は、あの場で出た。
筆が、一度止まった。
杏里村も、この砂糖も。先に動いたのは、いつもこちらだ。
敵は、わたくしを見て急ぐ。静岳と確かめた一行が、また一つ裏書きされた。
女官、柳旬、花と鈴、砂糖。末尾の行は、もう五項目の枠からはみ出し始めている。それでも、書いて残す。
夜。
本来なら、夜伽のない時期だ。
けれど理珂を呼ぶと、全員の前で約束してしまった。
理珂が意気揚々と入ってきた。珍しく足取りまで軽い。期待しています、と全身に書いてある。わかりやすい。可愛くて困る。
「殿下」
「いらっしゃい。座って」
理珂は円卓の向かいに腰を下ろした。わたくしは一度、目を伏せた。切り出すしかなかった。
「理珂。今夜、夜伽はないの」
「……え」
「擬似的な月のものの時期よ。あなたの薬が正しく効いている証拠よ。この時期は夜伽をしないの」
理珂が、きょとんとした。
「呼び出し、は、されましたが」
「呼び出したわ。でも、夜伽はなし。他の話をしましょう」
「……他の、話」
「この時期はね、敏感なのよ。理解して」
理珂の表情が、ゆっくりと変わった。研究者の目が一度だけ瞬いて、それから、この天才は、まっすぐにわたくしの顔を見て言った。
「敏感、とは。感じやすい、ということですか」
わたくしは天井を見た。この天才の語彙の中で「敏感」という単語がいま、ひとつしかない意味で定着しようとしていた。
「違うっ!」
気がついたら叫んでいた。
「違うの。痛みとか、不調とか、そういうほうの敏感。触れられたくないの。とにかく、今夜は、夜伽はなし。わかった?」
「……かしこまりました」
理珂が深く頷いた。頷きながら、まだ少し不思議そうな顔だった。
「つまり、感じやすいから触れられたくない、と」
「理珂」
「はい」
「お茶にしましょう」
「……承知しました」
わたくしは手元の扇をぱちりと閉じて、老太太に茶を言付けに立ち上がった。
背後で理珂が、『敏感にも種類がある』と小さく呟いた。
そこから研究を始めないでちょうだい。
窓の外で冬の月が、昼より少しだけ鋭くなっていた。




