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31.あなたが、欲しい(1)


 翌朝、呼ぶと颯真はすぐに来た。いつもどおり隙のない姿で、円卓の前に膝を折る。


「姫様。昨夜のご報告に上がります」


「座って。お茶を」


 颯真は椅子に腰を下ろした。武人の姿勢のまま茶器を受けて、一口だけ唇を湿らせてから杯を置いた。


「悠珀殿は無事にお部屋へ送り届けました。護衛の宦官を二人つけ、今朝も交代で控えさせております」


「ありがとう」


「今朝伺った折、画材と弦の取次が届け物に参っておりました。長年の馴染みの筋だそうです。念のため品を検めましたが、絵具と紙、二胡の弦。曇りはございません」


「そう。いまは、どんな些細な出入りも検めて」


「承知しております」


「それから、砂糖の残りを預かって参りました」


 颯真は懐から薄い紙包みを取り出して、円卓の上にそっと置いた。開くと、中に丸めた砂糖の塊がいくつか入っていた。


「ご苦労さま。これは、後で理珂に調べさせるわ」


「承知いたしました。悠珀殿は、ご自分では食しておられぬご様子でした」


「悠珀は、甘いものを食べないの?」


「甘味は好まれぬそうです。下賜品ゆえ受け取ったものの、口にはせず文机に置いていたと」


 颯真は一度言葉を切った。


「火鹿毛の好物だと思い出し、馬場を描きに行ったついでに与えたそうです」


 わたくしは小さく息を吐いた。


 悠珀が甘味を好まず、火鹿毛の体が大きかった。偶然が重なって、誰も死なずに済んだ。

 幸運。今は、そう呼んでおきましょう。


「馬場の絵は、あったの?」


「お部屋に伺ったとき、文机の上に紙が広げてありました。馬場が少し、墨で描かれている途中でした」


「描きかけだったのね」


「ただ、もう一枚、別の絵がございました」


 颯真の声が、妙に平らになった。


「火鹿毛ではなく、姫様のお姿が」


 わたくしは茶杯を置いた。


「わたくし?」


「はい。姫様のお顔が」


 颯真は目を伏せたまま、声の調子を変えなかった。


「私が『これは姫様ですか』と尋ねますと、悠珀殿は『そうです』と。『最近、ずっと姫様の絵しか描けない、気づくと描いている』と仰いました」


 わたくしは、一度ゆっくりと息を吸って吐いた。


「他の絵は」


「文机の周りにも、姫様の絵が何枚もございました。執務中、庭の亭、古筝を弾くお姿。横顔も、後ろ姿も」


「全部、わたくし?」


「はい。以上です。……報告すべきことと判断いたしました」


「そう。正しい判断よ」


 やがて颯真は一礼して退がっていった。扉が閉まる音がいつもと同じ、過不足のない音だった。


 ぬるくなった茶を揺らすと、水面に自分の顔がぼやけた。


 悠珀が、気づくとわたくしの絵を描いている。


 風景と花ばかり描き、欲しいものを持たなかった男が、今はわたくしばかり描いている。


 育ったのね。


 本人が認めるより先に、手が『欲しい』と言っている。素直な手。


 杯を置いて、わたくしは老太太に向かって言った。


「老太太。今夜、悠珀を呼んで。二胡じゃなく、絵の道具を持ってくるように、と」


「かしこまりました」


「夕餉のあと、湯を使ってから来るように伝えて」


 老太太は何も言わずに頷いて、軽く一礼して扉を閉めた。


 その日の執務は、いつもより早く片付いた。

 仕事が早かったのか、わたくしが急いだのか。そこは考えないことにした。


 夜。


 戸が静かに開いて、悠珀が入ってきた。


 湯を使ってきたのだろう、髪の先がまだうっすらと湿っている。湯上がりの熱に、墨と木の匂いが淡く混じっていた。薄い夜着の上に羽織を重ねていて、肩幅の細さがいつもより目立った。表情は固かった。昨日の事件の余波が、まだ顔の輪郭に残っている。


 わたくしは寝台ではなく、円卓の前で待っていた。


「いらっしゃい。座って」


「……失礼いたします」


 悠珀は円卓の向かいに腰を下ろした。膝の上にきちんと手を揃える。視線は卓の縁に落ちていて、わたくしを見ようとしない。


「昨日の件で責めるために呼んだのではないわ。あなたに非はない」


 わたくしは先に言った。悠珀の肩がほんの少しだけ動いた。


「……はい」


「顔を上げて」


 悠珀がゆっくりと顔を上げた。いつもの透明な微笑みはない。代わりに、何かに耐えているような緊張があった。


「颯真から、聞いたわ。あなたの部屋に、わたくしの絵がたくさんあったと」


 悠珀の目が、わたくしを見たままゆらりと揺れた。


「……」


 返事がない。けれど目は逸らさない。逸らすことすら、今夜のこの男にはできないらしい。


「気づくと、わたくしを描いているそうね」

「……はい」

「重症ね。いつから?」


 悠珀はしばらく答えなかった。指先が膝の上でほんのわずかに動いた。やがて、低い声で言った。


「わかりません。気づけば紙の上に姫様がいて、次の紙にも、また」


「描かなかった日は」


 悠珀の声が、わずかに震えた。


「描こうと決めるのではなく、描かずにいられないのです。……申し訳ございません」


 わたくしはまっすぐに言った。


「謝ることではないわ。あなたの中に『欲しい』が育った。それだけでしょう?」


 悠珀が、息を呑んだ。

 小さな音だった。けれど、聞き逃さなかった。


「……姫様」


「うん」


「僕は、自分の中に何が育っているのか、うまく言い当てられません」


「まだ名前はいらないわ。ただ、あることだけは認めなさい。あなたが欲しがった、あなた自身の気持ちよ」


 悠珀の目に、薄い水の膜が張った。

 昨日とは違う理由で、その目が潤んだ。


「悠珀。今夜も、わたくしを描きたい?」


「……はい」


「なら、一枚描いて。今度は、目の前で」


 悠珀は数瞬、息を止めた。それから、ぎこちなく頷いた。


「……かしこまりました」


「では、寝台の脇へ画材を。少し、いつもと違うわたくしを描かせてあげる」


 悠珀の頬に、はっきりと血の気が上った。


「……姫様」


「これは、昨日の埋め合わせでも、褒美でもないわ」


 わたくしは、それだけ先に言った。


「あなたが描きたいなら、描きなさい」


 悠珀が深く息を吸って、それからゆっくりと吐いた。


 わたくしは立ち上がって、寝台の脇に進み、帯にゆっくりと指をかけた。悠珀は画材を取り出し、紙を広げた。


 寝台の縁に腰を下ろして、わたくしは衣を肩から少し緩めた。肘をついて、横向きの姿勢になる。


 火鉢の炭が静かに熾きている。部屋は十分に温かい。


 それなのに、妙に落ち着かない。


 人に絵を描かせるだけで、こんなに緊張するものだったかしら。


 悠珀の筆が動き始めた。最初の一線は、肩の輪郭だったらしい。墨の落ちる音はほとんどしなかったけれど、悠珀の呼吸の音が、いつもより少し速くて、深い。絵に集中しようとして、どうしてもできない呼吸だった。


 悠珀の視線が紙へ落ち、わたくしへ戻る。繰り返すたび、その時間がわずかに長くなった。


 それでも、絵師の目だった。芸術家の真摯な目。


 けれど、時折、筆が止まる。


 絵師と男のあいだで、悠珀の心が揺れている。


 ……どちらが勝つのかしら。


 わたくしは、そこへ最後の一押しをした。


「いまわたくしは、あなたが欲しい、と思ってるわ」


 悠珀の喉がもう一度動いた。さっきよりも大きく。唇が震えている。


 でも、筆は震えていなかった。悠珀は描き続ける。絵師としての矜持を保つ男の手。

 とてもいい。


 やがて、筆が紙から離れた。

 けれど悠珀の目は、もうわたくしから離れなかった。

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