32.あなたが、欲しい(2)
悠珀は紙を一度見下ろして、それから筆を置いた。墨を片付ける手は、ゆっくりとしていた。心がここに追いつかないまま、体だけが手順を踏もうとしている、そういう緩慢さだった。
「……できました」
「見せて」
悠珀は紙を裏返して、わたくしに差し出した。衣を肩に戻し、身を起こして覗き込む。
寝台の縁に肘をついた女が、紙の上にいた。
肩から腰へ流れる線。わたくしの知る自分より、少しだけ柔らかい。視線がわずかに伏せられている。瞳が、自分で見るときよりも深い色をしていた。
絵を描いた男が、わたくしをこう見ている、ということだった。
「……上手。これは、わたくしのもの?」
「……お納めください」
「ありがとう」
紙を寝台の脇の卓の上に置いた。墨が乾くまで、そこにそっと寝かせておく。
それから、わたくしは隣を軽く叩いた。
「いらっしゃい」
悠珀の体がひとつ震えた。けれど、もう躊躇わなかった。立ち上がって、寝台の縁、わたくしの隣に腰を下ろした。
わたくしは男の手を取った。
絵筆を握り続けてきた指。長くて、節のところだけ少し固い。そして、もう何度もこういう夜を渡ってきた指でもある。手の動きの確かさ、間の取り方、息を整える順序。後援者の寝台で身につけただろう手順を、悠珀の体は覚えている。空っぽの器が、空っぽのままで、たくさんの夜を渡ってきた。
今はもう、空っぽじゃない。
悠珀が、今までと違う目でわたくしを見ていた。熱く、欲望を灯した瞳。
「……姫様」
「うん」
「最初の夜は、僕は、姫様に何も差し上げられなかった。欲しがり方を知らなかった、というほうが、正しい。今夜は」
悠珀の声が、わずかに揺れた。
「あなたが、欲しい」
言葉が口から零れた。
歌詞ではなく、口説きでもなく、ただ自分の中にあったものを、悠珀がはじめて自分の声で言った。「あなたが」と「欲しい」の間。その短い沈黙だけで十分だった。
わたくしは、ゆっくりと頷いた。
「そう。それを聞きたかったの」
悠珀の唇が、取り合ったままの指の背に降りた。
慣れた仕草だった。
けれど、離す前にもう一拍だけ留まる。
そのわずかなためらいが、なんだか愛しかった。
……困ったわね。こんな顔もするようになったのね、この人。
「上手ね」
「……」
「経験豊富な男って、悪くないわ」
わたくしは小さく笑った。指の上で、悠珀の唇が止まった。
「……姫様。今夜だけは、その言葉が、少しつらい」
めずらしく、悠珀から弱音が出た。
「これまでの夜とは、違うので」
悠珀の声が、低かった。慣れた手つきの裏側で、慣れていない感情がはみ出してきていた。
「……そう」
わたくしは指先を悠珀の頬に這わせた。悠珀がその指に唇を寄せる。
「ごめんなさいね」
「……はい」
「とっても、いいから、つい」
悠珀の唇が優しく笑んだ。
わたくしが襟元に指をかけると、悠珀の手がその指を軽く押さえた。
「……まだです。もう少しだけ、このまま」
聞き取れないほどの小さな声で、つぶやくように続ける。
「これまでは何も考えずにできていたのに、姫様を欲しいと思った瞬間から」
零した言葉をそこで止めた。そして、灯りをひとつ落とした。
夜が、更けていく。
いつしか悠珀は、わたくしの肩に額を預けていた。
いつもの微笑みはない。
こんなに無防備な顔を見せてくれるようになったのね。
「……姫様。ありがとうございます」
その「ありがとう」は、何に対する礼かはわからない。たぶん悠珀自身もわかっていない。ただ、漠然とした感謝。
わたくしは、悠珀の背中にそっと手を回した。
「よかった……」
その一言だけ返す。全部の意味を込めた。
悠珀の背中が、もう一度ふっと震えた。
しばらくして、悠珀はわたくしの隣に横たわった。汗で湿った髪を、わたくしは指でそっと整えた。悠珀は目を閉じて、わたくしの指の動きに身を任せていた。
寝台の脇の卓の上で、絵の墨はもう乾いているはずだった。
冬の夜の空気が、肌の熱をゆっくりと冷ましていく。
悠珀の呼吸が、規則正しくなっていった。寝入ったらしい。線の細い肩が、わたくしの隣で静かに上下している。ただ満たされた一人の男として眠っていた。
わたくしは、目を閉じた。
耳の奥には、まだ悠珀の声が残っていた。
今夜は、よかった。
欲しいと言ってくれた。わたくしも、その気持ちに応えられた。
何より、あの人が自分から手を伸ばしてくれたことが嬉しい。
ふと。
ふいに、別の男の顔が浮かんだ。
昨日の夕方、馬場で愛馬の首に手を置いていた、あの男。手の震えを必死に抑えていた、あの男。「恩に着る」と乾いた声で言った、あの男。
……ん?
わたくしは目を開けて、天井を見た。
なぜ、いま。
悠珀との夜の終わりに、なぜ、別の男の顔が浮かぶの。
今夜わたくしは悠珀のことだけを見ていた。それは確かだった。最初から最後まで、悠珀のためにそこにいた。
なのに、終わって岸へ戻った途端、あの男が立っている。
まぶたの裏で、その誰かが、馬の首に額を押しつけたまま、ふっと顔を上げる。
「恩に着る」
その声が、耳の奥でもう一度鳴った。
寝返りを打って、悠珀のほうに体を向けた。隣で寝息を立てている男の、整った寝顔だけを見るようにした。自分の心をここに固定するために。
悠珀が薄く目を開けた。
「……姫様」
「起こしたわね。ごめん」
「いえ」
悠珀が手を伸ばして、わたくしの髪に触れた。寝起きの、無意識の手つき。けれど、その手が、もう、与えられた範囲で動く手ではなくなっていた。自分から、わたくしに触れたい男の手だった。
「……お休みなさいませ」
「お休み」
悠珀の手が髪に触れたまま眠りへ落ちる。
わたくしは目を閉じた。
まぶたの裏の男は、もう見ないことにした。




