33.特別
悠珀との夜から、数日が経った。
翌朝、悠珀はまだ薄暗いうちに静かに部屋を出た。「お休みなさいませ」のあとを、あえて言葉で確かめはしなかった。あの夜のすべてを言葉にしてしまうのは、たぶん無粋。
それから夜には呼んでいない。あの夜には、寝かせる時間が要る。悠珀にも、わたくしにも。
わたくしの中には、別の誰かの顔もまだ沈み切っていなかった。
悠珀から預かった砂糖は、理珂に渡してある。そして今朝、その理珂から短い報せが届いた。
粉は、植物から採った毒。人にも効く。ただし、どの植物かまでは、まだ分からない。似た毒を持つ植物は幾つもあり、書物を当たっている、と。
急がなくていい。丁寧に、と返した。
答えは半分まで出た。残りの半分も、この天才なら勝手に追い詰めるでしょう。
緑の薬を飲んで、わたくしは老太太に告げた。
「静岳を呼んで。柳旬の件、何か新しいことがあれば聞きたいの」
「かしこまりました」
静岳はすぐに来た。いつもより足音が静かだった。
「姫様。文官・柳旬の件で、申し上げたいことが」
「座って」
静岳は腰を下ろして、薄い紙を一枚、卓の上に置いた。
「同じ宮の女官、宦官、文官、十数名から聞き取りました。柳旬は、飛び降りた女官に想いを寄せておりました」
「想い」
「はい。彼女の前では衣を整え、彼女のいる時刻に合わせて宮を通っていた。同じ宮の者は、皆気づいていたそうでございます。女官の側は嫌ってはいなかったものの、応える様子もなかった、と」
わたくしは茶杯を引き寄せた。
「飛び降りた当夜。柳旬が、彼女に薬湯を差し入れたのね」
「はい。そこまでは、掴んでおりましたとおり。けれど、薬湯の中身が何だったのかは、未だに分かりませぬ」
「殺意は、感じる?」
静岳はわずかに目を伏せた。
「感じませぬ。……柳旬の動機は、彼女を死なせることではなく、彼女を意のままにすることだったのでは、と。何かの薬を、無理やり飲ませて。それが、量を間違えたか、彼女の体に合わなかったか」
わたくしはしばらく茶を見ていた。
今見えている形では、柳旬は好いていた女を意のままにしようとして、薬を使った。その結果、女官は死んだ。
そして柳旬自身も、別件の不敬罪で三日のうちに処分され、家族まで連座で消えた。
二人の間に残ったのは、出処の知れない一杯の薬湯だけ。
「静岳。柳旬が不敬罪で処分された日付と、薬湯の件が宮中で噂になり始めた日付。前後関係は、はっきりしている?」
「噂が立った翌日に、柳旬の不敬の奏上が上がっております」
「翌日」
「はい」
「速いわね」
「速うございます」
誰かが、薬湯を持っていた柳旬ごと、噂に蓋をした。
柳旬の恋慕など、その誰かにはどうでもよかったのだろう。残したくなかったのは、薬湯の出処へ続く口。
三日で、箱に入れて蓋をした。
「静岳。柳旬の家族は」
「未だ、行方知れずでございます。北の方角に運ばれたという話までは、あるのですが」
「追い続けて。見つかれば、何か聞ける」
「承知いたしました。東鈴の号のほうは、楽人と画商の筋を当たっておりますが、名乗りの主には、まだ行き当たりませぬ」
それから、静岳は少しだけ声を落とした。
「それと、阜水の二人でございますが。所を変えたようでございます。川向こうの、人夫の多い町へ。……二人の周りだけ、人の出入りが多い、と。探りの者は、そう申しております」
「出入りが多い、というのは」
「言葉にできるほどのものは、まだ。ただ、人が、寄り始めているように見える、と」
静岳は、そこで止めた。止め方が、この男の答えだった。
わたくしも、それ以上は聞かなかった。聖典の頁を知っているのは、この部屋でわたくしだけでいい。
静岳は紙を一枚こちらに残して、退がっていった。卓の上に、文官と女官の名前と、日付と、聞き取った人数の数字だけが残った。
わたくしは紙の隅を指で押さえた。
恋慕。
その言葉が、紙の上の数字よりも重く沈んだ。
柳旬の「欲しい」は、相手を自分の側へ曲げる方向へ進んだ。
あの夜、わたくしの隣で眠った男を思い出す。「あなたが、欲しい」と、自分の声で言った悠珀。
同じではない。
悠珀はわたくしに何かを飲ませない。無理を通さない。悠珀の「欲しい」は、自分にも欲しがる権利があると知っただけで、わたくしを歪めようとはしなかった。
窓の外を見ると、空が薄く晴れていた。冬の昼前の、白い光。
「老太太。午後、馬場に行くわ。火鹿毛の様子を見たいの」
「かしこまりました。颯真様にお声がけを」
昼、外套を羽織り、颯真を伴って馬場へ向かった。
門をくぐると、蹄が敷石を打つ音と、乾いた藁の匂いが迎えた。厩番がこちらに気づいて膝を折る。
「火鹿毛の様子は」
「すっかり戻っておいでです。今朝、いつもどおりに飼い葉を平らげまして」
「強い子ね」
「南方の血でございますから」
厩の前まで歩いていくと、火鹿毛がわたくしを見て首を伸ばしてきた。湿った鼻面が手のひらに乗る。あの異常な熱はもうない。健やかな馬の体温。
「よかったわね」
たてがみを撫でた。指の腹に、太い毛の感触が返ってくる。
「殿下」
背後から声がかかった。
怜鳳鳴だった。常服の上に薄手の外套を羽織って、馬場の奥から歩いてくる。火鹿毛の世話のために、毎日通っているのだろう。あの夕方の、走り込んできた姿はもうない。
「殿下のお気遣い、火鹿毛も喜びましょう」
「もう、喜んでくれているみたいよ」
わたくしは火鹿毛の鼻面を指でつついた。火鹿毛がふん、と息を吐いて、掌に押し付けてきた。
怜鳳鳴が隣に立った。事件のあと、距離が半歩近い。言葉にしないぶん、肩の位置は正直だった。
「砂糖の件、理珂殿に調べさせていると静岳から聞いた」
「今朝、途中の報せが来たわ。粉は、植物の毒。人にも効くもの。どの草かは、まだ」
「私も、こちらで預かった分を、知り合いの賀明という薬師に見せている。南方の薬種なら都一番の店だ。両方で当たれば、いずれ何かに行き当たる」
怜鳳鳴の声が、いつになく真摯だった。誘う声でも、躱す声でもない。共に何かを追っている男の声。
「ありがとう」
「礼を言われることではない。私の馬を、毒で殺されかけたのだから」
それから怜鳳鳴は、少しだけ声を落とした。
「それと、殿下のお耳に入れておきたいことが一つ。景鶴鈴が、また都に上ってくるそうです」
「……あの、快気祝いの」
「ええ。あの男です。国元に退がったと聞いていたのですが。恥をかいた席のある都へ、わざわざ戻ってくる。それが、どうにも」
どうにも、の続きを、この男は言わなかった。言わないまま、眉のあたりに苦いものだけが浮かんで消えた。わたくしは、戻ってくる、という一語を胸に留めた。
怜鳳鳴の指が、火鹿毛の首筋に触れた。あの夕方には震えていた指。今日はもう震えない。それでも、一度失いかけたものへ触れる慎重さが残っている。
愛するものに触れる手だ。
女を口説く軽さとは別の、ひどくまっすぐな愛を、この男は持っている。
怜鳳鳴がふっと顔を上げて、わたくしを見た。視線が合った瞬間、男の目が一度、ほんの一瞬、わたくしの胸の上で泳いだ。
あら。
わたくしは、内心で笑った。
話の最中に、どこを見ているのかしら、この男。事件の話、火鹿毛の話、ようやく緊張が解けてきたところでこれ。プレイボーイは、どこまでもプレイボーイだった。視線の癖だけは抜けない。
からかってやりたくなった。
「ねえ、怜鳳鳴。あなた今、わたくしの胸、見たでしょう」
怜鳳鳴の動きが止まった。
「……」
答えない。けれど目を逸らさないあたりが、この男のずるさだった。逸らしたら認めることになると、わかっている。
「気になるの?」
「殿下」
「触れば?」
わたくしは、怜鳳鳴の手を取った。
驚くほど自然に取れた。男の手を引き寄せて、外套の合わせの上から、自分の胸に置いた。
「……?」
怜鳳鳴が、ほんの一瞬、不思議そうな顔をした。
次の瞬間、その指が、ごく自然に動いた。
あまりにも慣れた、迷いのない仕草。
「なっ……」
声が勝手に出た。
ちょっと待って。この男、遠慮というものを知らないの?
怜鳳鳴の手が、ぱっと離れた。
「……あ」
怜鳳鳴の顔から、温度がひとつ引いた。
「いや、すまない。つい、条件反射で……その、手に馴染むというか」
言ってから、怜鳳鳴自身が固まった。口にした瞬間、地獄の蓋を開けたことに気づいた男の顔。
「……っ。このどスケベ!」
「どすけべ……?」
聞き返してくる。知らない言葉、けれど、響きで意味は察しているらしく、頬がほんのわずかに赤くなっていた。
「殿下。その、どすけべという言葉は、どの国の言葉でございますか」
「どこでもいいでしょう。あなたへの評価が決まったということ。覚えておきなさい」
「……は」
怜鳳鳴は手を後ろに引いて、軽く一礼した。頬の赤みはまだ残っていた。あの余裕の男が、めずらしくばつの悪そうな顔をしていた。
「失礼いたしました」
「いいわ。火鹿毛、また見に来るわ」
「お待ちしております」
怜鳳鳴の声が、いつもより半拍だけ低かった。
わたくしは火鹿毛の鼻面をもう一度撫でて、馬場を出た。
颯真がいつも通りの距離で後ろをついてきた。回廊を半分ほど進んだところで、颯真が小さく咳払いした。声に、笑いが混じっている。
「見ていたのね」
「護衛でございますので」
「笑っていいのよ」
颯真は少しだけ肩を揺らした。
「姫様のおおらかさに、感服いたします」
「褒めていないでしょう、それ」
つられて笑いながらも、外套の下の胸の上には、まだ怜鳳鳴の掌の感触が残っていた。布越しなのに、はっきりと。
部屋に戻って、円卓の前に腰を下ろした。老太太が茶を淹れてくれた。
条件反射。
つまり、あの手は、これまで何人もの女に触れてきた手だ。そして、わたくしも、その列に加わった。
……嫌。
自分が複数の男を選ぶことに、罪悪感はない。誰のものでもない体を、自分で選んで使っているだけ。なのに、怜鳳鳴にとって「これまでの女の続き」になるのは嫌だった。
手に入らないから追うだけで、手に入れば終わる。その程度の一人には、なりたくない。
わたくしは、あの男の中で列に並ぶ一人にはなりたくなかった。
わたくしは、彼の特別になりたい。
答えは、驚くほど簡単だった。
その思いが、いつから育っていたのかは、わからない。
悠珀がわたくしを描かずにいられなくなったように、わたくしも怜鳳鳴の中に、ほかの誰とも違う場所が欲しかった。
まいったわね。
前世から数えても、誰かの中に、ほかの誰とも違う場所が欲しいと思ったことはない。それなのに今は、条件反射ではなく、意志で、わたくしに手を伸ばしてほしい。
ばかみたい。
けれど、止められなかった。
鏡に映った顔は、笑っていなかった。
夜。
灯りを引き寄せて、五項目の紙と、別の紙を並べた。
柳旬の薬湯。火鹿毛の砂糖。杏里村。
同じ者の仕業かは分からない。けれど、誰かを駒にして、自分は記録管理外に立つ。その手つきが、どれにもある。
そして、瑞華と烈央の周りには、人が寄り始めている。
聖典の頁が、めくれかけている。
――会いに行く。
報告を待つのではなく、わたくしが。焼け跡で間に合わなかった分、今度は言葉が間に合ううちに。
決めると、胸の奥がひとつ静かになった。
冬の月が、窓の外で細くなっていた。




