34.弔いの花
瑞華と烈央に、会いに行く。そう決めて動く。
同行は、怜鳳鳴。
南方で顔が利く。
腕が立つ。剣も、口も。
……彼の特別になりたい、の話は、いまは一旦棚の上。これは、そういう遠出ではないから。
馬場で怜鳳鳴にだけ話した。
「瑞華と烈央に会う。あなたと行く」
怜鳳鳴は長いあいだ黙っていた。それから、決めた顔で言った。
「わかりました。段取りは俺が。麒家の出入りの船宿があります。文も、俺の名で出す」
俺。
その一音だけが耳に近く残った。
文の宛先は、瑞華と烈央。差出人は怜鳳鳴。中身は、簡潔にしてもらった。
『杏里村の件で、会わせたい人がいる。
その人の素性は、席で名乗る。
危害は加えない――麒家の名にかけて。』
四日後、返事の文が届いた。
『昼過ぎに、奥座敷』
それだけだったけれど、十分だった。
すべての調整を静岳と老太太に任せ、昼、火鹿毛の遠乗りという名目で宮を出て、船宿のある川の町へ向かった。颯真も馬に乗った。
人夫の町には、濡れた縄と魚、土埃の匂いが混じり、荷を運ぶ掛け声と船板の軋みが絶えない。
颯真は船宿の外へ立たせた。声は届かず、視界には入る、いつもの距離で。
奥座敷で待った。
格子窓の隙間から、川の湿った冷気が入ってくる。茶が冷めきった頃、廊下の板が一枚、軋んだ。
戸が開いて、二人が立っていた。
――来た。
娘が瑞華。日に焼けた手の甲には、赤くひび割れた筋がある。粗末な木綿で、髪も無造作にまとめただけ。なのに、薄暗い戸口で、そこだけ明るい。大きな目が黒曜石みたいに光っていた。
若者が烈央。肩に人夫の綱だこ。眉の濃い、精悍な顔立ちで、立っているだけで座敷の空気が張る。
二人とも、川風と汗の匂いを連れていた。……そして、二人とも、隠しようもなく人目を引く。磨いてもいないのに、光のほうが勝手に集まる。主人公オーラ。聖典の主役たちは、こういう顔をしているのね。
座らず戸口に立ったまま、こちらを測っている。招かれた客ではなく、敵地へ入った者の目だった。
烈央の目が、わたくしの脇に立つ男へ移って止まった。
「……あんたが文を寄越した麒家の。麒鳳鳴様か。遠くからだけど、見たことがある」
烈央の顔から、警戒が一段落ちた。
「怜鳳鳴だ。麒は家の名——南では、家名を名乗りに冠さない」
怜鳳鳴が悠然と頷いた。南方の名家の顔。わたくしは正直、少し見直した。名前ひとつで、戸口の空気が半分ほどける。これが麒家。
瑞華が、口を開いた。
「あの、女好きで有名な」
「……」
怜鳳鳴の悠然が、一拍止まった。
国境の村の少女の耳にまで届いているの、その評判。わたくしは笑いを噛み殺すのに苦労した。怜鳳鳴は咳をひとつして、戸口の二人に座るよう手で示した。二人は、今度は座った。麒家の名が席を作り、女好きが空気を作った。使える男だわ、いろんな意味で。
座って、瑞華が最初に言った。
「偉い人が、わたしたちに、何の用ですか」
低く、平らな声だった。烈央の睨みより、その平らさのほうが硬い。
わたくしは、まっすぐに言った。
「名乗るわ。華音。女帝の娘——皇太姫よ」
烈央の腰が浮いた。瑞華の手が、その袖を掴んで止めた。
「そして、あなたたちが人を集めていることも、知っている」
二人の呼吸が、止まった。外の掛け声が、急に遠くなる。
「兵は連れていない。捕らえる気なら、こんな座敷は使わない。わたくしは、話をしに来たの」
「……何の話を」
「杏里村の話よ」
烈央が、吐き捨てるように言った。
「あんたみたいなお姫さんが、何を今さら――」
「わたくしは、あの日、村へ向かっていたわ」
烈央の言葉が、途中で落ちた。
「火が付けられる前に、着きたかった。間に合わなかった。着いたとき、村は焼け跡で、あなたたちは発った後だった。ひとり残っていた老人に、あなたたち二人のことを尋ねた」
瑞華の目が、初めて揺れた。
「……爺様が、言っていた。都の娘が、焼け跡に来て、わたしたちの名前を呼んだと。あれは、あなた」
「ええ」
「二日かけて、南へ? 都の姫が?」
「俺が連れて行った。馬に乗せて行ったんだ。間に合わせてくれと言われた」
怜鳳鳴が言った。
「山越えの道だ。この人は二日、初めての鞍の上でほとんど眠らなかった。着いて、間に合わなかった焼け跡に、一人で立った」
座敷が、静かになった。
その静けさの底から、瑞華が、静かに訊いた。
「わたしたちの名をなぜ……いえ、それよりも。あなたは、火事を、知っていたの」
その問いを、待っていた。逃げる道は、はじめから用意していない。
「火事を、知っていたわ」
烈央が立ち上がった。膝に蹴られた膳がずれ、茶碗が跳ねる。冷めた茶が、床へ細くこぼれた。
「知っていて――知っていて、なんで俺の親父は死んだんだ! 母ちゃんも、弟も! あんた、知ってたんなら、なんで」
「烈央」
瑞華の声は静かなままだった。静かなまま、わたくしから目を離さなかった。
「どこから、知ったの」
「言えない」
弁解は挟まなかった。
「火事のことも、あなたたちの名前も、どこから知ったかは言えない。知っていて、止めようとして、走って、間に合わなかった。それが、わたくしの持っているすべてよ」
「都合がいいな」
烈央の声が震えていた。
「言えない、で済むのか。あんたが火付けの側じゃないと、どうして言える」
座敷の空気が、いちばん深いところまで沈んだ。
そのとき、怜鳳鳴が口を開いた。
「俺も、知らされていない」
烈央が怜鳳鳴を見た。
「この人がなぜ知っていたのか、俺も知らない。教えられてもいない。
それでも、夜通し馬を走らせるほうに賭けた。焼け跡に立つ背中を見て、間違いではなかったと思った。話すまでは待つ。
疑うなら、俺が麒家の名でこの席を設えたことを、答えと思え。それで足りなければ、俺の首も足せ」
烈央が、ゆっくりと座り直した。座り直して、両の拳を膝の上で握った。握った拳が、まだ震えていた。
瑞華が、口を開いた。
「……訊きたいことが、もうひとつ」
「ええ」
「なぜ、わたしたちの村だったの」
わたくしは、一度、息を吸った。
「分からない」
瑞華の眉が動いた。
「分からないの。焼き討ちの命令書には、玉璽が捺されていた。本物だった。でも、道筋がない。誰が命じたのか、なぜあの村でなければならなかったのか、記録のどこにも残っていない。命令だけがあって、理由が、どこにもない」
「ぎょくじ、ってのはなんだ?」
「陛下……女帝の印ってこと」
「だったら女帝が命じたんだろう」
烈央が言った。
「印があったんなら」
言ってから、烈央の目が、細くなった。
「……いや、待て。あんた、命令書を見たんだろう。先に。だから火事を知ってたんだ」
「順番が逆よ。命令書を探させたのは、火事の後。知っていたから、探したの。見つかった命令書には玉璽だけがあって、理由が、どこにもなかった」
「……」
「それに、玉璽が本物でも、命じた者まで本人とは限らないわ」
烈央の目を見て続けた。
「人を駒にして、自分は記録管理外に立つ。そういうおかしなやり口を、わたくしはこの国で数回見ている。……あなたたちが刃を向けようとしている相手が、本当に命じた者なのかは、まだ誰にも分からない。的に、顔がないのよ」
二人は黙った。
格子の向こうで、船の櫂が水を打つ音が一度だけ響いた。
「だから、調べている。あなたたちにしか訊けないことがあるの。村の話を聞かせて。焼かれる前でも、後でもいい。いつもと違ったことは、なかった? どんな小さなことでもいいわ」
瑞華が、烈央と目を見交わした。
「……いつもと違ったこと、なら。ひとつ、ある」
膝の上で、瑞華の手が布をつまんだ。
「あのね。わたし、雪が来る前に、いちど村へ戻ったの。理由なんてなかった。ただ、行きたかっただけ。……そうしたら、村の真ん中に、空色の花が山みたいに積んであったの。お弔いの切り花みたいに、きれいに。うちの村の、裏山の花畑にしか咲かない花よ。なんで、って思って裏山へ上がったら……花畑に、何もなかった。土がぜんぶ掘り起こされてて。花は、一本も残ってなかった」
村の真ん中の、空色の花の山。何もなくなった花畑。
息が、一拍、止まった。
その花畑なら、わたくしも見ている。焼け跡の裏の斜面で、一面に、空の色をして揺れていた。
「誰が、って思うでしょ。わからないの。人の気配もなかった。……あの花畑、村の宝物だったのよ。子どもは近づくな、触るな、って言われてて。根っこが大事な薬になるから、勝手に掘っちゃいけない掟もあった。花畑の世話の仕方は、大人たちが代替わりのたびに伝えてた。それが、あんなふうになってるなんて」
「……その花に、名前はあるの」
「空百合。うちのほうでは、そう呼んでた」
空百合。空色の百合。
大事な薬になる、根。
書物で正体の割れない、植物の毒——理珂の報せが、頭の奥で揺れた。
書物に載らない毒。
書物に載らない花。
わたくしは、冷めた茶碗を見下ろした。
持ち上げたら、手が震えそうだった。
――まさか。
順番が、見えてしまった。
村が、焼かれた。
掟を守る人が、いなくなった。
そして、掘り起こされ、花だけが残された。
根は。
「……おい」
烈央の声が、低くなっていた。
顔を上げると、烈央がわたくしを見ていた。まっすぐに。
「あんた、いま、何かに気づいたな」
「――」
「なぜあの村なのか、記録のどこにもない、って言ったな。……で、空百合の花畑が、ぜんぶ掘られてた。根っこが薬になる花が、ぜんぶ」
烈央は、ひとつずつ、置くように言った。積み荷を降ろすように。最後のひとつを、降ろした。
「村は――空百合のために、焼かれたのか」
瑞華が、息を呑んだ。
答えを、選ぶことはできた。まだわからない、と流すことも。けれど、この二人に対してそれをやったら、今日ここへ来たことの全部が嘘になる。
「……そうかもしれない、と、いま思った」
声が、少しだけ掠れた。
「証拠は、何もない。ひとつもないの。それでも、順番だけが並んでいる。あの花畑は、掟が守っていた。銭を積んでも、ぜんぶなんて掘らせない。……村がなくなれば、掟も、なくなる」
烈央は、動かなかった。
拳だけが、膝の上で、白くなっていた。
「……空百合の、ために」
瑞華が、小さく言った。
「父さんも、母さんも、みんな……花の根っこの、ために?」
誰も、答えられなかった。
格子の向こうで、櫂の音だけが続いていた。
沈黙を破ったのは、烈央だった。
「――調べろ」
短かった。
「確かめて、教えろ。誰が、何のためにやったのか。全部だ」
「調べるわ。そのために来たの。命じた者の名前と、いま見えた答えが本当かどうか。両方を掘り当てて、あなたたちの前へ置く」
烈央が、まっすぐにわたくしを見た。目だけが、値踏みを終えていなかった。
「その代わり、あなたたちにも、ひとつ約束してほしいの。それまで、人を増やさないで。刃を抜かないで」
「……待てって言うのか。親父たちを殺した奴が、どこかで生きてるのに」
「復讐をやめて、とは言わないわ。家族を焼かれた人に、やめろと言える立場に、わたくしはいない。言っているのは、待って、ということ。的が定まる前に振る刃は、あなたたちの家族と同じ死に方をする人を、増やすだけだから」
長い沈黙が、座敷に降りた。
烈央が瑞華を見た。瑞華は、烈央を見なかった。わたくしだけを見ていた。
「……弟は」
瑞華の指が、膝の布を握り直した。乾いた布の擦れる音がした。
「字を、覚えたばかりだった。自分の名前と、わたしの名前。ふたつだけ」
「……」
「なぜ、が確かにならないままだと、弟に何も言ってやれない。墓に、何も」
瑞華は初めて目を伏せた。
「雪が消えるまで」
顔を上げたとき、その目に涙はなかった。
「雪が消えるまでに、確かな答えを。それまでは、待つ。人も、増やさない」
「瑞華!」
「烈央。わたしたちは、的の分からない弓を、引きかけていた」
烈央は、何かを言いかけて、やめた。それから、わたくしに向かって、低く言った。
「国は信じない。あんたを信じたわけでもない。
……麒家の顔と、今日の言葉だけ、預かっておく」
「それでいいわ」
頷いた。
信頼は、まだ要らない。今日欲しかったのは、時間だ。
「繋ぎは、麒家の商館を通せ」
怜鳳鳴が言った。
「文でも、人でもいい。船宿に預ければ、すぐに俺に届く」
二人が立ち上がった。戸口で、瑞華が一度だけ振り返った。
「……焼け跡に来た都の娘が、あなたで、よかったのかどうか。それは、雪が消えるときに決める」
戸が閉まると、壁の向こうへ人夫の声と船板の軋みが戻ってきた。
帰りの船で、冷えた船縁に手を置き、川面を見ていた。冬の水は暗く、速い。船腹を叩く音が、一定の間隔で続いていた。
「殿下」
怜鳳鳴が隣に立った。
「よく、言った」
「どれのこと」
「全部です」
俺、はもう仕舞われて、宮の言葉に戻っていた。けれど声の温度は、船宿のままだった。
空百合のために、焼かれた。
まだ、仮説。証拠はひとつもない。
それでも、書物に載らない毒と、書物に載らない花が、わたくしの中で、もう離れてくれない。
雪が消えるまで。
つまり、締め切りつき。
掘ると言った。なら、掘るしかない。聖典の頁の外で、わたくしの冬に仕事が一件増えた。




