35.故郷の危機
船宿から戻った翌朝、理珂を呼んだ。空色の花のこと、書物に載らないこと、根が毒かもしれないこと。
調べてほしいと伝えると、理珂の目の色が変わった。
入れ替わりに、静岳が入ってきた。
「柳旬の家族は、籍も家財も取り上げられ、郡ごとに散っておりました。労役に出た者、土地を離れた者。もう辿れませぬ」
「……そう。名前だけ、控えに残しておいて」
控えに残したところで何かが変わるわけではなくても、消えたことにはしたくなかった。
静岳は、三枚別々の報告を置いた。別々のものなのに、なぜかどれもが同じ地名を指していた。
土地の名は、渓陽。南にある地方。
一枚目は、南方の商人筋からの便り。
『長雨が、もうふた月も続いている』
二枚目は水運の記録。
『渓陽を貫く大河の水位が、例年の冬より二尺高い』
三枚目は、いちばん短く、いちばん怪しかった。
『渓陽の上流にある治水の堰で、年の瀬だというのに普請が行われている。大勢の人足が出入りしているのに、地元の人間はほとんど雇われていない』
「別々の筋から届いたものです。ただ、三つとも渓陽を指しておりましたので」
わたくしは三枚を卓へ並べ直した。
長雨。
水位。
堰。
順に指で押さえる。
乾いた紙の下で、三つの断片が一つの景色へ変わっていく。雨を吸って膨れ上がる大河。押し寄せる濁流。逃げる場所もなく呑まれる家々。
五項目の紙に自分で書いた行を、思い起こす。
五、一地方の壊滅。決定打。
杏里村一つでは終わらない。
もっと大きな災厄。
これだ。これが来た。
「静岳。よくやったわ」
ようやく思い出した。聖典と呼ぶ、原作の『陽輝帝国物語』の一場面を。
南方を大水が襲い、幾つもの土地が呑まれた。その災厄が民の怒りを煽り、暗黒女帝を倒す流れを強めた。
聖典では、あまりにさらっと書かれていて、今まで詳細を思い出せずにいた。
けれど現実には、そこに村がある。家がある。畑があって、家畜がいて、そこで眠る人がいる。
この国と人々を、さらっと流されてたまるものですか。
聖典では、地名まではなかったと思う。けれど時期は、冬の終わりから春先。南では雪解けと長雨が重なる頃だ。
増えた水を利用して、堰を壊して大水害を起こす。
前世でいうなら、台風の最中にダムへ細工をしているようなものね。
そして聖典の日付は、手前に倒して読むと決めている。
ちょうど今頃、と読めたなら、もう遅いかもしれない。
背筋を、冷たいものが這った。
焦げた木と、冷えた灰の匂いが鼻の奥へ戻ってくる。
杏里村のときは、間に合わなかった。
村はすでに焼かれ、わたくしにできたのは、焼け跡に立つことだけだった。
けれど、今回はまだ起きていない。
落ち着いて、まず状況を把握。
「静岳。堰の普請を請け負っているのは誰?」
「都の商人が間に入っております。その先まではまだ追えておりません」
「どうして」
「手続きは、きちんと通っています。地方の普請にしては、何もかも正しい順番です。途中に多くの商人や商会を通して、容易にたどれなくなっております」
「正しすぎて、かえっておかしい」
「はい」
誰かが堰を壊そうとしている。
けれど、一度通った承認は重い。証拠もなしの推測で、ひっくり返せるものではない。
『それで、この根拠は?』『エビデンスは数字で出してくれる?』
そんな声が蘇る。
揃いすぎた手続きの手触りは覚えておく。
どうするか。
ならば、現場をなんとかする。
「怜鳳鳴を呼んで。地図も用意して」
南方の土地勘なら、四人の夫の中で彼がいちばんだ。
ほどなく、怜鳳鳴が部屋へ入ってきた。
卓には南方の地図をいっぱいに広げてある。
端を押さえる文鎮の下で、大きな麒鳳州の西に位置する渓陽が描かれている。
大河は太い墨の線で渓陽を貫き、下流で幾筋にも枝分かれしている。枝の一本一本に、郡の名が実のようにぶら下がっていた。
怜鳳鳴は地図を一瞥した。ここへ呼ばれた意味を測っていた目が、すぐに鋭くなる。
「殿下。お召しと伺いました」
「見てほしいの」
わたくしは三枚の報告書を怜鳳鳴の前に置いた。怜鳳鳴は立ったまま順に読んで、読み終わる頃には目の色が変わっていた。
「渓陽の堰は、麒家も普請に銭も人も出した。あれは渓陽だけの堰ではない。あれが保つから、下流の郡が保つ」
「もしあの堰が、雪解けの増水の頭で破れたら」
「渓陽の下流は呑まれます。逃げる間はない。……殿下。これは」
「分からない。分からないけれど、嫌な符合が多すぎるの。ふた月の長雨。二尺高い水位。そこへ来て、時期外れの普請。地元の人足を使わない普請。わたくしはこの符合を、偶然として棚に上げておけない」
怜鳳鳴はしばらく地図を見下ろしていた。それから顔を上げて、まっすぐにわたくしを見た。
「殿下は、堰が破れるとお考えか」
「破れる、と言い切れる根拠はないわ。ここにある報告が、全部よ。占いでも神託でもない」
三枚の紙を、指先で軽く叩いた。
「ただ、わたくしは紙を読む仕事を……嫌になるほどしてきたの。数字と数字が、偶然では済まない並び方をしているときの匂いは分かる」
前世、と言いかけた言葉を「嫌になるほどしてきた」に畳み込んだ。あまりうまくない。
怜鳳鳴の目がわずかに細くなった。この男はたぶん、そのうまくない畳み目に気づいた。でもそのまま開かなかった。
「時期は」
「雪解けの頭。おそらくは、あとひと月あるかないか」
「間に合うか」
「あなたがすぐに動けば」
怜鳳鳴は地図の上に手を置いた。堰のあたり。指が郡の名をひとつずつ押さえていく。さっきのわたくしと同じ押さえ方だった。この男も、書かれたものを指で読む。
「三男の身で、麒家の兵は動かせない。だが、堰の検分を求めることはできる。家の名で人足を集めて、水の逃げ道を掘らせることも。下流の郡に、冬のうちの他愛ない備えという顔で、舟と高台の蔵をすぐ使えるように点検させることも」
短時間に、いくつも現実的な案を出してきた。さすがよ、怜鳳鳴。
水の逃げ道と言いながら、指を地図へと走らせている。
頭の中では、知った土地の勾配も集落の様子もしっかりと浮かんでいるのだろう。
「疑われずに、できる?」
「南方だ。麒家の顔が利く。それに」
怜鳳鳴は、ふっと笑った。
「遊蕩者には遊蕩者の使い道がある。物見遊山で郷里に帰る三男坊が、道楽で治水に口を出す。誰も警戒しません」
噂の絶えない放蕩者という評判を、この男は今、通行手形として使うと言っている。
積み上げてきた軽さを、いちばん重いもののために使う。
わたくしは頷いて、それから、聞くべきことをひとつだけ聞いた。
「怜鳳鳴。あなた、わたくしの言葉だけで動くの。確かめもしないで」
「確かめました」
「何を」
「殿下の目を。……殿下は、当たったときに失うものの大きさを知っている。だから言うと決めた顔だ。私はその顔に賭けます。外れたなら、道楽者が郷里で無駄な穴を掘らせたという笑い話が残るだけのこと。当たったなら」
当たったなら。その先を、怜鳳鳴は言わないまま地図を畳んで、一礼した。
「支度をします。夕刻には発ちたい。先に伝令の早馬も駆けさせておく」
それからの半日は、慌ただしさが宮を駆け抜けた。
回廊を宦官たちの早足が行き交い、戸が開いては閉じる。書状が運ばれ、印が押され、馬具の金具が乾いた音を立てた。
皇太姫の夫が新宮の外へ、それも南方まで下るとなれば、本来は手続きの山だ。数日はかかって当然だけれど、静岳の裏方の手際は、その山をみるみる低くしていった。
表向きは、麒家の三男が年の瀬の郷里へ物見遊山に帰る。それだけの話だ。荷は軽く、供は麒家の家人が数名。愛馬・火鹿毛の背には、長旅用の鞍が載せられた。
支度の音の合間に、理珂が戻ってきた。手には、あの白い粉の包みと、書き付けが一枚。
「殿下。今朝のお話で、確かめ直したことがあります」
理珂は包みを開いた。
「この粉は、乾した根を挽いたものです。繊維の残り方で分かります。葉や花では、この形になりません」
『大事な薬になるから、勝手に掘ってはいけない』
船宿で聞いた掟が、耳の奥で戻ってきた。
書物に載らない空色の花。掘り尽くされた根。書物で正体の割れない毒。そこへ、粉は根から来た、という一片が音を立てて嵌まった。
「……空百合、なのね」
「書物に載らない根の毒が、この国にいくつもあるとは思えません。百のうち九十九、同じものです。残りの一は、この目で株を見てから」
百のうち九十九。理珂の口から出る言葉としては断定と同じだ。わたくし流に言えば、ほぼほぼ、空百合。
仮説だった線が、両側から噛み合った。杏里村を焼いた花と、火鹿毛に盛られた毒が、ひとつに繋がった。
「ありがとう、理珂。続きは、株を探すほうをお願い。それから、いまの話をもう一枚、書き付けに。怜鳳鳴に持たせるわ」
「はい。必ず」
一礼して駆け戻っていく背中は、いつもの本の虫の歩き方ではなかった。
夕刻、西の門の内で、支度を終えた怜鳳鳴に会った。理珂からの報告は、静岳から直接渡してもらった。
冬の風が門を抜け、旗を鳴らしている。火鹿毛が白い息を吐くたび、轡の金具が小さく鳴った。
騎馬服に外套をまとった怜鳳鳴は、新宮で見るどの姿より軽く、どの姿より遠かった。
思わず手を伸ばしたくなったのをこらえる。
ここから先へは、わたくしはついて行けない。
「殿下。行って参ります」
「ええ」
「留守の間、殿下も。……いえ」
怜鳳鳴は言いかけて、首を振った。
「殿下は、ご自分の守り方をご存じの方だった。要らぬ言葉でした」
「言いなさいよ、最後まで」
「では。……ご無事で。私の帰る場所ですから」
言い置いて、怜鳳鳴は火鹿毛の手綱を取った。革が軋み、鐙がかすかに鳴る。
足が鐙にかかった。
あの背中が馬上へ上がってしまえば、あとはもう、砂埃と蹄の音だけになる。
行き先には、破れるかもしれない堰と、呑まれるかもしれない郡と、それを企んだかもしれない誰かの手がある。彼自身の身にも危険がある。
分かっていて送り出すのは、わたくしだった。
気づいたときには、駆け出していた。
「怜っ」
名だけを短く呼んだ。振り向いた男の外套の胸元を掴んで、爪先で立って、口付けていた。
触れたのは、一瞬だった。
なのに、世界のほうが遅れた。
彼の唇は、少し乾いていた。掴んだ外套は夕方の冷気を吸い、革と馬の匂いがかすかにした。その冷たさの奥から、ひどく熱いものが伝わってくる。
火鹿毛が鼻を鳴らした。
手綱を握ったままの怜鳳鳴が、目を見開いてわたくしを見ていた。彼の顔から、余裕という余裕が全部落ちている。
「無事で、帰ってきて」
声が震えた。それから自分のしたことが遅れて追いついてきて、顔じゅうに火がついた。
「約束よ。……初めての口づけなんだから」
言ってしまってから、自分の言葉が耳へ戻ってきた。
もう駄目。
わたくしは踵を返して走った。皇太姫が宮の門前を全力で逃走。前代未聞でしょうね。
けれど今は、知ったことではなかった。案外速く走れてる。筋トレ万歳。颯真、ありがとう。
背中に、男の声が追いついてきた。
「すぐに帰る! 約束する!」
思わず振り返ると、怜鳳鳴はもう馬上にいて、手綱を握ったまま、じっとわたくしを見ていた。夕日が男の輪郭を縁取っている。それから男は馬首を返して、火鹿毛の腹を蹴った。蹄の音が門を抜けて、砂埃が夕日の色に染まって、背中が小さくなっていった。
まだ行く前から、すぐに帰る、だなんて。
ふっと笑みがこぼれた唇には、かすかな温かさが残っていた。
初めて、だった。
この世界に来てから、誰にも許さなかった。理珂とも悠珀とも夜を重ねたのに、唇だけは、どうしてか渡せなかった。
渡せなかった理由を、今日、はっきりと自覚した。
知らないうちに、取っておいたのだ。
唇を。
わたくしは、あの男のために。
小さくなっていく後ろ姿を見つめる。
どうか、無事で。
そして今度こそ、間に合え。
<第一部 完>




