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36.砂糖の毒の出どころ



 薬草園は、乾いた土と常緑の葉の匂いがした。


 悠珀《ゆうはく》の筆が、紙の上を静かに走っている。描いているのは葉を落とした薬木の並びと、その奥の低い霜よけの覆い。花のない季節の園なんて絵になるのかしらと思っていたけれど、悠珀の紙の上では、枯れ色の枝の一本一本が別々の生き物の顔をしていた。


「冬も、木々は生きていますね」


「ええ。悠珀の絵の中だと、今にも動き回りそうよ」


「木は動き回りません」


 理珂《りか》だ。少し離れた畝《うね》の間で屈み込んでいたのが、顔を上げている。


「知ってるわ。言葉の綾よ」


 わたくしがそう言うと、何も言わずまた畝の間に顔を向けた。札のついた株をひとつずつ検めている。

 ようやく許しの下りた園で、理珂は水を得た魚どころか、株を得た学者だった。


 颯真《そうま》は笑いを堪えた顔で、いつもの護衛の距離。


 穏やかな夫たちとの午後だった。


 そのとき、砂利を踏む足音がして、宦官長の静岳《せいがく》が入ってきた。歩き方で分かる。急ぎの用のときの、音を立てない急ぎ足。


「姫様。西の市の賀明《がめい》の店から、麒家《きけ》の商館づてに言伝にございます」


 賀明。怜鳳鳴《れいほうめい》が、毒入り砂糖の残りを預けた薬師。


「読んで」


「――お預かりの品、毒の見当がつきました。あわせて、この品の出どころにつき、直にお耳へ入れたき儀がございます。以上です」


 直に。


 紙に書けない話ということだ。書けば、誰かに読まれるかもしれない話。


 毒の正体なら、理珂が九分九厘まで割っている。あの店の値打ちは、残りの一厘と――出どころ。毒と金の筋の、川上のほう。


「行くわ。明日の朝」


 言ってから、気づいた。いつもなら、この手の外出はまず怜鳳鳴に諮《はか》る。市も、南方の商人筋も、あの男の庭だから。


 その男は、いま南の空の下。


「手の者を付けます」


 静岳は返事より先にそう言って、もう颯真のほうを向いていた。二人が道順と刻限の相談を始める。わたくしの返事は要らないらしい。まあ、いいけど。


「殿下。自分も行きます」


 理珂が株の間から立ち上がった。目が本気だった。


「薬種商の店なら、自分が行かなくては。棚を見れば、あの店の腕が分かります。腕が分かれば、毒の見当の確かさも量れます」


「駄目よ。あなたは目立ちすぎるもの」


「おとなしくします」


「違うわ。理珂の顔が綺麗すぎて、市で目立つということ」


「……顔が美しいのは、自分のせいではないのに」


 理珂は心底不服そうに言った。事実だから、誰も慰められない。颯真が笑いを噛み殺し、悠珀が筆を置いて、穏やかに笑った。


「理珂どのの分まで、姫様がよく見てきてくださいますよ」


「棚の右奥です。良い店は、右奥に一番の品を置きます」


「覚えておくわ」


 風もなく、穏やかな日だった。



 その夜は、なんとなく眠れなかった。


 怖いわけではない。ただ、明日の市には怜鳳鳴がいない。この世界に来てから、宮の外はいつも、あの男の目の届く場所だった。焼け跡も、船宿も。それが初めて、いない。


 体のどこかが、それを覚えていて、灯りを落としても目が冴えている。


 そのとき、窓の外で、音がした。


 二胡だった。


 低く、静かな曲。物悲しくて、祈りのような音。夜気の中を、糸を一本張るようにまっすぐ届いてくる。


 悠珀だ。あの音を聞き間違えるはずがない。


 起き上がって、窓辺に座った。一曲、終わるまで聞いた。音が高くなり、低くなり、歌うような曲だった。弓が下りて、夜が静かさを取り戻してから、窓を開けた。


 中庭の白い敷石の上に、二胡を抱えた悠珀が立っていた。月明かりで、息が白いのが見えた。


「入って」


 招き入れて、手巾を渡して、それから手に触れて、驚いた。


「冷たい。今夜は少し暖かいとはいえ、外で弾くなんて」


「姫様に、聞いてもらいたかったから」


 悠珀は当たり前のことのように言った。この人の当たり前は、いつも少しずれていて、そのずれ方が優しい。


「眠れておられないと思ったので」


「……分かるの」


「灯りの落ち方で」


「あの曲は、なんていう曲?」


「曲名は、わかりません。母が時々口ずさんでいました。歌詞もあるのかもしれませんが、よく覚えていないのです」


 悠珀のお母様の思い出の曲。それを窓辺で弾いてくれたのね。


「心に染みる、悲しくて優しい曲だわ」


 寝台に並んで、悠珀は、何も聞かず、何もしないで、ただ添い寝をしてくれた。


「悠珀。どうして?」


 わたくしの背をあやすようにとんとんと叩きながら、悠珀は穏やかに言う。


「いま姫様に必要なものを、あげる術《すべ》が、僕にはない。せめて」


 静かに言う悠珀の目が優しかった。

 わたくしに、必要なもの。それはこういう癒しの時間なのではないの?


 それ以上考えるのはやめて、悠珀の手のリズムに身を任せ目を閉じた。

 おやすみなさい。

 睡眠、だいじ。



 木綿の衣、頬にそばかす。颯真は古着の上衣。市の女とその兄、かろうじて庶民風の二人が出来上がる。


 朝の西の市は、冬でも声で溢れていた。炙った餅の匂い。天秤棒の軋み。値切る声と笑い返す声。


 賀明の店は、市の通りの中ほどにあった。間口の広い、構えのいい店。軒の看板の字が、雨風に磨かれて品良く痩せている。三代の店の顔だった。


 その表の戸が、下りていた。


 市がいちばん賑わう刻限に。

 今朝、訪れると伝えてあったのに。


 颯真と目を見交わす。裏へ回った。勝手口の戸に手をかけると、閂は掛かっていなかった。


「賀明さん。おいでですか」


 颯真が声を入れる。返事はない。土間の空気は冷え切って、竈に火の気がなかった。乾いた根の匂いと、甘い香料の匂い。薬種の店の匂いの奥に、朝の店にあるはずの、湯の匂いも粥の匂いもない。


「姫様。自分が先に」


 颯真が土間から板の間へ上がった。短い沈黙のあと、低い声がした。


「……姫様」


 声の色で、分かってしまった。


 上がって、颯真に抱えられるようにして、店の奥を覗いた。


 小さな板の間。箱膳の上に、食事が食べかけのまま残っている。


 その膳の脇に、賀明が倒れていた。


 横向きに、眠るような形で。けれど眠っている人の色ではない。

 砂糖の毒のことを教えると言った人が、そこで冷たくなっていた。


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