37.同じ根
帰りの道を覚えていない。
気づけばわたくしは自分の部屋の椅子に座らされていて、目の前に白湯が置かれていた。颯真に抱えられて店を出たところまでは覚えている。そこから先がない。
白湯を運んできた若い宦官の手が小さく震えていた。わたくしの顔色を見て震えているのだと、少し遅れて分かった。御典医をお呼びします、と誰かが言い、お休みください、と誰かが言う。部屋じゅうの声が薄紙の上を歩くように恐る恐るだった。
右手だけが冷たいままだった。あの店の敷居についた手だった。
箱膳の上の、食べかけの食事。
眠るような形。眠っている人の、色ではないもの。
思い出して、目を閉じた。閉じても消えなかった。
「人払いを」
自分の声が思ったよりしっかり出た。静岳が目配せをして、部屋から人が退いていく。残ったのは静岳と、戸口の颯真だけになった。
あの言伝は、本当は怜鳳鳴に宛てたものだ。砂糖を預けたのはあの男で、繋ぎの筋も麒家の商館だった。その怜鳳鳴が南にいるから、言伝はわたくしのところへ来た。
そのわたくしが白湯を持たされて、休まされて、明日にはお気の毒な薬屋さんの話になって、それで終わり。
終わらせたら、あの言伝の続きは、誰にも届かないまま消える。
「静岳。賀明の店に人を置いて。麒家の商館の者でも、うちの手の者でもいい。誰も入れず、何ひとつ持ち出させないで。……それから、わたくしは店へ戻るわ。今日のうちに」
「なりません」
返事が速かった。
「せめて、怜鳳鳴様のお戻りを待たれては」
「戻りがいつになるか、誰にも分からないでしょう。それに、これはいま、わたくしのところへ来た言伝よ」
「では、手の者に検めさせます」
「その手の者は、薬が分かるの」
静岳が黙った。
戸口で颯真の声がした。
「姫様。理珂殿です」
通すと、理珂は肩で息をしていた。報せを聞いて駆けてきたのだろう。目が、薬草園のときより本気だった。
「殿下。自分が行きます」
「昨日、駄目と言ったでしょう」
「昨日とは話が違います。賀明という薬師は、毒の見当をつけました。何を見て、何を量って、そこへ行き着いたのか。それは店に残っています。薬研の削り滓や、乳鉢の底や、干し棚の品を見れば、自分には分かります」
正しすぎて、誰も返せなかった。
「……顔は、どうするの」
「炭で汚して、笠をかぶせて、俺の後ろを歩かせます。弟弟子という体で」
颯真が先に答えた。それで決まった。
半刻後、炭で汚した理珂が出来上がった。
出来上がって、分かった。汚しても綺麗な顔は、汚れの下で綺麗だった。むしろ汚れが儚げで良い、という顔になっている。颯真が笠を目深にかぶせ直して、諦めた声で言った。
「……俯いて歩け。誰とも目を合わせるな」
「見るのは棚だけにします」
それは約束できるのね、と思った。
賀明の店には、勝手口から入った。
朝と同じ匂いがした。乾いた根と、甘い香料。土間の敷居で足が止まった。あの奥の板の間、と思った途端、右手がまた重くなった。
「姫様。自分が先に」
颯真が上がって、奥を検めて、戻ってきた。
「もう、どなたもおられません。朝のうちに、しかるべき所へ」
息を吐いて、敷居をまたいだ。
理珂は、またいだ瞬間に別の生き物になった。
笠を上げ、目を輝かせ、まっすぐ薬棚に向かう。俯いて歩く約束は店の外までだったらしい。抽斗を開け、匂いを嗅ぎ、指先で粉を摘まんで灯りに透かす。今朝この店で起きたことを、頭のどこかに置き忘れた顔だった。
「良い乳鉢です。うちの園にも欲しい」
いま言うことかしら。
内心で突っ込んで、それから、突っ込めた自分に気づいた。冷えていた手が、少しだけ息をした気がした。この人の天然は、こういうときに効く薬なのかもしれない。
理珂は奥の作業場へ進んだ。進むほどに足が速くなった。
「殿下。この作業場は、大きすぎます」
「薬屋なら、薬を作るでしょう」
「作ります。ただ、表の店で売る分なら、この半分で足ります。釜がふたつ、薬研が三つ、干し棚が壁に三面。これは、どこかへまとめて納めるための設えです」
理珂が干し棚の前で止まった。棚の大半は見慣れた薬種らしい。その端の一列にだけ、輪切りにして干した根が並んでいた。ひとつ手に取り、割って、匂いを嗅いだ。理珂の顔から夢中の色が消えた。
「……割り口の色と、この匂い。お預かりした砂糖から出た粉と、同じです。この根を挽けば、あの粉になります」
「なら、賀明は」
「調べるまでもなかったのだと思います。ご自分の店で挽いていた品ですから、ひと目で分かったはずです。……ただ、殿下。これが何の花の根なのかは、自分には分かりません。輪切りの干し根は、花の姿を教えてくれませんから。株探しは、続けます」
あの言伝を、思い返す。毒の見当がつきました。慎重な薬師の、控えめな書き方だと思っていた。挽いた当人の言葉だと分かって読み直せば、あれは調べの報せではない。自分の店で挽いた品の出どころを明かす、その覚悟の前置きだった。
明かす約束を果たせないまま、死んだ。
「理珂。ここで挽かれた量は、どのくらい」
「分かりません。ただ、この設えで挽き続けていたなら、砂糖ひと壺では済みません。……挽いた分は、どこへ行ったのでしょう」
答えられる人は、今朝までこの店にいた。
棚に残った根は、ひと壺にも足りない。この大きな設えで挽かれ続けた分は、もう、ここにはない。
どこか知らない場所に、あるということだった。
宮へ戻って、店で見たものを静岳に話した。静岳は聞き終えると、すぐに出入りの検めの控えを持ってきた。あの店で挽かれた品が、砂糖に混ざって宮まで届いていた。なら次に検めるのは、外から宮へ物の入る道の全部だった。
理珂のところへ薬種問屋がふたつ。怜鳳鳴の厩へ馬具屋と蹄鉄の職人。悠珀のところへ、画材と弦の取次がひとつ。どれも長い馴染みで、品にも人にも曇りなし。賀明の店と繋がる筋は、ひとつもない。
そう。毒は、まだ知らない道を通ってくる。
控えを返そうとして、紙が指から滑った。
拾わなくては、と思ったのに、体のほうが先に傾いた。床が斜めになる。おかしいわね、と思ったところで視界が暗くなって、抱き止められた。
「姫様」
颯真だった。いつの間に動いたのか分からない速さで、体を入れてくれていた。
「……大丈夫。立てるわ」
「立てておられません」
そのまま寝台まで運ばれた。恥ずかしいと思う力も、もう残っていなかった。朝からずっと、どこかで力を入れ続けていたのだと思う。
店の敷居をまたぐときも、干し棚の前でも、皇太姫の顔をやめたら折れると分かっていたから、やめなかった。
宮に戻って、静岳や老太太の顔を見て、それで終わってしまったらしい。
「今日はもう、お休みくださいませ」
静岳の声がした。老太太が夜着の支度をしに来て、何も言わずにわたくしの髪をほどき始めた。
「……理珂に、伝えて。根の検めは、急がなくていいと。あの人も、今朝から」
「理珂殿にはこの静岳から、休むように申し上げます。姫様が仰ると、あの方は逆に徹夜をなさいます」
それもそうね、と思ったところまでは覚えている。
そこから先は、覚えていない。
意識を手放す前に、脳裏に沈んだ言葉があった。
また、ひとり、死んだ。




