38.容疑者一覧
目が覚めても、右手の冷たさは残っていた。
寝床の中で握って、開いて、もう一度握った。血は通っている。指も動く。冷たいのは手のせいではないらしい。
目を閉じると、あの店の奥が戻ってくる。箱膳の上の食べかけの菜。眠るような形。眠っている人の色ではないもの。
賀明。会ったことのない人だった。麒家に出入りする薬種商で、預かった砂糖を検めて、出どころを直に話すと報せてきた人。その報せを受け取ったのは、わたくしだった。
行くわ、明日の朝。そう答えたのも、わたくしだった。
今日のうちに、と言っていたら。考えても届かないことを、頭は勝手に考える。考えるだけ考えさせて、それから寝床を出た。
悼むのはあとよ。いまのわたくしにできるのは、あの人が明かすつもりだった話の続きを、こちらの手で調べ出すことだけ。
老太太が粥を運んできた。全部食べた。食べておかないと、今日も倒れる。
静岳が来たのは、膳が下がってすぐだった。入ってくるなり、わたくしの顔色をじっくり検める。
「倒れたのは一度だけよ。報せを聞かせて」
「はい。まず、店には引き続き人を置いております。麒家の商館の者と、うちの手の者で、表と裏に。あれから誰も入れておりません」
「役所は」
「卒中と見立てて、検分を終えました。膳の残り方から、倒れたのは夕餉の途中と見ております。界隈に、訝しむ声はございません」
夕餉の途中。
竈に火の気がなかった。朝の湯の匂いも、粥の匂いもなかった。あの店は、夜が明ける前から止まっていた。見たものと、見立てが重なる。
そして、あの言伝が宮に届いたのは、その日の午後だった。
直にお耳へ入れたき儀がございます。そう報せてきた人が、その日の夕餉の途中で倒れている。
早すぎるわ。
「静岳。役所は卒中で閉じた。それでいいわ。でも、わたくしは殺されたものとして調べる。証拠はまだ何もない。ただ、そう置いて調べるということ」
「……はい」
「明かすと決めたことを、外から知り得た者がいるとすれば、どこ」
「言伝の道にございます。店の者が麒家の商館へ持ち込み、番頭からこちらの取次へ。私の手に届くまでに、四人か五人を経ております。……あるいは、店そのものが前々から見張られていたか」
「どちらかは、分からないのね」
「分かりませぬ」
「店の中は、どうだった」
「帳簿が、揃っております。仕入れも売り上げも、死んだ日まで一枚の乱れもございません」
正しすぎて、かえっておかしい。渓陽の堰の普請で、同じことを言った。あちらは手続きで、こちらは帳簿。生きた商いの帳簿には、消し忘れや書き損じの垢が付くものよ。三代続いた店の帳簿に、書き直しの跡ひとつないなんて。
「荒らされた跡は」
「指一本ぶんもございません。それから、麒家お預かりの書き付きの、例の毒砂糖の包みは、そのまま残っておりました。減ってもいないようです」
そのまま、あったのね。
頭の中で、分かっていることを並べ直す。
火鹿毛に盛られた毒の粉は、干した根を挽いたもの。挽いたのは賀明の店で、干し棚の端にその根が残っていた。ただし、その根が空百合かどうかは、まだ分からない。輪切りの干し根は、花の姿を教えてくれない。株の現物が見つかるまで、そこは仮のまま。
そして、あの大きな設えで挽かれ続けた分は、砂糖ひと壺では済まない量のはずなのに、店にはない。どこか知らない場所にある。
分かっていないことのほうが、まだ多い。
「それから、ひとつ。賀明の店は、内廷にも薬種を納めておりました」
「内廷に」
「はい。取次は李門と申します。内廷付きの宦官で、御用の品の出入りを扱う者です。賀明の店が内廷へ薬種を納めていたこと自体は、不自然ではありませ」
内廷は、一族の住まう奥のこと。女帝の後宮も、兄様の宮も、わたくしの新宮も、薬草園も温室も、その内にある。その薬箱に、あの店の品が届いていた。
「李門。覚えておくわ」
賀明の死は、突然の卒中として処理された。
その「突然」から、同じ冬に起きた別の突然が、次々に浮かんできた。
突然の発作として処理された女官の死。あれには柳旬の薬湯が絡み、その柳旬も奏上から三日で処分された。毒を盛られ、間一髪で生き延びた火鹿毛。そして、賀明。
この冬は、突然が多すぎる。
薬湯の出処は、まだ分かっていない。火鹿毛の毒の出どころは、賀明の店まで辿れた。辿れたところで、人が死んだ。
そして、わたくしには、前から決めていた問いがあった。
「静岳。病なのか、毒なのか。まだ決められないと、あなたは言ったわね」
「はい」
「毒だとしたら――誰なら盛れるの」
つまり、容疑者は誰かと聞いた。
静岳はすぐには答えなかった。これから口にする名前の重さを量っているような沈黙だった。
「陛下の煎じ薬と湯薬は、私が管理しております。お膳も毒見を通します。これまで何度も検めましたが、毒は出ておりません」
「それでも、あなたの目を通らずに入るものがある」
「ございます」
「なら、物では絞れないわね」
「はい。疑うとすれば、人です。陛下のお側へ長く、近く、誰にも咎められずに入れる者」
「その条件なら、いちばん当てはまるのは、あなたよ」
「……はい。私も、疑いから外せません」
「そうね。でも、あなたにはわたくしの一番の秘密を預けてある。あなたを疑うくらいなら、この調べごと、畳むわ」
静岳は一瞬だけ目を伏せた。それから顔を上げて、わたくしを見た。
「三人の夫君です」
「三人とも?」
「疑いの列に載せるだけならば」
静岳は淡々と名を挙げた。
「皇配・暁遠さま。二位正夫・律音さま。そして、三位正夫・栄舜さま」
栄舜。
母に三人目の夫がいることは知っていた。けれど、名前まで今日初めて聞くとは思わなかった。家族の卓にも呼ばれず、快気祝いのお披露目にも姿を見せなかった人。
しかも、容疑者一覧で初登場。ずいぶん感じの悪い出方ね。
「三人のうち、今のところ考えにくいのは?」
「律音さまは、お人柄から考えにくいかと」
ミステリーなら、そういう人がだいたい真犯人よ。実の父に対して言うことではないけれど。
「栄舜さまは、陛下のお側へ上がる日そのものが、ほとんどございません」
では普段は何をしているのかしら。暇があるのなら、悪事も仕込めそうだわ。
「皇配さまは」
静岳の言葉が、そこで止まった。
「私は二十年、あの方が陛下にお仕えする姿を見て参りました。粗雑な扱いも、陛下を軽んじる振る舞いも、一度として見たことがございません」
「だから、信じたい」
「……はい」
「けれど、仕事としては外せない」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいわ。わたくしも同じだから」
初めてしっかり話をした午餐で、わたくしは皇配さまを頭の表のいちばん上に置いた。清潔で、公正で、安全な人。あの判定は、いまも動いていない。それでも、疑いの列から外すわけにはいかない。
「違うと分かる材料の出た人から、順に消していきましょう。調べていることは、悟られないように」
「承知しました」
「もうひとつ、教えて。いまの三人に、都の薬種商をひと晩で始末することが、できて?」
「……おできになります。三人とも。ご自分の手を使う必要がございません。人を雇う金と、雇っても怪しまれぬお立場がございますから」
お金と、立場。両方ある。
容疑者一覧。これ以上はまだ、絞りきれない、ということね。
「とりあえず、お茶にしましょう。少し、一息つきたいの」
人払いを解くと老太太が茶器を抱えて入ってきた。待っていたような速さだった。
若い宦官が火鉢の炭を直す。湯が小さく鳴り、温められた茶葉の香りが部屋へ戻ってきた。
戸口で颯真がいつもの位置に立とうとするのを手で止めた。
「颯真。あなたも座りなさい」
「……は」
颯真は一拍迷ってから末席の椅子に浅く腰を下ろした。武人の姿勢のまま茶杯を受ける。
今朝からずっと立ち通しだった人に、せめて茶の一杯くらいは座って飲ませたい。
熱い茶をひとくち含む。わずかな渋みが舌に残って、ようやく肩の力が抜けた。
「姫様。もう一件、ご報告がございます」
……まだあるのね。
今朝から届いたのは死んだ人の検分と容疑者の名前。重たい報せはもうお腹いっぱいよ。
それでも聞かないわけにはいかない。
「何かしら。いま話せること?」
「はい。お人払いは、不要と存じます」
静岳は懐から一枚の控えを出した。
「南より、怜鳳鳴様の言伝にございます。麒家の商館づてに、今朝ほど」
南、の一言で顔を上げた。
怜鳳鳴。無事なのね。まずそれが分かった。
「読んで」
静岳は控えを目の高さに掲げ、いつものよく通る声で、一字も乱さず読み上げた。
「――殿下。あれから、唇は乾いていないか」
茶を噴きかけた。
「南の風はひどく乾く。都の冬風も強かろうと、それだけを案じている。……堰は今のところ保っている。雪解けの本番はこれからだが、杭も人手も足りている。俺が着くまで保たせた者たちの手柄だ。戻りは、いましばらく先になる。いちばんの気掛かりは、あなたを待たせていることだけだ。大丈夫か。俺がいなくて。それから、西の市の預け物の首尾を、次の便で聞かせてくれ。特に何もなくても、次の便を待つ。――以上にございます」
部屋が静かだった。
老太太は生暖かい目で湯呑みを磨いている。
颯真は末席で熱心に天井の梁を検分していた。
静岳の顔にはいつもの冷たい端正さしかない。
この文面は商館の番頭もうちの取次もとうに聞いている。届く道の全員が知っていて、宛先のわたくしだけが真っ赤になっている。
あの男。人前を通る筋だと承知の上で送ってきたわね。
言い逃れは立つ。南の風は乾くから唇の荒れを案じたという、ただの健康伺い。そう読める形に文面が整えてある。だから性質が悪い。
……でも。
軽口の皮の中に要る報せが全部入っていた。堰は保った。あの男は無事。帰りは遅れる。
最後の一行だけが胸に引っかかった。
西の市の預け物。賀明に預けた毒の砂糖。
預けた先の薬師が昨日の朝に冷たくなっていたことをあの人はまだ知らない。
知らせるべきかしら。
……いいえ。
堰と下流の郡を背負っている人に、今度は都の心配まで背負わせてどうするの。こちらのことはこちらで進める。帰ってきたら、全部話す。
「静岳。返事を出すわ」
「は。口述を承ります」
言われて気がついた。わたくしの返事も同じ道を通る。静岳に口述して取次と商館の番頭を経て南へ届く。つまりまともな言葉はひとつも書けない。
怜鳳鳴。あなたはいったいどんな顔をして口述したの。
言いたいことはいくらでもあった。無事で良かった。堰を守ってくれてありがとう。唇のことは二度と人前で言うな。あなたがいないから、あまり大丈夫ではない。
早く、帰ってきて。
どれもこの筋には載せられない。
さんざん唸ってわたくしは一言だけ口述した。
「――褒美は、帰ってから。以上よ」
「復唱いたします。褒美は、帰ってから。以上」
静岳の滑舌はこういうときも完璧だった。老太太の目が一段と温かい。颯真はまだ梁を見ている。
茶を飲み干して杯を置いた。
書き留めない報せがひとつ増えた。書かなくても消えない類のものだった。




