39.景鶴鈴
静岳は報告の束とは別の書箱から、一枚を抜いて卓に置いた。
差し出された一枚から、香の匂いが濃く立ち上った。だから書箱を別にして持ってきたのね。
紙に香をこんなに強く焚き染める人間を、わたくしはひとりしか知らない。
差出人の名を見て、やっぱりと思った。
景鶴鈴。
内容は、拝謁願いだった。
快気祝いの席で夫たち全員を敵に回して、国元へ退がったはずの男。また都に上ってくるそうです、と怜鳳鳴が言っていた。その続きが、香り付きの願書になって届いた。
匂いに気を取られているわたくしに、静岳が別の話を差し込んだ。
「姫様。この願書、通り方が綺麗すぎます」
「通り方? 綺麗すぎる?」
静岳の言い方はたいてい短すぎて、何を言いたいのか追いつかないことがある。
「地方から上がる拝謁願いは、どこかで必ず滞るものです。書式の不備、取次の順、時候の悪さ。これは一度も滞りなく、通るべき所を通るべき順で上がって参りました。取次の署名も、すべて揃っております」
通るべき所を、通るべき順で。手抜かりもなく書き直しの指摘もされないで、スムーズに。
似ている。
この拝謁願いのスムーズさと整い方は、賀明の帳簿とそっくりだわ。
間違いがなくて、綺麗に整いすぎている。
静岳がなおも続ける。
「取次の署名の名が……李門にございます」
え。さっき覚えたばかりの名前が、もう戻ってきた。
李門。
内廷付きの宦官で、御用の品の出入りを扱う者、だったはず。
死んだ薬種商の店の控えと、この願書。同じ名前が、両方にある。
「李門って、どういうこと?」
「顔の広い宦官なら、どこにでも名が出ることはよくございます。偶然かもしれません」
同じ名前が続けて出てくるほど、内廷付きの宦官の人数が少ないとは思えない。
陽輝帝国の皇帝一族の生活圏よ。普通のお金持ち家庭とは桁が違う。
役人の数が一桁ということはありえない。物覚えの悪くないわたくしでさえ、覚えていられない程度の数はいる。
「偶然かもしれないものが、近ごろ多すぎるの。李門を調べて。気づかれないように」
「承知いたしました。……それで、景鶴鈴殿には、お会いになりますか」
そうだった。忘れていたわ。物覚え、悪くないのに。景鶴鈴だから仕方ない。
「静岳はどう思うの」
「お断りが穏当かと。あの御仁と会って、得るものがあるとは思えませぬ」
「そうね。でも、会うことにするわ。会わないと、匂いも嗅げないもの」
「匂いでしたら、この願書だけで十分すぎるほどかと」
静岳は真顔で言った。冗談なのか素なのかわからず、静岳の顔を見つめてしまった。
静岳の咳払いで我に返る。
「会うのは一度きりよ。場所は公式の謁見の間。時間は短く」
「かしこまりました」
条件を並べて、わたくしは景鶴鈴の拝謁を許した。
謁見の間には、本人より先に香りが入ってきた。期待を裏切らない男ね。
匂いの後ろから現れた景鶴鈴は、記憶にあるままの男だった。藤色の礼装に銀糸の刺繍を惜しみなく散らして、腰では玉がじゃらじゃら鳴っている。
歩くたびに音と匂いが同時に届く。にぎやか。
わたくしは扇を鼻の前で軽くあおいでみた。あまり効果はない。
「皇太姫殿下におかれましてはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じ奉ります。南方麒家が縁、景鶴鈴めにございます。本日は拝謁の栄を賜り、この景鶴鈴、身に余る……」
口上が長い。
長い口上のあいだ、景鶴鈴の目は忙しかった。わたくしの装い、卓の品、部屋の設え。値札を貼る目だった。それから、わたくしの斜め後ろで止まった。
颯真が立っている。
景鶴鈴の喉が、こくりと動いた。快気祝いの席で颯真の剣先がこの男の輪郭をなぞって、鬢の毛が一本だけ舞った。あの日の記憶は、体のほうに残っているらしい。
颯真が圧をかけている様子もないのだけど、視界に立っているだけで長口上を止める効果があるみたい。経済的ね。
「……本日は、折り入ってのお願いがあり、参上つかまつりました」
「聞くわ」
「殿下の御夫の列に、この景鶴鈴めを、お加えいただきたく」
まだ言ってる。
度胸だけは大したものだと思う。いえ、記憶消去が上手なのかもしれない。
「あなた、快気祝いの席を覚えていて?」
「は。……それはもう、忘れがたく」
覚えているの。
「あの席にいた四人が、わたくしの夫よ。わたくしが自分の目で選んだの。増やす予定も、選び直す予定もないわ」
「殿下。それを承知の上での、お願いにございます。南方の商いの実り、都には届かぬ献上の品々、厚い後ろ盾も、お心の慰めも、この景鶴鈴、必ずや殿下のお役に……」
「ダニング=クルーガー効果……」
「は? だにん、くる、が? なんと仰いましたか」
あら。うっかり口に出ていたみたい。能力の低い人が、根拠のない自信を持ってしまうこと。認知バイアスの話だけれど、まさにあなたのことよ、景鶴鈴。
つまり、面倒くさい。
「役に立つ話なら、ひとつだけあるわ」
わたくしは扇を閉じた。
「颯真の剣、二度目も見たい?」
景鶴鈴の腰の玉が、ちゃりと鳴った。半歩下がった音だった。
「……本日のところは、これにて」
退がり際、一瞬だけ、笑みの下から素の顔が覗いた。
悔しがってはいなかった。値踏みの目だけが、最後まで働いていた。
それから男は刺繍だらけの礼に戻って、来たときと同じ長さの口上とともに出ていった。
香りだけが、しばらく残った。
「……姫様。窓を開けます」
颯真が真顔で言って、本当に開けた。冬の風が香りを押し流していく。
「ねえ、静岳。あの男、断られて悔しそうだった?」
「いえ。断られる前提の顔と、お見受けしました」
「でしょう。恥をかいた都へ、断られると分かっている願いを持って、わざわざ戻ってくる。旅にも宿にもあの衣装にも、金がかかるのに」
「あの御仁の家に、それほどの余裕はないはずでございます」
「なら、金は誰かが出している。願いの的も、あの男が自分で思いつく的ではないわ。夫の列ですって。断られても、願いを出したという事実だけは残る。『厚い後ろ盾』とも言ったわ」
人を雇う金と、怪しまれない立場。
それって、容疑者の話のときに静岳が挙げた条件と、同じ。
「根拠のない自信」ではないのかもしれない。
誰かが、景鶴鈴というにぎやかな駒を、わたくしの目の前に置いた。置いた手は見えない。
こういうときに限って、南方の商人筋に誰より明るい男が、都にいない。
「静岳。願書は、店の出入りの控えと並べてしまっておいて。それから、景鶴鈴の都での宿と、出入りの人を調べて」
「承知いたしました」
香りの薄れた謁見の間で、わたくしは扇を開き直した。
「……香以上に、何か匂うわ」




