40.帳簿の暗号
執務室でわたくしは一冊の帳簿に敗北しかけていた。
狸の尾、秋、受領。
青雀三分、完成。
戌の鼻、一つ、白木口へ手交。
読めない。
いえ、正確には読める。読めるけれど、意味不明。
字はこの国の字なのに、単語が意味を結ばない。どの頁を繰っても、同じ調子だった。
始まりは、静岳が布包みを卓へ置いたことだった。
中から出てきたのは、掌より少し大きな冊子。油紙で幾重にも包まれている。
「賀明の店で見つかった、もう一冊の帳簿です。床下に隠されていました。床板の釘だけが新しかったので」
「役人は見落としたの?」
「役人が入る前に、こちらで回収しました。中身を確かめるのに、少し時間をいただきました」
悪びれもせずに静岳は言った。
わたくしも咎めなかった。
床下へ隠された、もう一冊の帳簿。
どう見ても、表に出せないほうね。
「薬屋が、店の帳簿とは別に、こんなものを床下に隠していた。で、なにを書いてあるのかわかったの?」
「はい。いくつかは薬や素材の符牒や隠語かと思います。ただ、体系までは、私どもには」
符牒に、隠語。
つまり暗号ね。
なら、薬に詳しい人へ読ませればいい。
いるじゃない。こういうものを見せると、食事も睡眠も忘れてくれる人が。
わたくしは理珂を呼んだ。
執務室に入ってきた理珂は珍しそうに室内を見ていた。夫たちが表の執務室に来ることはめったにない。好奇心を刺激されているようだ。
理珂の衣からは乾かした薬草の青い匂いが、ほんのりと漂った。今朝も薬の部屋に籠もっていたらしい。
裏帳簿を指し示すと、理珂は最初の頁を開き、細い指で文字を追い始めた。わたくしと静岳も一緒に、三人で頁を囲んだ。
狸の尾、秋、受領。
「狸の尾って、薬や植物の名前?」
「いえ。聞いたことがありません」
やはり、暗号ね。
「……受領、は分かるわ。何かを受け取っている。秋、ということは、他の季節のものもあるの」
「あるはずです」
理珂が頁を繰った。繰って、繰って、止まった。
「……ありません。狸の尾は、どの年も、秋だけです」
「年に一度、秋に受け取る何か。……次。青雀三分、完成」
「三分の分は、さっきの秋の分の分とは違うわね」
「はい。量った量です」
「それで、何が完成するの」
「そのまま読めば、青雀と呼ぶものが完成しています。ただ、受領と完成のあいだに、作業の字が並びます。干す。挽く。量る。包む」
「狸の尾を受け取って、干して、挽いて、包む。完成したものが青雀。薬種の店の仕事としては、普通よね」
「普通です。普通でないのは、品の名を隠していることだけです」
まっとうな品なら、狸の尾なんて呼ぶ必要がない。
ふと見ると、理珂の目が輝いていた。
「……面白い」
声に詫びの色はなかった。わたくしの視線にも気づいていない。
死んだ男の帳簿に向ける言葉ではない。
それでも、この人の「面白い」は、調べがいちばん速く進む合図だ。不謹慎の分は、わたくしが胸の内で預かっておく。
「夢中でいてちょうだい」
「はい」
「手交。今度は、渡す側ね。戌の鼻という品を一つ、白木口へ」
「はい。一つとありますから、量ではなく、固形の品でしょう」
「白木口。しらきぐち、と読むのかしら。人の名前か、店か、場所か」
「そこまでは分かりません」
静岳が別の頁を開いた。
「ただ、受け取り先は、どの頁も白木口です」
「一度も変わっていないの?」
「十年以上、すべて同じです」
白木口が人なのか、店なのか、それとも荷を受け取る場所なのかは分からない。
「注文は、どうやって届いていたの。白木口が人でも店でも、品と量の指図がなければ、商いは動かないでしょう」
「文かと存じます。店には、一枚も残っておりませんでしたが」
確かなのは、賀明が作った品が、十年以上ずっと同じ「白木口」のもとへ流れていたことだった。
理珂が冊子の背を撫でた。
「紙の色が、途中で何度も変わっています。綴じ直して、書き継いだ帳簿です。それ以上の年数は分かりません。……毎年秋には、同じ作業が、年をいくつも跨いで繰り返されています」
十年以上。
秋に受け取った何かを加工し、少しずつ同じ受け取り口へ流してきた。その繰り返しが、十年以上。
読めない符牒の帳簿でいちばん雄弁なのは、その几帳面な長さだった。
「それから、殿下。この秋だけ、受け取った量が違います」
「どのくらい?」
「例年の何年分にも当たる量です。欄外に、蔵が足りぬ、とあります」
「……何年ぶんも、一度に。ずいぶんな繁盛ね」
今は冬の終わり。この秋、つまりほんの数か月前に、何年ぶんもの品がまとめて持ち込まれたことになる。
「受け取った品は、秋のうちに加工されています。そのあと、最後のふた月で、すべて白木口へ渡したようです」
静岳が口を開いた。
「もうひとつ、欄外がございます。この秋の大口の行の脇に、仁、と一字。前後に何もなく、意味は分かりません」
「たしかにあるわ。仁。じんよね。……徳を表す字が、毒の帳簿の欄外に。似合わないこと」
理珂は、最後の頁を開いた。
「最後のふた月は、手交の記録ばかりです。青雀、まとめて手交。戌の鼻、残らず手交。預かり、残なし」
「……預かっていた分は、全部渡したのね」
「はい。狸の尾は、棚のぶんのみ、と書かれています。新しい受領も、仕事の記録もありません」
理珂は頁を少し戻して、細い指で一行を押さえた。
「それから、一箇所だけ、勘定の合わない月があります。冬の初めです。完成した青雀の数に対して、白木口へ渡した包みが一つ足りません」
「一つ、どこかへ消えた?」
「はい。賀明は欄外に、一包、行方知れず、当方の失にあらず、と書いています。ここだけは符牒ではなく、生の字です」
「当方の失にあらず」
誰に向けた言い訳なのだろう。
賀明が自分のためだけに残した帳簿なら、責任が自分にないなどと書く必要はない。白木口か、その向こうにいる誰かへ、説明するつもりで書いたように見えた。
冬の初め。
女官が飛び降りたのも、冬の初めだった。
行方の分からない一包。
柳旬が用意したという、出どころの分からない薬湯。
それを飲み、その夜に窓から飛び降りた女官。
同じものだという証拠はない。
それでも、ばらばらだった三つの点のあいだに、一本の細い線が見えた。
消えた一包が、柳旬の薬湯へ流れたのではないか。
十年以上続いてきた品が、この秋に何年ぶんも持ち込まれた。
それを加工し、最後のふた月で、預かり分をすべて渡している。残ったのは、棚に置かれたわずかな分だけ。
その流れから外れたのは、冬の初めに行方の分からなくなった、ただ一包。
帳簿が終わったというより、何かを終わらせるために、大口の品をすべて引き上げたように見えた。
理珂は、全部の頁を読んで、帳簿を閉じた。わたくしと静岳も、いまの話の流れをもう一度頭でなぞる。
「狸の尾の残りが、棚にあったということよね」
「はい。自分が店で見つけた根が、帳簿の『狸の尾』である蓋然性は高いです」
理珂が調べていた、毒を持つ正体不明の根。
あれが狸の尾。
ならば、この冊子は毒の受け渡しを記した裏帳簿ということになる。
「つまり賀明は、狸の尾を手に入れ、干して、挽いて、包み、白木口へ渡していた」
「はい」
「砂糖に混ぜられていた毒も、狸の尾から作られたもの?」
「おそらく。ですが、まだ同じものだとは断定できません」
「狸の尾が、空百合の根なのかも?」
「まだ決まっていません」
理珂は、きっぱりと言った。
わたくしの頭には、もう杏里村の空色の花畑が浮かんでいた。秋に掘り返され、根だけを奪われた畑。
けれど、似ていることと、同じであることは違う。
「そうね。先に答えを決めては駄目だったわ」
「絞り込んでいます。あと数日ください」
強い目をして、理珂はそのまま部屋を下がっていった。
裏帳簿の冊子は静岳が持って下がった。ここに置いておくわけにはいかないのだろう。
その日、執務室から戻る内廷の渡り廊下で皇配さまに行き会った。
「麒家の三の君の旅路が、案じられますな」
皇配さまは、わたくしの歩みに合わせてくれた。怜鳳鳴が年の瀬の郷里へ下ったことは、もう宮中の知るところになっている。物見遊山という表向きも、そのまま信じられているらしい。
「南は、もうふた月も長雨が続いているとか。旅の空が荒れねばよいのですが」
「お耳が早うございますね」
「年寄りの取り柄は、耳だけにございますよ。何かございましたら、いつでも」
皇配さまは静かに笑った。年寄りというほどではないと思うけれど、たぶん謙遜の定型なのだろう。
廊下の角へ差しかかったところで、冬の風が回り込んできた。吊り灯籠が小さく鳴り、わたくしの袖が冷たく膨らむ。
皇配さまは何も言わず、半歩だけ立ち位置を変えた。わたくしの風上へ、さりげなく肩が入る。家族の卓で、母の汁物を音もなく替えさせたときと同じ気遣いだった。
この人を、わたくしはまだ疑いの列から外していない。
けれど、この変わらない言葉と振る舞いを、偽物だと思える材料もなかった。疑っている相手に守られるのは、冬風より冷える。
それでも今は、その気遣いがありがたかったことも事実だ。
渡り廊下の端で別れ、冬の空を見上げた。
渓陽には、ふた月の長雨。雪解けまで、もう幾らもない。
急ぎなさい、怜。
部屋へ戻り、今日分かったことを、順に並べる。
賀明は十年以上、正体を隠した品を加工してきた。受け取り先は、ずっと白木口ひとつ。
そしてこの秋だけ、扱う量が何年分にも膨れ上がった。加工された品は、最後のふた月ですべて引き取られ、棚にわずかな残りがあるだけになった。
その途中、冬の初めに、加工済みの一包だけが行方不明になっている。女官が薬湯を飲んで飛び降りたのと、同じころだ。まだ、同じ品とは決まっていない。けれど、偶然として脇へ置くには、時期が合いすぎていた。
そのあと、賀明は死んだ。
偶然で押し通すには、出来すぎている。
……お母様。
病と毒を同じ重さで載せていた秤が、毒の側へ傾いた。
証拠はまだ足りない。病の可能性も捨てない。けれど、ここからは毒を第一の仮説として動く。
もし、この帳簿の品が母にも使われているなら。
目的は、ただ命を奪うことではない。殺すだけなら、こんな回りくどい仕掛けはいらない。
判断を鈍らせ、悪い命令を出させ、民の恨みを積み上げる。
その先を、わたくしは聖典で知っている。
民が立ち、女帝が倒され、皇太姫も並べて処刑される。犯人は自分で刃を持たない。国そのものを凶器に変え、記録の外から見ているだけ。
杏里村と、同じ形だ。
ただし、まだ分からないことがある。
煎じ薬も湯薬も膳も、静岳の目を通っている。毒は見つかっていない。
なら、どこから母の体へ入っているのか。
何かを見落としている。目の前にあるのに、疑いもせず通しているものを。
やることは二つ。
毒を入れる道筋と、その手を突き止める。
そして理珂に、狸の尾の正体と手当ての方法を探してもらう。
入口と、治療。
どちらも時間はかかる。けれど、何を探せばいいかは見えてきた。
別紙を開き、今日分かった事実だけを書き足した。
賀明の裏帳簿。十年以上、狸の尾を加工。受け取り先は白木口のみ。この秋、扱う量が急増。最後のふた月で預かり分をすべて手交。棚に少量のみ。冬の初め、加工済みの一包が行方不明。欄外に「当方の失にあらず」。大口の行の脇に「仁」。狸の尾と空百合の関係は、まだ未確定。
筆を置いた。
一つ目の問いは、すでに立ててある。
『毒だとしたら――誰なら盛れるの』
――女帝の、三人の夫たち。




