41.煙
理珂からの報告は、空振りから始まった。
「渓陽より先の山々は、雪に閉ざされています。春まで人は入れません。都の薬種商と絵図も、あらかた当たりましたが……空色の百合は、どこにもありません」
理珂の顔には、悔しさが素直に出ていた。理珂がどれほど書物を読んでも、書物に載っていない花は見つからない。空色の花は、理珂の張った網をするりと抜けていった。
「薬草園は」
「株をひとつずつ調べ続けています。ただ、あの園は広い。冬は葉を落とす株も多く、照合に時間が要ります」
「ええ。丁寧にね。焦らなくていいわ」
焦らなくていい、と言った口の裏で、わたくしの焦りは別の場所を向いていた。
株は、毒の正体の答え合わせ。大事だけれど、答え合わせは逃げない。
逃げるのは、人の方だ。
昼、一人の机で、帳簿の写しをもう一度開いた。
狸の尾、秋、受領。年に一度、少しずつ作って、少しずつ手交。十年以上。
この帳簿の動きを、毒の使い方として読んだらどうなるか。
一度で殺すためだけなら、十年以上も同じ受け取り口へ流し続ける必要はない。
もちろん、昔から同じ相手へ使われていたとは限らない。それでも、少量を長く使うための品だった可能性はある。
女官のことを思い出す。冬の初め、裏帳簿から加工済みの一包が消えた。あの人は同じころ、出どころの分からない薬湯を一度飲み、その夜に飛び降りた。
消えた一包が薬湯へ入った証拠はない。けれど、もし同じものなら、一度で人を壊す使い方もあることになる。
母は違う。生きたまま、半年前から少しずつ様子を変えている。
同じ毒かどうかは分からない。けれど毒には、一度に人を倒す使い方と、量と月日をかけて人を壊していく使い方がある。
もし母の変化が毒によるものなら、後者の形をしている。
では、その少しずつは、どこから入る。
午後、静岳を呼んだ。
「煎じ薬、湯薬、お膳。あなたの調べは、いまも」
「続けております。毒は、出ておりません」
「お茶は。お酒は。菓子は」
「すべて毒見を通します」
「食べものと飲みもの、全部調べたのね」
「はい」
自分で口にした言葉が、耳へ戻ってきた。
食べもの。飲みもの。
胃へ入るものばかりを調べていた。
では、肺へ入るものは。
わたくしは立ち上がり、棚の奥から漆塗りの箱を取り出した。
成人の祝いに届いた、あの煙管。
食べ物でも飲み物でもなく、吸うもの。
老太太が生暖かい目でこちらを見ている。
「姫様。ついに、お使いに」
「違うわよ」
箱を開ける。絹の上の一本。刻んだ煙草を火皿で焚いて吸う道具。後宮では、と言い淀んだ老太太。棚の奥で眠っていてもらいましょう、と笑って仕舞った、わたくしの煙管。
『お母様は、お煙草をお吸いになるのかしら』
『陛下は、お煙草は好まれませんね』
あのときの、妙に長い間。
壇の上の小卓。杯の横に横たえてあった一本。黒い柄に銀の飾り。火皿のまわりだけ、色が深く沈んでいた。使い込まれた道具の色だった。好まれない人の道具は、あんな色にならない。
それから、倒れた老宦官。御用の煙管の燃え残りを、滋養に良いものと聞いて詰め直して、長く吸って、倒れた人。
『当の煙管の筋は、記録では辿れませんでした――それより先は、陛下の後宮の内にございます』
理珂の言葉も思い出す。
『触れて危険なものは避けます。吸って危険なものも』
わたくしは、いつかの夜、別紙にちゃんと書いてさえいた。女官の死。柳旬の死。母の良い日と悪い日。煙管。
書いて、並べて、そして素通りした。
……何をやっていたのだろう。こんな簡単なこと、もっと早く気づけたはずだ。
「静岳。煙管だったのね」
声が少し掠れた。
「お母様は煙草を吸わない。なら、煙管に詰めているのは煙草ではない。……媚薬ね」
「はい」
「お母様がお使いの媚薬は、何?」
きっと、空百合だ。
ようやく道がつながった。そう思った。
けれど、静岳の答えは違った。
「天覧蘭の根です。陛下の花印に使われている花でございます」
天覧蘭。薄紅色の一輪。空百合ではない。組み上がりかけた推理が、音を立てて軋んだ。
毒の第一仮説は、狸の尾——おそらくは空百合の根。そして天覧蘭は明らかに別の花。この目で見ている。
煙が母を壊しているのなら、あの煙に、狸の尾が混ぜ込まれていなくてはならない。
「天覧蘭は、どこで誰が」
「温室にございます。皇配さまの差配で、庭師の出入りから株の数まで、帳簿が通っております。年にいくつ根を採り、いつ御用へ納めたか。……調べたことがございます。乱れは、ございません」
「そこに別のものを混ぜる隙は、ないのね」
静岳は、長いあいだ黙っていた。それから、静かに言った。
「同じことを、私も、疑いました。そして、調べました」
初耳だった。
「老宦官の一件のあとです。御用の煙草や媚薬を、葉も、刻みも、火皿の燃え残りも。……出たのは、天覧蘭の媚薬だけにございます。それ以外のものは、ひと欠片も」
「天覧蘭だけだったのね」
「はい。何度調べても、帳簿どおりの天覧蘭しか出ませんでした。それでもう、陛下のご様子は、毒ではなくて病ではないかと」
静岳は見落としていたのではない。
老宦官が倒れたあと、煙管も、煙草も、媚薬も、燃え残りまで調べていた。それでも、天覧蘭以外は何も出なかった。
煙管は怪しい。けれど、中身は潔白。
それでも母の症状は続いている。
毒という仮説が正しいなら、別の何かが検査をすり抜けている。
十年以上、母のそばにいられる者という条件も変わらない。
容疑者からは、まだ誰も落とせなかった。
「静岳。謎の形が変わったわ」
「はい」
「これまでは、誰が盛っているのかを考えていた。でも今は、どうやって届いているのかが先よ」
煙管は怪しい。けれど、煙から毒は出なかった。
「なら、空百合の毒は、どの道を通って母へ届いているの」
静岳は答えなかった。
答えのない問いだと、二人とも分かっていた。
誰が、は三人のまま。
どうやって、が解けたとき、初めてその三人を絞り込める。
別紙の「白木口」の下に、新しい一行を書き足した。
煙管、煙草、媚薬から毒は出ず。天覧蘭のみ。それでも陛下の症状は続く。別の経路あり。
夜、悠珀を呼んだ。
その腕の中へ身を預けると、衣越しの体温に、肩へ入っていた力が少しずつほどけた。
調べていることの詳しい話はしなかった。ただ、進んでいるはずなのに、進んでいない気がする、とだけ言った。
「姫様は、ちゃんと進んでいます」
悠珀は、いつもの穏やかな声で言った。
「絵と同じです。手が止まって見える時間に、いちばん大事な線を選んでいる」
その言葉を聞いて、北向きの部屋でひとりでいる兄様の姿が浮かんだ。
止まって見える時間。
兄様も、いまはその中にいるのかもしれない。
そして気づいた。
わたくしは、こういう言葉が欲しくて悠珀を呼んだのだ。この時間が必要だった。
甘えている。自覚あり。
「悠珀。お願いがあるの」
「はい」
「この前、薬草園で絵を描いていたでしょう。あれを一枚、仕上げてほしいの。兄様へ差し上げたいわ。北向きのお部屋からは、庭くらいしか見えないでしょうから」
悠珀は一拍おいて、目元で笑った。
「喜んで。良い紙を選びます」
冬にも咲く花があるといい。
絵の花でも、きっと兄様の心を慰めてくれる。
今夜、わたくしが悠珀にそうしてもらったような温かさで。




