42.褒美
南からの早馬は、雨上がりの朝に着いた。
静岳が早馬の報告を持って入ってきたとき、わたくしは筆を持ったまま立ち上がっていた。座って聞ける気がしなかった。この前、途中報告は聞いていた。それでもまだ、雪解け本番後の詳細はわからない。
「渓陽からです。……堰は、破れました」
息が止まった。
そんな。
静岳は報告から目を上げず、すぐに続けた。
「ですが、破れる前に水の逃げ道が三本掘られていました。下流の郡には舟が用意され、高台の蔵にも米が運ばれております。田畑には被害が出ましたが、呑まれた村はありません」
そこで静岳が顔を上げた。
「亡くなった者は、一人もおりません」
「……ひとりも?」
「麒家の三の君が、年の瀬に道楽で治水へ口を出したおかげだと、渓陽では評判になっております。道楽だと笑っていた者たちも、いまは高台の蔵の米で作った粥を食べているそうです」
膝から力が抜けて、わたくしは椅子に座り直した。座ってから、自分の手が震えているのに気づいた。
間に合った。今度は、間に合った。生きている村と生きている人が、あの雨の向こうに残った。
息を整えて、それから、静かに気づいた。
聖典には、この大水害が書かれていた。呑まれる村々と、流される人と、天を恨む声。杏里村の火と並んで、民の怒りに薪をくべる頁だった。あの怒りの先に、広場があった。
その頁が、いま、書き換わった。
災いは書かれたとおりに来て、書かれたとおりには終わらなかった。道楽者のふりをした男が、ひと月、泥の中で杭を打ったから。
杏里村では、負けた。頁のとおりに村は焼けて、わたくしは焼け跡に立った。あの日から一手ずつ打ち直してきた現実が、今日、初めて頁に勝った。
広場へ続く薪が、一本、抜けた。
……一本だけ、ということも、忘れないでおく。杏里村の薪は、もう燃えてしまっている。それでも、結末はもう、頁の言いなりではない。書き換えられると、今日、証が立った。
この先の頁は、当てにならなくなっていく。結末を知っていることだけが武器だったわたくしから、勝つたびに、その武器が薄れていく。構わない。処刑の頁だって、もう決まりではないのだから。
「怜鳳鳴は」
「ご無事にございます。後始末を家の者に預け、すでに都へ発たれたと。……この早馬の脚から数えますと、早ければ本日にも」
本日。その一語が胸の中で跳ねて、わたくしは慌てて筆を握り直した。
皇太姫には本日ぶんの決裁がある。決裁の紙の上で、何度も同じ行を読んだ。
筆を置いて息を継ぐと、庭の木々の枝先に小さな蕾がついているのが見えた。雨に洗われた枝先の色が、冬の庭の中でいちばん新しかった。
午後、その執務室の外が、ざわめき始めた。
最初は遠い波の音のようだった。回廊の向こうから、女官たちの高い声が泡のように立って、近づいてくる。取り次ぎの宦官が戸口で振り返って、何か言いかけて、言い終わる前に、その男が入ってきた。
黒髪を無造作に縛り、埃をかぶった騎馬服のままの、長身の男。
「怜……!」
思わず名を呼んだ。呼んでから、ここが公の執務室だと思い出した。後宮の夫が表の執務室に、手順を省いて人払いなしに足を踏み入れるなど、聞いたことがない。官吏たちが筆を止めて棒立ちになり、開いた戸口の向こうには回廊の女官たちが鈴なりになっていた。
「怜鳳鳴様よ……南方の」
「まあ、お戻りに。相変わらず素敵……」
「後宮の御方が、表にお見えになるなんて」
ざわめきは咎める声にならなかった。ならないところに、この男が後宮に入る前に都で売っていた顔の広さが知れた。
けれど当の本人は、鈴なりの視線には一顧だにせず、まっすぐにわたくしだけを見ていた。
乾いた土と馬、日に温められた革の匂いを連れて、執務の間を横切ってくる。護衛たちがわずかに身構えるのを、わたくしは手で制した。
「おかえり、なさい」
我ながら間の抜けた声が出た。怜鳳鳴は答えない。わたくしは咳払いをし、皇太姫としての声を取り戻して続けた。
「無事の帰還、何より。大層な働きで領民を救ったと報せを受けました。見事でした」
それでも、答えない。目だけが、じっとわたくしを見ている。埃と汗と、長い道のりの匂いをまとった男の目に、揺れない熱があった。
「……怜鳳鳴?」
名を呼ぶと、男は目の前で膝をついた。見事な所作で跪きながら、視線だけはわたくしから離さない。
「殿下。褒美を賜りたく」
「褒美? ええ、望みなさい。あれだけの働きですもの」
褒美は帰ってから、と伝えたのはわたくしだ。ただ、物が欲しいと言うとは、思っていなかったのだけれど。
怜鳳鳴は立ち上がった。
立ち上がって、一歩で距離を消して、わたくしの肩を抱き寄せた。
「……!」
顎に指が触れた。
何を、と顔を上げたところへ、唇が落ちてきた。
埃の匂いがした。長い道の匂い。その奥に、あの夕方、門前で一瞬だけ触れた温かさと同じものがあって、けれど今度のそれは一瞬では終わらなかった。執務室のざわめきが遠くなる。わたくしはようやく我に返って、唇を離した。
「……怜鳳鳴、急に何を」
彼はわたくしの耳元に口を寄せて、低く、囁く。
「この間のは、短すぎたからな。……続きだ」
言葉づかいが、変わっていた。丁寧の皮が一枚落ちて、その下の素の男の声だった。そしてまた、唇が重なった。
今度は長かった。腰を支える腕に力が入り、わたくしの指も、いつの間にか怜鳳鳴の騎馬服を掴んでいる。
顔が熱い。耳まで熱い。
けれど、離れたいとは思わなかった。
「きゃっ……目の毒ですわ」
「怜鳳鳴殿は夫君ですから、おかしくはございませんけれど……」
「殿下のお顔、真っ赤……お可愛らしい」
最後のひそひそ声のところで、怜鳳鳴がはっと唇を離した。離して、周囲をぐるりと見回して、命じた。
「見るな。全員後ろを向け!」
執務の間の官吏と、戸口の女官たちが、一斉に顔を見合わせた。見合わせて、それから、ぞろぞろと後ろを向いた。誰も逆らわなかったのは、この男の声に本物の圧があったからで、そして半分は、みんな笑いを噛み殺すのに忙しかったからだと思う。
「怜、勝手に始めておいて理不尽よ」
小声で抗議すると、男はニヤリと笑った。埃だらけの顔で、真正面から、わたくしを見て言う。
「なんだ。初めてと言っていたのに、ずいぶん冷静だな」
あのときの。門前の、あの一瞬の。
甘く低い声に鼓動が跳ね上がって、ますます顔に熱が集まった。
冷静なわけ、ない。冷静に見えているなら、あなたの目は節穴よ。
そう言い返したいのに、声が出てこない。
「華音……」
思わず、というふうに男が呟いた。呟いて、わたくしを強く抱きしめた。日に温められた外套と、乾いた革の匂い。
その奥で、鼓動が速く鳴っていた。
「そんな顔を見せるな。俺は……冷静でいられない」
腕の中で、わたくしは動けなかった。
「会いたかった」
短い一言だった。飾りも刺繍もない、裸の一言。
渓陽までの往きの道と、堰と水と泥の日々と、都までの帰りの道の全部が、その一言に畳まれていた。
わたくしは男の胸に頬を預けたまま、その鼓動を聞いていた。速い。わたくしのせいで速いのだと思うと、胸の奥が甘く軋んだ。
「……わたくしも」
声は小さくなった。小さくても、この距離なら届く。
「会いたかったわ。……おかえりなさい、怜」
腕の力が、いっそう強くなった。
どれくらいそうしていたのか、背後で誰かが、控えめに、けれど限界という咳払いをした。
そっと窺うと、後ろを向いたままの官吏たちの肩が小刻みに揺れていて、戸口の女官たちに至っては後ろを向く努力すら放棄して、みんなこちらを拝むように見ていた。
わたくしは怜鳳鳴の胸を押して距離を取って、乱れてもいない襟元を直した。
「……皆、仕事に戻りなさい。……怜鳳鳴、あなたもよ。まず湯を使って、着替えて、休むこと。報告は、休んでからで構わないわ」
「御意」
男は一礼した。丁寧の皮がまた一枚戻ってきて、けれど目の熱だけは戻らないまま、わたくしを見た。
「ただ、一つだけ。今日のうちにお耳へ入れたいことがあります」
怜鳳鳴の目の奥に、別の火が灯った。
「堰の普請へ入っていた者たちの荷から、妙なものが出ました。詳しくは、あらためて」
事件の火だった。わたくしは頷いた。
「ええ、聞くわ。まずは、休んで」
「は。……殿下」
「何」
「髪が、乱れておいでです」
男は指を伸ばして、耳の上の後れ毛に、ほんのわずかに触れて、離した。それから声を落として、悪い顔で笑った。
「……乱したのは、俺ですが」
「っ……早く行きなさい!」
怜鳳鳴は声を立てて笑って、埃の匂いを残して、来たときと同じようにまっすぐに執務室を出ていった。回廊の女官たちが波のように割れて、黄色い声がそのあとを追いかけていく。
わたくしは椅子に座り直して、決裁の紙を引き寄せて、同じ行を十回読んでいることに気づいて、諦めて筆を置いた。
頬がまだ熱かった。唇には、埃と、長い道の匂いと、それから約束が果たされた温かさが残っていた。
すぐに帰る、と言って。
あの男は本当に、幾つもの村を救って帰ってきた。
窓の外は、よく晴れていた。雨に洗われた枝先で、小さな蕾が光っている。
南の雨も、ようやく上がった。
そんな気がした。




