43.球根
翌朝、怜鳳鳴は約束どおり報告に来た。人払いの上で。
埃が落ちて騎馬服が常服に変わると、昨日の男が嘘のように、礼儀正しい夫の顔をしている。ただ、目の奥の熱はまだある。むしろ強くなっている。
堰の普請の子細、麒家が立て替えた金の勘定、渓陽の郡司たちの働き。報告は短く要点だけで、最後に、声が一段落ちた。
「妙なもの、というのはこれです。普請へ人足として入っていた男が何人か、終わり際の夜に姿を消しました。宿へ置き去りにした荷から、南方の為替屋が振り出した為替が出ています。人足の稼ぎでは持てない額です。……その為替屋は、俺の家の帳場でも良い噂を聞かない」
「人足のふりをして、何かを仕込んでいた?」
「まだ、そこまでは言えません。ただ、普請に加わった船大工が、堰の傷を水だけの仕業とは言い切れないと話していました」
怜鳳鳴の顔から、いつもの軽さが消えた。
「この話は、表ではできません。堰へ人の手が入ったかもしれないと広まれば、証拠が揃う前に、渓陽じゅうが疑心で燃えます」
「為替の写しは」
「商館で写させています。届き次第、静岳殿に回します」
事件の火は、思っていたより近くで燻っていた。
いま吹けば、証拠より先に疑心だけが燃え広がる。為替の写しが届くまでは、触る場所を選ばなくてはならない。
昼からは、薬草園に出た。
理珂の株の照合はまだ続いている。悠珀は画架を立てて絵の仕上げ、颯真はいつもの護衛の距離。そして怜鳳鳴が、生まれて初めてこの園に足を踏み入れて、早々に飽きていた。
土の匂いが、少し変わった。凍みた匂いの底に、湿ってゆるんだ土の匂いが混ざり始めている。畝の際の薬木の枝先にも、小さな蕾が並んでいた。
「悠珀。絵は、どう?」
「あと一度か二度、この時刻の光を見せてもらえれば、仕上がります」
絵は、もうほとんどできているように見えた。
葉を落とした薬木の並びと、霜よけの覆い。枯れ色ばかりの景色のはずなのに、紙の上では枝の一本一本が、春を待つ生き物の顔をしている。小さな蕾がいくつも彩りを添えていた。
この人は通うたびに少しずつ、この園の冬を写し取っていた。
「良い絵。兄様が、喜んでくださるといいけれど」
「北向きのお部屋なら、南の壁に掛けるのがいいと思います。日の差す時刻に、絵の中の園もいちばん明るく見えますから」
掛ける場所まで考えてくれている。礼を言いかけたところで、園の奥から怜鳳鳴の声がした。
「おい。これは食えるのか」
冷暗所の戸口で、怜鳳鳴が籠をひとつ覗き込んでいた。次々に籠の覆いを外している。
薬草に興味のない男は、退屈すると食べ物を探すらしい。
「食べないでください」
理珂が畝の間から立ち上がった。危機感を感じたらしい。
足早に歩いていって、籠の中を見て、止まった。
止まり方が、長かった。
「殿下。自分の手抜かりです」
「何が」
「株を探していました。生きて、育っているものを。だから貯蔵の籠は後回しにしていました。……この園の照合は、まだ済んでいなかったということです」
冷暗所には貯蔵の籠が並んでいる。それだけなら薬草園として当たり前の眺めだった。ただ、奥の一籠だけ、様子が違った。
球根の入った籠の集まる一角だった。
ほかの籠の球根は、茶色い外皮にくるまれた見慣れた姿をしている。その一籠のものは白く、外皮がなく、厚い鱗片が幾重にも重なって、少し平たい。上と下の二箇所から乾いた根が出ていて、鱗片の縁が、うっすら紫がかっていた。
「ユリの仲間の鱗茎です。一般には、球根と呼びます」
ユリ。球根。
「外皮を作らず、鱗片を重ねる。それに、書物の一行と合います。根は球根のようなもの、株ひとつに根がひとつ。……あの空色の花の記述です」
空色のユリ。
探していた花だった。ただ、探していた形ではない。理珂が探していたのは、土に根を張って生きている株。目の前にあるのは、掘られて、仕舞われた球根だった。
「賀明の棚の輪切りと、比べられる? 静岳に言って、実物を手配してもらったら……」
賀明、と怜鳳鳴が低く繰り返した。西の市の預け物の店の名を、この男が忘れているはずがない。目で問われて、わたくしは短く首を振った。
「あとで。順を追って、全部話すわ」
怜鳳鳴は頷いて、それきり何も聞かなかった。
「自分は、棚の根を、覚えています」
理珂は迷いなく言って、それから悠珀のほうを向いた。
「悠珀殿。筆と紙を、少しお借りします」
悠珀が黙って場所を空けた。
理珂は借りた筆で、白い紙に輪切りの球根をひとつ描いた。断面の色の沈み、繊維の走り、縁の欠け。見てきたそのままだ。あの日、あの店の干し棚の前で見たもの、そのまま。
描き終えると、理珂は断りを入れてから球根をひとつ小刀で割った。割り口に鼻を近づけて、長く匂いを確かめる。
「色は当てになりません。乾けば沈みます。見るべきなのは、鱗片の重なり方と匂いです」
理珂は割り口へもう一度鼻を近づけた。
「……匂いも一致します。自分の記憶の限りでは、同じものです。この球根を干して輪切りにすれば、賀明の棚にあった品と同じ形になります」
「断定は」
「現物を並べてからにしてください。輪切りをひとつ、正規の手続きで取り寄せていただければ」
「頼むわ。……九分九厘、というところ?」
「はい。残りの一厘は、現物が届いてからです」
怜鳳鳴が、籠と紙とを見比べて、感心とも呆れともつかない顔をした。
「理珂殿。見たものは、忘れないのか」
「はい。きちんと興味を持って見たものは。この目に焼きついて、いつでも頭のなかで再現できます」
「……人の顔もか」
「もちろん。顔だけでなく、体の細部も」
怜鳳鳴の眉が動いた。動いた先を、颯真が読んだ。
「理珂殿。先日実家に帰ったとき、良い本を手に入れた。お見せしようと思っていたんだ」
「それはぜひ」
なんの疑いもなく、興味深そうに理珂が食いついた。
「貴重な本のため、お貸しするだけで、差し上げることはできないが」
「構いません。一度読めば覚えます」
颯真が返事に詰まった。理珂が天才と言われる所以を知ったのだろう。
いえ。わたくしも今、知ったのだけど。
カメラアイ、というものかしら。見たものをそのまま覚えて、再現できる力。
忘れてほしくても、忘れてくれなそうね。
何をとは、言わないけれど。
怜鳳鳴が眉を上げたまま憮然とした顔をし、悠珀は画架の向こうで静かに筆を洗っていた。
わたくしは籠を振り向いた。
問いがひとつ、籠の中に残っている。
これは、いつから、ここにあるのか。
この園の性質を、わたくしは理珂を通じて知っている。
出入りも株の持ち出しも記録がしっかり残されていて、外の者は入れない。
薬草の一株も記録の外には動かない。それがこの園だった。
夕刻、静岳が園の帳簿の写しを持ってきた。
「球根の受け入れを、遡れるところまで遡りました。同じ特徴の球根の入りは、一件もございません。この秋も、この冬も。あの奥の一籠だけが、どの行にもございません。……それから、姫様。この園の帳簿の扱いは、内廷の御用と同じく、李門にございます」
また李門。どこにでも出てくるわね。
賀明の店の御用の取次。景鶴鈴の願書の取次。そして、毒の球根の眠っていた園の帳簿。
「記録の園に、記録のない籠がひとつ」
「はい」
この帳簿が正しく保たれているなら、正規の道から入った品は必ず載る。
載っていないなら、道のどこかが曲げられた。
人目を避けて、籠だけを運び込んだのか。
それとも、初めはあった一行を、帳簿から消したのか。
どちらにせよ、偶然ではない。
部屋には、怜鳳鳴が残っていた。その声から、昼の軽さが抜けていた。
「殿下。記録の外から物を置く方法は、一つではありません」
「どういうこと?」
「帳簿を通さず園へ入れるか。入れたあとで、帳簿から記録を消すかです」
園へ物を入れられる者。
帳簿を扱える者。
「……この園は、兄様の宮に属しているわ」
「帳簿を扱っているのは」
「李門。内廷付きの宦官。賀明の店の御用を取り次ぎ、景鶴鈴の願書を通したのと、同じ名前」
言いながら、自分の声が冷えていくのが分かった。
李門の名前は、もう別紙に書いてある。
その李門が扱う帳簿に、球根の一籠だけが存在しない。
帳簿から記録を消せる手は、李門の側にある。
帳簿を通さず園へ物を入れられる者は、兄様の宮の側にいる。
疑いの道が、二つに分かれた。
その片方に、兄様の名があった。
違う、と言いたかった。
北向きの部屋で、日のある時間だけ庭へ出る人。兄と呼ばれて揺れた人。母の花摘みを覚えている人。
……いいえ。まだ、何も決まっていない。
兄様の宮に置かれていたことと、兄様が置かせたことは違う。
李門が帳簿を扱っていることと、李門自身が運び込んだことも違う。
人を駒にし、自分は記録の外に立つやり口を、わたくしはこの国で何度も見ている。
誰が置けたのか。
李門に命じられるのは誰か。
あるいは、兄様の名を隠れ蓑にできるのは誰か。
夜、別紙に書いた。
薬草園の冷暗所に、外皮のない球根が一籠。園の帳簿に受け入れの記録なし。理珂の見立てはユリの仲間。書物にある空百合の特徴と一致。賀明の棚の根と同一の見込み、九分九厘。現物照合待ち。園の帳簿担当は李門。搬入者、搬入経路ともに不明。
筆を置いて、画架の上の絵を思い出した。
あと一度か二度で仕上がる、冬の園の絵。兄様への、贈り物。
あの絵が仕上がる前に、この疑いを畳めるだろうか。




