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44.糸の端を握る手


 枝先の蕾がほどけはじめても、執務室の朝はまだ火鉢が要る。老太太が額に陽輝印を描く筆が冷たい。緑の薬も飲んだ。これも変わらない朝の手順だ。

 指先をあぶりながら静岳の運んでくる報告の束を待つのが近頃の仕事始めで、その朝の束は、いつもより薄くて、重かった。


 いちばん下の一枚を読み終えて、わたくしは筆を置いた。


「景鶴鈴の金の出どころが、洗えたのね」


「はい。都での散財、屋敷の借り上げ、人を雇う金。すべて、南方の同じ為替屋から出ています」


 忘れようもない。

 渓陽の普請から消えた人足たちが、荷に残していった為替。それを振り出したのと同じ為替屋だ。


「狸の尾の荷は」


「そちらも同じです。南方から薬種の荷に紛れて届いています。荷主の名は毎回違いますが、遡ると同じ為替屋へ行き着きました。裏帳簿の受領記録とも一致します」


 狸の尾の荷。

 堰から消えた人足たちの金。

 景鶴鈴の散財。


 三本とも、南方の同じ為替屋へ行き着く。


「もう一つあります。渓陽の船大工のもとへ、素性の知れない男が二人、酒代を持って訪ねてきました。調べがどこまで進んでいるか、堰の傷をどう見たか、聞きたがったそうです」


「船大工は?」


「何も話しておりません。二人の後をつけさせたところ、景鶴鈴の屋敷へ入りました」


 糸は、景鶴鈴の上で結ばれて見えた。

 南から来る薬種の荷を押さえる。為替屋の帳場を調べ、屋敷の男たちを引く。

 三日あれば囲める。五日あれば獲れる。


 けれど、揃った、と考えたところで手が止まった。


 綺麗に整いすぎたものには、整えた手がある。渓陽の堰で学んだばかりだ。

 それに、景鶴鈴と会った日に思った。

 誰かが、あのにぎやかな男を、わたくしの目の前へ置いた。

 駒は見えている。けれど、置いた手はまだ見えない。


 捕らえる段取りは胸へ仕舞い、静岳には残りの調べを急がせた。



 昼を回って、怜鳳鳴が来た。


 こちらから呼んでいない。呼んでいないのに夫が執務室へ来るのは例のないことだったはずだけれど、その例なら先日、埃と一緒に乱れ込んできて、派手に塗り替えられたばかりだ。


 扉の外で颯真と二言三言交わす声がして、それから入ってきた男は、まだ冷たい早春の風を背負ってきたくせに、部屋の温度を二度ばかり上げた。渓陽から帰ってきてから、この男はずっとこうだ。熱のこもった目で見られるこちらは、報告を聞く顔を保つのに毎回少しだけ苦労する。


「一族の系譜を、預かってきた」


 怜鳳鳴は卓に薄い綴りを置いた。麒家の分家筋の名を連ねた系譜の写しで、端のほうに、景鶴鈴の名があった。


「分家の、そのまた分家だ。景の家は三代前に麒家から枝分かれして、いまは家格だけが残っている。前に言ったな。南の端の商家、武でも学でもなく、銭で立ってきた家だと。あの男はその末の末で、南方にいた頃は鳴かず飛ばずの燻り者だった。詩会に出ては嗤われ、縁談を持ちかけては断られ、それでも本人だけは、いずれ都で名を成す男のつもりでいた」


「その燻り者が、この冬、急に都で屋敷を借り上げて人を雇った」


「そうだ。金回りが変わったのは去年の春だと、一族の中でも噂になっていた。誰も出どころを知らん。……殿下。あれは俺の一族の膿だ。一族の恥なら、快気祝いの席で詫びた。恥で済んでいるうちは、まだよかった。膿になったのなら、出た家で始末をつける。俺にやらせてもらえないか」


 声の底に、抑えた熱があった。景鶴鈴の名を口にするとき、この男の目は毎回同じ色になる。


「そういえば、先日の謁見でも願われたわ。御夫の列に、この景鶴鈴めを、ですって」


「……重ねて、詫びる」


「あなたのせいではないでしょう。それより、駄目。まだ動かさない」


「まだ、ということは、いずれは動かすんだな」


「いずれはね。それまで預けておいて。あなたの膿も、わたくしの盤面も」


 怜鳳鳴はしばらくわたくしを見ていた。それから、ふ、と息だけで笑って、卓を越えて手を伸ばした。大きな手が、わたくしの指先を包んだ。


「冷えている」


「春先ですもの」


「火鉢のそばにいて冷えているのは、季節のせいじゃない。根を詰めている手だ」


 包まれた指の先から、男の熱が入ってくる。それだけのことなのに、口の中が少し乾いた。まったくもう。うぶな女みたいに。わたくしは手を引き抜く代わりに、その熱を三つ数えるだけ借りてから、仕事の顔に戻った。


「景鶴鈴の来歴、書きつけにして置いていって。年の並びが要るの」


「年の、並び?」


「ええ。あの男の一年一年が、どこで何をしていたか。……それが今夜、いちばん大事な調べになる」

 


 夜、灯りを一つに絞った部屋で、右に裏帳簿の解読の控えを、左に怜鳳鳴が置いていった景鶴鈴の来歴を並べた。


 賀明の裏帳簿は、十年以上前から続いている。


 狸の尾を受け取り、干し、挽き、包み、白木口へ渡す。同じ仕事が、紙の色を変えながら繰り返されてきた。


 一方、景鶴鈴の金回りが変わったのは、去年の春。


 それ以前の男は、南方の詩会で嗤われ、縁談を断られ、人を一人雇う金さえ持っていなかった。


 年が、合わない。


 景鶴鈴が金を得るよりずっと前から、狸の尾の道は出来上がっている。賀明へ仕事をさせ、南方の荷を動かし、十年以上も白木口へ届けさせていた者が、景鶴鈴であるはずがない。


 やり方も違う。


 白木口の仕事は静かだ。荷主の名を変え、帳簿を符牒で埋め、何年経っても誰の名にも道を届かせない。


 景鶴鈴は、風上からでも匂う男だ。


 焚きすぎた香。練習した優雅さ。堪え性のない自尊心。あの男に十年も黙って帳場を回せるものか。三日で自慢を始めるに決まっている。


 快気祝いの夜、怜鳳鳴が言っていた。


 ああいう男は負けを認めず、負けた場所を憎みます。


「……だから、選ばれたのね」


 声に出すと、糸の結び目が一つずれた。


 去年の春、誰かが景鶴鈴へ金を与え、都へ放った。負けた場所を憎み、戻る口実を探していた男なら、出どころの知れない金にも喜んで飛びつく。


 狸の尾と同じ為替屋から金を流せば、追う者の目は景鶴鈴へ向く。


 糸があの男の上で結ばれていたのは、偶然ではない。


 景鶴鈴は糸を握る者ではなく、糸の端で派手に踊らされている飾りだ。


 にぎやかな駒を置いた手は、駒の選び方まで正しかった。



 翌朝、報告に来た静岳に、わたくしは夜の答え合わせを聞かせた。静岳は最後まで聞いて、深く、頭を下げた。


「姫様のお考えで間違いないかと。こちらの調べにも、腑に落ちない点が残っていました」


「どこ?」


「景鶴鈴の屋敷の者は、金主が誰かも、南方の為替屋とどう繋がっているかも知りません。金が届く日さえ、為替が着くまで知らされていませんでした。帳場を握る側なら、あり得ないことです」


「なら、決まりね。あの男は獲らない。泳がせる」


「……よろしいので」


「駒を取れば、上が糸を切る。柳旬のときと同じよ。奏上から三日で、こちらの届かない場所へ持っていかれる。あの男が生きて踊っているあいだは、糸が繋がっている。踊らせておくの。精々、派手に」


 静岳は頷いて、束からもう一枚を出した。その朝、いちばん下に置いていた一枚だった。


「賀明の店の周りも、あらためて洗いました。市の者が幾人も、同じことを覚えております。賀明は決まって戌の刻、店を閉めたあとに、包みを提げて市の西の口へ出ていたと。何年も前からだと申します。……ただ、姫様。ひとつ、妙なことが」


「言って」


「渡った先が、消えております」


「消えている?」


「それだけの包みを受け取り続けた者が、市中のどの帳場にも、口入れの綴りにも、一度も出て参りません。市の外へ運べば、関所の荷改めがございます。関所の記録にも、それらしい荷はございません。包みは市の中で渡って、市の中から、消えております」


 火鉢の炭が、小さく爆ぜた。


「記録の上で、包みを消せる道が一つあります。宮中の御用の荷です。市の口でも、関所でも、通常の荷と同じ改めは受けません」


 御用の荷。

 宮中の奥へ、通常の荷改めを受けずに入っていく品。


 包みが本当にその道を通った証拠は、まだない。けれど、長年の荷を記録の外へ消せる具体的な道が、初めて見えた。


「御用の品の出入りを扱う役なら、名前を知っているわ。……李門ね」


「李門の調べは続けています。ただ、内廷全体の御用の荷を扱う部署は、私の正式な差配の外です。伝手を辿る調べになります。数日ください」


「慎重にね。塀の内側で紙が一枚動いただけでも、向こうへ伝わると思いなさい」


「承知しました」


 静岳が下がったあと、わたくしは長いこと、ひとりで座っていた。


 卓の別紙は、いつの間にか盤面と呼びたくなる広さになっていた。


 景鶴鈴は駒。

 三本の糸は、南方の同じ為替屋へつながる。

 賀明の包みは、市中の記録から消えている。

 宮中の御用の荷なら、通常の改めを受けずに内側へ入れる。


 毒の糸は、これまで塀の外にあるように見えていた。

 市の薬種店。南方の為替屋。渓陽の堰。

 家族の暮らす内廷とは、別の場所の話だと思っていた。


 けれど、薬草園の冷暗所には、記録のない球根が置かれていた。そして今日、宮中へ荷を入れられる道が見つかった。

 毒の荷が本当にそこを通ったとは、まだ決まっていない。


 それでも、外の事件と家族のいる場所を、もう別々には考えられなかった。

 母が住み、兄様がいて、皇配さまが母の日々を支えている場所。その内側へ何年も道を通すには、内側で扉を開ける者が要る。


 李門か。

 李門に命じる者か。

 それとも、まだ名前の出ていない誰かか。


 静岳の調べは、塀の手前で時間がかかる。


 ならば内側は、内側を歩ける者が見るしかない。


 わたくしなら歩ける。

 娘として。妹として。


「兄様に、会いに行こう」


 届け物の口実なら、もうすぐ悠珀が仕上げてくれる。


 窓の外で、風がまだ冬の名残の音を立てていた。

 わたくしは火鉢に炭を一つ足した。兄様の宮へ向かうまでに要る覚悟も、同じように胸の内へ積んでおく。


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