45.余裕がない
怜鳳鳴とともに南へ向かった者たちが都へ帰着したのは、それから幾日も経ってからだった。
怜鳳鳴だけは本隊をあとに残し、火鹿毛を駆って、一足先に帰ってきたのだ。
その日の昼下がり、怜鳳鳴は布包みを一つ提げて新宮へ来た。
わたくしは静岳を呼び、颯真を戸口へ立たせた。人払いをしてから、怜鳳鳴が卓の上で包みを開く。
中から出てきたのは、掌ほどの鉄の楔だった。先端が潰れ、乾いた泥がこびりついている。
「本隊の荷と一緒に届きました。崩れた堰の石の間から、家の者が拾ったものです」
「普請の道具ではないの?」
「道具は道具です。ただ、堰を組む楔ではありません。石組みを緩めるために打ち込む種類のものです。……破れ方も、妙でした。堰というものは、水に負けるときは水の当たる面から崩れる。あれは違った。要の石組みが、内側から抜けるように崩れていた」
わたくしは楔を手に取った。冷たくて、重かった。この重さが、村をいくつも呑むはずだった。
「証拠としては、弱い?」
「弱い。楔一本と、消えた人足たち。誰の名にも届かない。ただ、殿下。私はもう、あれを天災とは呼びません」
静岳が楔を油紙に包み直すのを待って、わたくしは決めていたことを口にした。
「怜鳳鳴。今度は、こちらの番よ。……西の市の預け物から、話すわ。手紙で聞かれて、まだ答えていなかったわ」
男の目が、すっと据わった。薬草園で賀明の名が出た日から、この男は聞かずに待っている。
わたくしは椅子を勧めて、自分の前に座らせた。
「賀明は、死んだわ。あなたが南へ発って、まもなく。突然の卒中として処理された。……わたくしたちは、そう思っていない」
卓の上の手が、固く握られた。
「……私が、砂糖を預けた」
「怜鳳鳴」
「私が持ち込まなければ」
「それは違うわ」
わたくしは楔を置いて、男の目を見た。
「裏帳簿を読む限り、賀明は十年以上前から関わっていた。あなたが砂糖を持ち込むずっとずっと前からよ。あなたの砂糖が引き金になった可能性はある。けれど、賀明が消されたのは、賀明が知りすぎていたからだわ。あなたのせいで知ったのではない。元から、知る側にいた人だったの」
「……」
「それにね。あなたが預けてくれたおかげで、賀明の死は突然の卒中で終わらずに、わたくしたちの盤面に載った。誰にも気づかれないはずだった死が、証言になった。無駄にしないことが、せめてできることでしょう」
怜鳳鳴はしばらく黙って、それから握っていた手をほどいた。
「……殿下は、人の悔いの仕舞い方まで、ご存じらしい」
「ずっと前に……覚えたのよ」
軽く受けたつもりの一言は、思ったより静かに卓の上に残った。以前、前世のことで言いよどんで、畳み目の下手な誤魔化しをした。この男はまた、気づいて、開かずにいてくれる。
それから、残りを順に話した。
賀明の店の床下から、十年以上続く裏帳簿が見つかったこと。符牒の「白木口」が、几帳面に品を受け取り続けていたこと。
冬の初め、完成した数と渡した数が合わず、加工済みの一包だけが行方不明になっていたこと。その時期が、柳旬の薬湯を飲んだ女官の飛び降りと重なっていること。
景鶴鈴は黒幕ではなく、こちらの目を引くための駒と見て、泳がせると決めたこと。
そして、白木口へ渡された包みの行き先が、市中にも宮中の記録にも残っていないこと。宮中の御用の荷なら、通常の改めを受けずに内側へ入れられること。
賀明の店、景鶴鈴の願書、薬草園の帳簿。その三か所に、李門の名前が重なっていること。
怜鳳鳴は、口を挟まずに聞いた。御用の荷へ話が及んだところで、目が細くなった。聞き終えると、彼は短く言った。
「膿を、泳がせるのか」
「膿が繋いでいる糸ごと、頂くのよ」
「……いい度胸だ。あなたのそういうところに、俺は」
言いかけて、男は戸口のほうを見た。静岳が心得た顔で綴りをまとめ、一礼して下がっていく。颯真が目線ひとつで察して、外へ出た。
二人きりの部屋に、早春の昼の白い光が落ちていた。
「怜鳳鳴」
「はい」
「渓陽から帰ってきてから、あなたの目は前より熱いわ。……何を拾ってきたの。楔のほかに」
男の眉が上がった。それから観念したように、笑った。余裕の男の顔から、皮が一枚落ちた。
「……敵いませんね、殿下には。ええ、拾ってきたものがあります」
男は卓を回って、わたくしの前に立った。触れはしなかった。触れない距離で、まっすぐに見下ろしてきた。
「渓陽への道中も、泥の中でも、ずっと考えていました。堰のこと、水のこと、郡のこと。考えねばならないことは山ほどあった。それなのに、気づけば門前のあれを思い出している。唇に触れた、あの一瞬を。……華音。俺はこれでも、女には慣れているつもりだった」
名前で、呼んだ。
「だから、分かるのです。慣れた種類の熱と、これが別物だということが。……俺も知らなかった。こうなるんだな」
言葉づかいの皮が、途中から落ちていた。落ちた素の声のまま、男は続けた。
「正直、余裕がない。あなたが他の男を呼ぶ夜も、俺は平気な顔で火鹿毛の世話をしている。平気な顔の下がどうなっているかは、言わないでおく。あなたが門前で走り去った日から、俺の中の何かの箍が外れたままだ。……困っている。本当に、困っている」
困っている、と言う男の顔は、ちっとも困っていない顔で、ただ熱だけがあった。
「つまり俺は、本気であなたに、惚れている」
わたくしは、その言葉と熱を正面から受け止めて、息を吸った。
言うなら、今だった。
この国で追っている秘密は、さっき全部渡した。残っているのは、わたくし自身の秘密だけ。
これから塀の内側へ、家族に疑いを抱いたまま入っていく。書物の筋書きをひとりで抱えたまま、兄様の前には立てない。
夫たちの中で、この男にだけは、最後のひとつまで渡しておきたかった。
「怜。……あなたに、話さなければならないことがあるの」
長い話になる。途中で怖気づいたら、二度と言えなくなる種類の話だった。
「笑わないで聞いて。信じられなくても、最後まで聞いて。……わたくしはね、この体に生まれる前の、別の記憶があるの」
怜鳳鳴の目が、わずかに細くなった。けれど男は何も言わず、続きを待った。
わたくしは話した。遠い世界で、別の名前で、紙と数字に埋もれて働いて死んだ女のこと。その世界に『陽輝帝国物語』という書物があったこと。この国も、母も、わたくしも、あなたも、その書物の中の登場人物だったこと。物語の筋書きでは、杏里村が焼かれ、南方を大水害が襲い、瑞華と烈央が民を率い、暗黒女帝である華陽と皇太姫の華音は広場で首を落とされること。そして、あなたは。
「……あなたは、その筋書きでは、主人公の勇者、瑞華たちの側についた。冷静な、正しい判断としてよ。沈む船から降りて、次の時代に一族を運んだ。書物の中のあなたを、わたくしは責める気になれなかった。書物の中の華音は、あなたに命を懸けてもらえるような女ではなかったから」
だから最初は、あなたを味方にしなければと思った。処刑の刃を握る側に回るはずの男を、こちら側に。夫に選んだのは打算よ。囲い込んで、切り札を寝返らせるための。そこまで言って、わたくしは一度、目を伏せた。
「……打算だったのは、最初だけ。杏里村で、あなたがわたくしの拳を開いたあたりから、もう、駄目だったの。だからこそ、閨を共にできない。平和が来ないとわかっている状態で。わたくしも同じなのよ、怜」
目を伏せたままで言う。
「困っているの。知っている感情と違うのよ。あなたを抱くと言ったのに、そうしたら、自分で自分を制御できなくなりそうで。まだわたくしは、あなたに溺れるわけにはいかないの。平和が来るまでは」
長い沈黙が落ちた。
怖くて顔が上げられなかった。乱心を疑われても仕方のない話だった。よくできた嘘だと切り捨てられても、化け物を見る目で見られても、おかしくなかった。やがて、椅子の動く音がして、目の前に男の膝が来た。怜鳳鳴が、床に片膝をついて、伏せたわたくしの顔を下から覗き込んでいた。
「顔を上げろ、華音」
そう言った目の熱さが、変わっていない。
「……信じるの? こんな話を」
「腑に落ちた、と言うほうが近い」
男は指を折り始めた。
「この俺をうまく躱した。杏里村とそこにいたはずの者たちの名を知っていた。誰も知らない言葉を使う。どすけべ、とか。紙と数字の読み方がただの姫の読み方ではない。渓陽の水を、来る前から知っていた。あなたという女の妙な手際の全部に、一本、筋が通った。……それに」
怜鳳鳴は、ふっと目元を緩めた。
「書物の中の俺が、あなたを見捨てた男だと聞いて、腹の底が煮えている。勇者など切って捨てろと言いたい。この腹の煮え方が、俺の答えだ。筋書きだろうが天命だろうが知ったことか。俺はその書物の結末を、踏み潰すためにここにいる」
「怜……勇者は瑞華と烈央よ。切って捨てないで。大切な主人公なのだから」
「決めたぞ、華音」
男は立ち上がって、わたくしの両肩に手を置いた。置いた手に、燃えるような熱があった。
「平和が来ればいいんだな。よし。さっさと華音と、平和を手に入れる。順番はどっちが先でも構わんが、両方だ。両方とも、必ずだ」
平和が、ついでのように聞こえるのは気のせいかしら。気のせいではない気がする。けれどその雑な旗の立て方が、いかにもこの男で、わたくしは泣きそうになりながら笑ってしまった。
「……なによ、それ。順番くらい、考えなさいよ」
「考えている。考えた結果、両方とも取りに行くと決めた。俺は欲深い男だ」
余裕がないと言った口で、怜鳳鳴は不敵に笑った。
けれど、その顔は、余裕があるふりをしていた頃よりも強かった。抱けないから、世界のほうを動かしに行く。そう言っている顔だ。
「華音」
「何」
「俺はあなたに、惚れている」
頷いた。胸の鼓動が、苦しい。
「あなたは、どうなんだ」
来た。来てしまった。男の目は逃げ道を全部塞いだ上で、答えを待っていた。
言えばいい。たった一言。
前世のわたくしなら、駆け引きの手札としてでも口にできた言葉。
それが、出てこなかった。この男に渡す言葉だと思った途端、喉の奥で言葉が体温を持って、重くなって、つかえた。
息を吐く。
「……前世のことまで、話したでしょう」
「そうだ」
「初めての口づけも、あげたでしょう」
「もらった」
「さっきも、困っているって言ったでしょう」
「聞いた」
「なら……察しなさいよ」
声が尻すぼみになった。顔が熱い。目が合わせられない。天下の肉食姫が聞いて呆れる。誰よりも肉食だったはずの女が、たった一言の前で立ち往生している。怜鳳鳴はしばらくわたくしを眺めて、それから、堪えきれないというふうに喉の奥で笑った。
「……いい。今は、それで充分だ」
「今は?」
「いずれ、あなたの口から聞く。逃がす気はない。ただ、急かしもしない。……お預けには、慣れている」
慣れている、という声がわたくしの耳のすぐ横で低く響いて、それだけで背中まで熱が走った。この男、絶対に、わざとやっている。
怜鳳鳴が帰ったあと、わたくしはひとりの部屋で、冷めた茶を飲みながら天井を仰いだ。
部屋にはまだ、日向の革の匂いが残っている。
秘密をぜんぶ渡して、身軽になったはずだった。
それなのに、渡せなかった一言だけが、胸の中でずっと熱を持っている。
前世では、あんなに簡単に言えたのに。
いま言えないのは、たぶん、初めて本物だからだった。
窓の外で、早春の日が傾き始めていた。盤面には白木口がいて、渓陽の楔があって、冷暗所には出どころの知れない球根が眠っている。それでも今日のわたくしの胸を占めているのは、両肩に残った手の熱と、いずれ聞くと言った男の、あの不敵な顔だった。
……言えるかしら、いずれ。
言えるようになったときが、たぶん、すべてが終わるときなのだと思う。根拠はないけれど、そんな気がした。




