46.届け物
悠珀が絵を届けに来たのは、よく晴れた朝だった。
軸に仕立てて紐で結んである。広げると薬草園の冬が出てきた。葉を落とした薬木の並びと霜よけの覆い。枯れ色の枝の先に、粒のような蕾がいくつも置かれている。わたくしがあの園で見たときより、蕾の数が増えていた。
「最後にもう一度、光を見に行きました」
悠珀は軸の端を押さえながら言った。
「蕾がふくらんでいたので描き足しました。冬のままで仕上げるのが惜しくて」
「兄様が驚かれるわ。薬草園より先に、この絵の中で春を見ることになるかもしれないわね」
「絵の春は、寒くありませんから」
「それは便利ね。夏になったら、涼しい冬景色も描いてちょうだい」
悠珀は少し考えた。
「では、夏までに、冬の寒さをよく覚えておきます」
冗談のつもりだったのに、この人は本気で描いてくれる気らしい。
楽しみが増えたわ。
軸を巻き戻しながら、胸の内を確かめた。
兄様に会いたい。これは本当だ。
内廷を、自分の目で見ておきたい。これも本当。
届け物と調べもの。どちらが表でどちらが裏なのかは、もう分けられなかった。
静岳を呼んだ。
「兄様の宮へ伺いたいの」
「正式なご訪問として、でしょうか」
「できる?」
「皇太姫が兄君の宮を正式に訪われた例を、私は存じません」
ないなら作るまでよ、と一度は思った。
けれど、先例のないことをすれば、宮中が一斉にこちらを向く。わたくしがどの門から入り、何杯お茶を飲んだかまで、日暮れ前には数え上げられそうだ。
「では、届け物にするわ。妹が兄へ絵を届けるだけ。取次には、そう伝えて」
「承知しました」
静岳は一拍置いてから続けた。
「……姫様。あの宮も内廷にございます。私はいま、御用の荷について内廷を調べています。同じ時期に姫様があちらへ向かわれれば、二つを結びつける者もいるでしょう」
「結ばれて構わないわ。あなたが追えるのは、荷が内廷の門をくぐるところまで。そこから先、どの宮のどの戸へ入ったかは調べにくいのでしょう」
「はい」
「あの部屋の中を見られるのは、妹として招かれるわたくしだけよ」
翌日の午後、わたくしは内廷の奥へ向かった。
女帝の宮の裏手を回って池をひとつ越える。歩きながら目を働かせた。
塀は低い。門は小さい。庭木の手入れは行き届いている。それなのに人の声がひとつも外へ出てこない。
門の脇に荷を入れるための戸があった。轍の跡がそこまでまっすぐ続いている。宮の表口よりも、その戸の前の土のほうが深く踏み固められていた。
取次の宦官はわたくしの顔を見て、次に静岳の顔を見て、それから走って奥へ消えた。皇太姫の訪いを取り次ぐ作法を、この宮の誰も教わっていない。
通された部屋は、きれいに片づいていた。
というより、片づけるものがほとんどなかった。
卓と椅子と文机と寝台。壁に飾りはなく、床に敷物の重なりもない。剣も酒器も馬具もなく、趣味らしいものは見当たらない。
ミニマリストの見本部屋ね。
前世なら、おしゃれな生活雑誌に載ったかもしれない。ただし、住人が好きで物を減らしたのなら、の話だけれど。
窓は北を向いている。
物がないぶん広く見えるはずなのに、部屋は妙に狭く感じられた。
「……ようこそ、お出でくださいました」
兄様は部屋の中央で膝を折っていた。頭の下げ方は作法どおりだった。ただ、その中に途方に暮れている気配があった。
「お顔を上げてください、兄様。押しかけたのは、わたくしですもの」
「殿下にお運びいただくような場所では」
「届け物があるの。悠珀に描いてもらいました」
軸を広げて見せると、兄様の目がゆっくりと絵の上を渡っていった。
「……園、ですか」
「内廷の薬草園です。冬の終わりの」
「私は、この園を見たことがありません」
内廷の中にある園を、内廷から出られない人が見たことがない。
うまい返事が見つからず、わたくしは軸を抱え直した。
「では、今日から見られます。春になっても、夏になっても、この絵だけは冬のままですけれど」
「それは……少し、得をした気がします」
「でしょう。暑い日には、たいそう涼しげよ」
兄様の口元が、ほんの少し緩んだ。
絵は悠珀の言っていたとおり、南の壁に掛けた。
窓が一つ、増えたようだった。
兄様はしばらく動かずに、それを見上げていた。
茶が出た。兄様が自分で淹れた。人を呼ぶ習慣が、この宮にはないらしい。
湯の沸くのを待つあいだ、わたくしは窓の外へ目をやった。
庭の隅に細い木が一本立っている。枝の先にたくさんの蕾が柔らかくついていた。色は薄桃色。
「兄様。あの薄桃色のつぼみは、なんの花が咲くのです」
「唐桃です」
唐桃。
どこで聞いた名だったかを思い出すのに、少しかかった。
「兄様の、花印の」
「はい。生まれたときに与えられたものが、庭にも植えてあります。……つぼみは薄桃色ですが、咲くのは白い花です」
「白い花」
目の前の袖口に、白い花の刺繍がある。冬の庭で見たものと同じだった。
「刺繍と、同じ」
「同じです」
兄様は袖口を少しだけ持ち上げて、それから下ろした。
「実はなるのですか」
「なります。小さくて酸い実です。南のほうでは、実のほうを杏と呼ぶそうで」
「唐桃って杏のことなのですね。それならわかります」
杏の実はアプリコット。前世では、花も杏の花と呼ばれていた。
わたくしの花印の桃の花とは、色は違うけれどよく似た花が咲くはず。
「兄様。わたくしの花印の桃は、花弁の先が尖っているでしょう。兄様の唐桃は、丸いのね」
「たしかに」
「まるで、わたくしと兄様のよう」
「どちらが尖っているのでしょう」
兄様が、思いがけず問い返した。
「それをわたくしに言わせるの?」
「私は、殿下のお答えを伺っているだけです」
少しだけ、兄様の目が笑っていた。
「……兄様、案外ずるいのね」
「初めて言われました」
わたくしが笑うと、兄様も戸惑いながら頬を緩めた。
その手から茶を受け取った。
卓へ戻るとき、窓辺の鉢が目に入った。
素焼きの小さな鉢が三つ、等間隔に並んでいる。北を向いたこの部屋でいちばん光の届く場所に置いてあった。葉には艶があって、鉢の縁は拭き込まれている。毎日世話をする手があると分かった。
「あの鉢は」
「蘭です。小さいですし、花のつかない株ですが」
「兄様が、お世話を?」
「他にする者もおりませんので。……いえ。私がしたいのです。手をかけたぶんだけ、葉が伸びますから」
「兄様、植物を育てるのがお上手なのね」
「この三鉢しか知りません。比べる相手がいないので、上手かどうかは」
「枯らさずに三つ並んでいるなら、充分でしょう」
兄様は鉢へ目を向けた。
「あの蘭は、いただきものなのです」
「どなたから?」
兄様が鉢を見たまま黙った。もう答えはないと思い始めたころ、兄様は口を開いた。
「白蓮という女性から」
初めて聞く名前だった。名前を口にした兄様の声で、それがどういう名前なのかは聞く前に分かった。人は、その名を言うためだけに長く黙ることがある。
「この宮には以前、行儀見習いの女官が何人か通っておりました。私の……世話のために、あてがわれた者たちです。殿下は私の役目をご存じですから、意味はお分かりでしょう」
「ええ」
「皆、務めとして来て、務めを終えて帰りました。白蓮だけが、務めの外でもこの窓辺に残ったのです」
兄様は三つの鉢を見た。
「花もつかない株の世話をしながら、なんということもない話をしました。私が聞いていると、暁雲さまは聞き上手ですね、と笑うのです」
兄様の指が、卓の上で一度開いて、閉じた。
「この宮では、役目の名で呼ばれることには慣れていました。あの人だけが、私の名を呼びました」
そこで言葉が途切れた。
わたくしは、続きを急かさなかった。
「三年前の春に、消えました」
「消えた」
「ある朝から来なくなりました。宮の名簿からも名が消えていました。病か、里帰りか、縁づいたのか。尋ねましたが誰も答えません。私に答える義理のある者は、この宮中にひとりもおりませんので。……探すこともできませんでした。人ひとり探すのに人を使うことも、宮の外へ出ることも、私の身では叶いませんから」
視界の端で、静岳が動かなかった。
控えている者はもともと動かない。それでも白蓮の名が出てからの静岳の不動は、いつもの職業的なそれと質が違っていた。息の数まで数えて止めているような硬さがあった。
わたくしは水面に石を投げなかった。投げないかわりに、胸の内へ一行書いた。
白蓮の名で、静岳が息を詰めた。
辞去の刻限が来た。兄様は門まで送りに出た。
「また伺ってもいいかしら。あの蘭の花が咲く頃に」
「あの蘭は、まだ咲かせてやれたことがないのです」
断りの言葉かと思って、黙って兄様の顔を見た。兄様は少し遠い目をした。
「どんな花が咲くのかも聞いておりません。三年、咲いておりません」
「では、花が咲かなくても、来ても良いですか」
兄様は小さく微笑んだ。笑ったのだと気づくのに、少しかかった。
「……はい。鉢の葉が、また少し伸びる頃にでも」
それから兄様は、ふいに何かを言いかけた。
「殿下。あの人のことを――」
兄様は言いかけて、止まった。
「……いえ。私には、殿下にお願いできるものが何もございません」
「ありますよ」
兄様が目を上げた。
「妹に絵を掛けてもらって、お茶を飲ませて、また来てもよいと言ったでしょう。もう充分、兄様らしいお願いをされています」
「それは、お願いというほどのものでは」
「では、次に来たとき、考え直しておいて。妹にねだってよいものを、ひとつくらい」
兄様は困ったような顔をした。
「難しい宿題ですね」
そう言いながら目が、窓辺の三つの鉢へ動いた。
「……考えておきます」
その答えだけを残して、兄様は深く一礼した。
帰りの回廊で、兄様が飲み込んだ言葉を考えた。
あの人のことを――。
続きは、たぶん、探してほしい、だ。
頼まれてはいない。
けれど、妹にねだってよいものを考えておくよう、わたくしのほうから宿題を出してしまった。
なら、先に少しくらい調べても、反則ではないでしょう。
夜、別紙を開いた。
白蓮。三年前の春に消え、宮の名簿からも消えた。兄様の宮へ通っていた女官。窓辺に残された蘭が三鉢。白蓮の名に、静岳が反応。宮の脇に荷の戸。表口より深い轍。
最後に一行、付け足した。
兄様には、まだ頼まれていない。
筆を置く。
今日、見に行ったのは荷の道だった。
持ち帰ったのは、三年前に消えた女の名前と、兄様から出されたわけでもない宿題だった。
庭の唐桃は、じきに咲く。
白い花が咲く頃には、もう一度あの門をくぐろう。




