47.もう偶然とは呼べない
筆を止めて、窓の外を見た。
兄様の宮の庭に立っていた細い木。あの薄桃色のつぼみは、もうほどけた頃だろうか。白い花が咲いたら、もう一度あの門をくぐる。そう決めてある。
静岳が入ってきたのは、そのときだった。卓に置かれたのは、薄い書きつけが一通きりだった。厚みのない報告ほど、書き上げるまでに手間がかかっている。わたくしは読み終えてから顔を上げた。
「聞かせて。あなたの口から」
「宮中へ直に上がる御用の荷は、月に幾度かあります。米、絹、紙、香、薬種。いずれも何十年と続く古い納め口です。薬種の御用を納めているのは——賀明の店でした」
三代続いた薬種商。裏帳簿の主。殺された男の店が、改めを受けない荷の道を内廷の奥まで持っていた。挽いた包みが市の中から消える道は、最初からそこに敷いてあった。
「受け入れの印は」
「李門です」
李門。内廷付きの宦官。
景鶴鈴の拝謁願いに、通るはずのない場所で座っていた署名。賀明の店の内廷取次として、出入りの綴りに載っていた名前。薬草園の記録を一手に扱う役。三つまでは説明がついた。内廷の物の出入りを預かる者なら、そういう場所に名が載る。
今日、四つ目が並んだ。改めを受けない荷の、受け入れ口。
偶然という言葉が、四つ目で折れた。
薬草園の差配が兄様の宮であることは知っている。この宮中では薬草の一株も記録の外には動かない。
同じ事実が、今日は逆から立って見える。
記録を扱う者が、記録を作る側にいる。冷暗所に置かれていた球根には、その記録がなかった。
頭の中で、兄様を弁護する者たちが一斉に立ち上がった。
『薬草園の差配といっても、名目だけかもしれません』
『宮に仕える者は大勢おります』
『園の実務を動かすのは、庭師と薬師です』
『李門一人の仕業かもしれません』
はいはい。順番に。
わたくしは、頭の中の弁護人たちを一人ずつ座らせた。
そして、数日前の自分の論法が、今度はこちらへ向き直っていることに気づいた。
景鶴鈴には、去年の春より前がない。
十年以上続く仕組みを作った者ではあり得ない。だから、あの男は駒だと判断した。
兄様には、その時間がある。
三年前も、十年前も、兄様はこの塀の内側にいた。改めを受けない御用の荷が出入りする場所で、生まれてからずっと暮らしている。
それだけで、兄様が何かをした証拠にはならない。
けれど、時間が合わないという理由で、疑いから外すこともできなかった。
「李門の名が載った書きつけを、全部あたって。拝謁願い、薬種の受け入れ、宮の出入り。それ以外にも、あの署名がどこかに座っていないか。外廷に残る写しも含めて、全部」
「幾日かいただきます」
部屋を下がっていく静岳の背中が、いつもより薄く見えた。
翌朝、陽輝印を描く筆の下で、老太太がぽつりと言った。
「姫様は近頃、兄君さまのお宮にお運びとか。……ようございました。あの君さまは、お小さい頃から、ほんに静かなお子でございましたから」
「あら。老太太は兄様をご存じなの」
「お見かけしただけでございますよ。内廷勤めの朋輩から、昔はよく話を聞きました。手のかからない、お声も立てない、いらっしゃるのを忘れてしまうような君さまだと」
「それ、褒めているのかしら」
「乳母や女官にとりましては、たいそうな褒め言葉でございますよ」
「本人には、あまり聞かせたくない褒め言葉ね」
老太太は困ったように笑い、それから額の印へ筆を戻した。
「……ですからねえ、あの一度きりは、朋輩どももみんな覚えているのでございますよ」
「一度きり?」
「あれは、三年ほど前でございましたか。あの君さまが、陛下の御前でお声を荒らげられたことがございましてね。人払いの向こうでしたから、何を仰せになったかは、誰も。……ただもう、人が変わられたようであったと。後にも先にも、あの一度きりで」
筆は額の上で、いつもの円を描き終えた。老太太にとっては、静かな子の珍しい思い出話。それだけの調子だった。
着替えを済ませてから、わたくしは別紙の隅に書き足した。白蓮の行の隣に、同じ年が並んだ。
数日後、静岳は綴りを抱えて戻ってきた。卓に置いて、この男にしては珍しく、開く前に一拍置いた。
「李門の署名は、十一箇所にありました」
「分けて聞かせて」
「大半は、この三年のあいだに、暁雲さまの宮から外へ出た指図書です。人を雇う手配と、為替の指図でした。それ以前に外へ出たものは、一通もありません」
「何のために?」
「どこにも書かれていません」
人と金だけが、用向きを伏せたまま、兄様の宮から外へ動いている。
「残りは?」
「一つは、景鶴鈴の拝謁願いです。もう一つが、こちらに」
静岳が差し出したのは、昨年秋の奏上綴りだった。
「目録から申し上げます。昨年九月、受付。『南方梁山麓、賊徒集結の儀につき言上』。内廷経由の受付印。受付の署名、李門」
梁山。
その山の名を、わたくしは知っている。麓にあったのは杏里村。焼け跡と、空百合の花畑。
「本紙は」
「ありません」
静岳は綴りを開いた。九月の綴りは分厚くて、紙の背が几帳面に揃っていて、その受付の場所だけ、綴じ紐の穴に、紙の千切れた小さな耳が残っていた。
「目録に題目があり、受付印があり、綴りに紙がない。抜かれています。抜いた者は、目録までは消せませんでした。目録は、写しが外廷にも残りますから」
抜かれた紙の、千切れた耳。わたくしはそれを長いあいだ見ていた。
杏里村が焼かれる前、村に近い梁山の麓で賊徒が集まっているという奏上が、内廷を経て受け付けられていた。
これが杏里村への討伐を引き出した紙なのかもしれない。
けれど、確かめるべき本文だけが、綴りから抜かれている。
受付の署名は李門。
本紙を抜いたのも李門とは限らない。それでも、あの村が焼かれる前段に、兄様の宮へ仕える者の名があった。
毒の道だけの話でもなくなった。あの村の火事の前段にも、同じ手が触れていた。
それから、人と金。塀の外を知らない人の宮が、三年前から外に手足を持っている。人を雇い、金を流し、何のためとは、どの紙も言わない。塀の中から外へ働きかけるには、外に手が要る。……そして景鶴鈴には、去年の春より前がない。三年前から外に伸びていた手が、去年の春、あの燻り者を拾い上げたのだとしたら、糸の形はきれいに合ってしまう。
「静岳。外廷の写しを、誰にも気取られずに固められる?」
「できます」
「では急いで。こちらから動く前に、向こうが動くかもしれない。それと」
言いかけて、わたくしは言葉を選び直した。この男が数日前から、報告の型の下に何かを堪えているのは分かっていた。
「李門の主のことは、まだ盤面に書かない。署名は署名。宮は宮。人は人よ。順番に確かめる」
静岳は深く、長く、頭を下げた。「承知しました」と言った声はいつもの静けさに戻っていて、戻り方が少しだけ急だった。
夜。灯りをひとつに絞って、盤面の前に座った。
別紙は、また一枚増えた。
賀明の御用薬種を受け入れていたのは李門。
三年前、白蓮が名簿から消え、兄様が御前で一度だけ声を荒らげた。以後、兄様の宮から、目的の記されていない人雇いと為替の指図が出始める。
景鶴鈴の願書にも、李門。
杏里村に近い梁山の奏上にも、李門。奏上の本紙はなし。
紙の上の糸は、兄様の宮を指している。
わたくしは兄様に結びつくものを、頭の中で並べ直した。北向きの部屋と、窓辺の三つの鉢。白蓮。花印の唐桃。袖口の白い刺繍。薄桃色のつぼみから咲く、白い花。実の名は、杏。
その文字を書きながら、手が止まった。
杏。
この字自体は、前世のわたくしは何度も見ている。花としてではない。杏仁豆腐。白くて、つるりとして、匙ですくうと逃げる、あれ。
それがいま、書いてみたからわかった。
杏という文字は、木の下に、口。
わたくしは別紙の「白木口」を見た。
白。木。口。
後ろの二字を上下に重ねれば、杏。
白い杏。
薄桃色の蕾から、白い花を咲かせる唐桃。
兄様の花印。
「……そんな」
符牒は、名を完全に伏せてはいなかった。
三文字に崩し、字を組み直した者にだけ、白い杏の花を見せるように作られていた。
動機、という言葉が、頭の嫌な場所から浮かんだ。
女帝に毒を盛る動機。
血を残すために置かれている、と言った人。母から感情を向けられずに過ごした年月。
三年前、白蓮が名簿ごと消えた。兄様はその頃、母の御前で一度だけ声を荒らげた。そして、その頃から宮の外へ人と金が動き始めている。
白蓮を消したのは母だと、兄様が考えたのなら。
理由は、作れてしまう。
けれど、声を荒らげた中身を誰も知らない。白蓮のためだったという証拠もない。
空白へ動機を書き込んでいるのは、わたくし自身だった。
それでも、そんな道筋で読めてしまう。
わたくしは、両手で顔を覆った。覆った暗がりの中で、それでも頭の冷たい場所がひとつ、小さな火を点した。
——自分の符牒に、自分の花を据える者が、いるだろうか。
包んだところで、花は花だ。名を伏せるための符牒に、宮中の記録を繰れば誰にでも引ける自分の印を、解ける包み方で。何年も匂いひとつ立てずに帳場を回した几帳面な手が、いちばん奥の署名だけを、そんな危うさで飾るだろうか。
点った火は、小さかった。消す材料も、育てる材料も、今夜のわたくしは持っていない。紙は嘘をつく。抜かれた奏上がそれを教えてくれた。人の声も嘘をつく。なら、残っているのは目だ。目を見て、確かめる。
別紙の隅で、あの日の約束が待っていた。
花が咲かなくても、来ても良いですか。
庭の唐桃は、もう白い花を開いているかもしれない。
「……行きます、兄様」
今度は届け物ではない。
兄様を疑うために会いに行く。ずいぶん嫌な妹ね。
別紙の隅へ、一行だけ書いた。
兄様に、もう一度会う。
筆を置き、明日の取次を静岳へ頼むため、人を呼んだ。




