6.二人目の夫候補
颯真と過ごした翌日は、案の定ひどい筋肉痛だった。お世話係たちが、生暖かい目を向けてくる。どうやら「夜伽のふり」は、うまくいったらしい。
颯真はわたくしの護衛として側にいるようになった。執務に出かけるときなどはたいてい一緒にいる。誓った忠誠を、早速行動で示してくれている。
とはいえ、毎夜颯真ばかり呼ぶわけにもいかない。
数日後の夜、次にわたくしが後宮に呼んだのは、理珂だった。面談の時から気になっていた男。天才と噂される、同い年の十八歳。
約束の刻限きっかりに、戸が鳴った。部屋に入ってきた理珂を見て、改めて思う。本当に、綺麗ね。
黒髪は短く整えられ、切れ長の瞳は澄んでいる。作り物のように整った顔なのに、その目だけは静かにこちらを見返してきた。
……眺めているだけでも十分だと思っていたのだけれど。
理珂は視線を受け止めて、逃げなかった。
緊張しているのは伝わってくるのに、取り繕おうともしない。どう見られるかより、どう在るかを選んでいる目。……飾らないのね。
「皇太姫殿下。お呼びと伺い参上いたしました。理珂です」
落ち着いた、よく通る声。
「顔を上げて」
理珂は素直に従いまっすぐにこちらを見る。迷いのない目。天才、だったわね。
華音の記憶にも、その噂はある。幼い頃から学問に秀で、あらゆる分野で才能を示した――が。人付き合いが苦手、とも聞いたわ。実際、面談の時も言葉は少なく表情は硬かった。
理珂は、わたくしの視線を受けてわずかに身構えた。
「緊張してる?」
「……はい」
正直な返事だった。
「大丈夫よ。別に食べたりしないから」
「……食べる、ですか?」
「冗談」
「ああ」
少し考えてから、小さく頷く。冗談が通じないタイプね。
なのに不思議と嫌じゃない。むしろ真面目に受け取ろうとしているのが伝わってくる。こういうところ、好きだわ。自分でも驚くくらい気持ちがすっと胸に収まった。
「座りましょう」
円卓と椅子を示す。理珂は後についてきて腰を下ろした。
卓上には冷たいお茶の用意。
「どうぞ」
一口飲んで、理珂が言う。
「……美味しいです」
「それは良かった」
少しの沈黙。
理珂は、何を話せばいいかわからない顔をしている。やっぱり、会話が得意じゃないみたい。
こちらから切り出す。
「理珂。あなたは天才だと聞いているわ」
理珂が一瞬だけ瞬きをした。
「天才……ですか」
「ええ。学問に秀でていると」
理珂は否定も肯定もせず、少し考えてから答えた。
「自分ではよくわかりません。ただ、知らないことを知るのが好きなだけです」
「どんな『知らないこと』?」
理珂は、少しだけ言い淀んだ。けれど視線は逸らさない。
「……薬です」
「薬?」
「薬草の性質、配合、抽出。毒と薬の境目。量の差」
淡々と並べる言葉がやけに具体的だった。
「子どもの頃、家族に熱を出しやすい者がおりまして。医官が来るたび、処方が違うのが不思議で」
理珂の声は相変わらず落ち着いている。けれど、その話題になると口数が増える。
「同じ症状でも、体質が違うと薬が変わります。脈、舌、汗。食べたもの。眠り。そういう条件で効き方が変わる」
わたくしはお茶を置いた。条件で変わる、か。
理珂は続ける。
「医官に聞いても答えは曖昧でした。『経験だ』と。だから、自分で確かめました」
自分で。
あっさり言うけれど、内容はあっさりじゃない。
「庭の薬草を集め、乾かし、刻み、煎じて。効き目の記録を取りました。手に負えない毒草は、触らずに特徴だけ写した」
「危なくないの?」
問うと、理珂は首を傾げた。
「危ないものは量で決まります。触れて危険なものは避けます。吸って危険なものも。滋養の薬湯でも、続け過ぎれば同じことです」
ああ。誰にも導かれずに独りで答えを積み上げてきた。うん、天才ね。
「結果、家の者の熱は下がりました。医官は『偶然』と言いましたが、偶然では再現できません」
理珂の言い方はただの事実報告だった。自慢も誇張もない。
けれどその事実だけで十分だ。
「……素敵ね」
理珂がほんの少しだけ目を見開く。
「素敵……ですか」
「ええ。観察して、確かめて、再現できる。才能よ」
理珂は戸惑いながらもわずかに顎を引いた。褒め言葉の受け取り方がまだぎこちない。褒められ慣れてないのね。
「そういえば、この宮に上がってから、ひとつだけ願い出たことがあります」
「あら。何かしら」
「内廷の薬草園に入る許しです。書物の絵でしか知らない株が、あの園にはあるはずなので」
「通ったの?」
「まだです。あの園は出入りも株の持ち出しも記録がしっかり残されていて、外の者は入れないそうです。差配は、暁雲さまの宮の掛かりだと聞きました」
暁雲。兄の名前だ。立太子の儀の日に、柱の陰に立っていたあの人。園の話になると熱の入る男に少し笑いながら、わたくしは頭の隅に置いた。この宮中では、薬草の一株も、記録の外には動かないらしい。
「焦らないの。そのうち、わたくしが口を利いてあげる」
「……ありがとうございます」
それに――。薬草と配合。毒と薬。量の差。
さっきまで曖昧だった考えが形になる。
「子を成さない」ための手段。
……薬。理珂なら、方法があるかもしれない。
けれど、その前に確かめなくてはいけないことがある。颯真のように、他に好きな人がいるのでは困る。わたくしは理珂を正面から見た。
「理珂。質問があるの」
「はい」
「後宮で、夫として過ごすこと。その覚悟はできている?」
「もちろんです。殿下と共に夜を過ごします。子どもを早く授かるように、何回も一緒に眠ります」
……その答えに、引っかかった。
理珂の顔は相変わらず真面目だ。冗談でもないし、恥ずかしがる風もない。
『何回も一緒に眠ります』
普通、そんな言い方をするかしら。間違ってはいない。けれど、まさか。
「じゃあ――」
わたくしは質問の仕方を変えた。
「どうやって、子を成すかは知っている?」
理珂は少し考えた。
「……同じ部屋で一緒に眠れば、子ができます」
思わず動きが止まる。
「……具体的には?」
「神話にもそうありますが、同じ部屋で、一緒に眠るのです。それ以上具体的なことは……特にないはずです」
澄んだ目。冗談を言っているのではない。一緒に眠る、というのは文字通りそれだけのことだと思っているらしい。本当に、知らないのね。
深呼吸を一つ。呆れより先に、胸がきゅっとした。
こんなに綺麗で、こんなに賢いのに。
後宮に来るのに肝心なことは、誰にも教えられてこなかったのだ。――放っておけない。
わたくしは居住まいを正してゆっくりと言葉を選ぶ。
「理珂。ひとつ聞いていい?」
「はい」
先ほど聞こうとしていたことをストレートにぶつける。
「あなたには……後宮の外に、好きな女性はいるの?」
理珂が目を瞬いた。
「……いません」
「恋人も?」
「いません。勉強ばかりしていました」
その答えにゆっくりと頷く。誰かの人生を奪わずに済むと、はっきりした。
「そう」
わたくしはもう一つだけ踏み込む。
「なら……わたくしで、よいの? 後悔はしない?」
理珂は少し考えた。けれどやはり目を逸らさずに答える。
「殿下が望むなら。自分は、学ぶことができます」
真面目な答え。わたくしはそのまっすぐさを受け取った。ほんとうに、純粋。
美しい顔。知性的な瞳。優秀な頭脳。驚くほどの無知。教育が必要ね。
――そして。
理珂なら、避妊薬を作れるかもしれない。そのためにはまずは基礎知識から。
「理珂」
「はい」
「今日は、大切なことを教えるわ」
理珂の目がわずかに輝く。
「大切なこと?」
「ええ」
逃げ場を与えるようにゆっくりと言う。
「子どもが、どうやってできるか」
「……眠れば、では?」
「違うわ」
はっきりと言う。
「もっと複雑で――もっと気持ちのいいこと」
理珂の目が、大きく開く。
「気持ちのいいこと」
「ええ」
立ち上がる。
「今夜は、勉強の時間よ」
「勉強……」
「あなたの得意分野でしょう?」
寝台を示す。
「実地で教えるわ。ただし、嫌なら言いなさい。わたくしは無理強いしない」
理珂は寝台を見てわたくしを見る。
「……実地」
「理論だけじゃ、足りないでしょう?」
少し考えてから頷いた。
「はい。理論だけでは不十分です」
ほんとうに、真面目。
「じゃあ、始めましょうか」
――天才への、性教育。理珂。眺めるだけにするのは、やめたわ。




