2.転生と決意
話は、少し遡る。
額に、ひやりとした筆先が触れていた。硬い椅子。甘く重い香。遠くで重なる衣擦れ。
空調も、キーボードを叩く音もない。
……あら。
ここ、どこ?
さっきまでオフィスにいたはずなのに。
代わりに、甘く重い香が鼻をくすぐった。
遠くで衣擦れの音が幾重にも重なり、澄んだ空気が頬をひんやりと撫でていく。
メイクでもされているのかしら。
そう思った瞬間、体の内側から熱が駆け上がった。
……っ、熱い!
まぶたの裏が真っ赤になり、知らない記憶がなだれ込む。
白い石の宮殿。遠すぎる母。皇姫。華音。
その底から、明かりの落ちたオフィスと、冷めたコーヒーが浮かんだ。机に伏して途切れた意識。
……過労死。
いつもの徹夜のつもりが、朝まで届かなかったらしい。
額から筆が離れ、目を開ける。
鳥と花を刺繍した衣の女官。結い上げた髪には金の飾り。昔の中国めいた光景だけれど、流れ込んだ記憶はそうではないと告げていた。
現代日本のわたくしと、この国で十八年生きた華音。二人分の記憶が、違和感なく重なっている。
――わたくしは女帝の一人娘、華音。いまは次期女帝となる立太子の儀の最中。
椅子から立ち上がる。重い絹が脚へ絡んだが、よろけるわけにはいかない。
白石の広間には、重臣、官吏、女官たちが並んでいた。咳払い一つない。
言うべき言葉は、華音の記憶が知っている。
「わたくしが、皇姫・華音」
声が高い天井へ響く。
「いま、この瞬間より、皇太姫となった」
声は、思ったよりよく通った。
居並ぶ者たちが一斉に膝を折り、衣擦れが波のように広がる。
驚かれた。当然ね。
彼らの知る華音は、従順で扱いやすいお人形。
残念。
中身は、仕事漬けだった女に入れ替わっている。
正面の高座には、母である女帝・華陽陛下がいた。
華音の記憶を探しても、触れ合った場面はほとんどない。いつも遠く、こちらを見ているようで見ていない人だった。
「華音」
女帝が大きく頷く。
「堂々たる姿、まこと次期皇帝として相応しい。感じ入ったぞ」
言い終えた直後、母の目から、ふっと焦点が抜けた。視線がわたくしを通り越し、指先が袖の刺繍をなぞる。
ほんの一瞬で目は戻った。
割れんばかりの拍手が起こる。女帝が褒めれば、命じられずとも全員が拍手をするらしい。
ずいぶん分かりやすい独裁ね。
微笑んだまま、あの一瞬を頭の隅へ置いた。徹夜明けの会議で見た、体だけが席に残った目。
女帝の傍らには、母の二人の夫がいた。
皇配・暁遠。背が高く、穏やかな笑みを浮かべた第一の夫。血はつながらないが、華音の記憶では数少ない優しい人だ。
その少し後ろに、二位正夫・律音。わたくしの父。整った顔立ちより、控えめな立ち姿のほうが印象に残る。それでも、わたくしを見る目は柔らかかった。
皇配が小さく頷いた。それだけで肩の力が抜ける。
母より、よほど親しみがあるわね。
広間の端、柱の陰に若い男が一人立っていた。黒髪を無造作に束ね、祝いの場には似つかわしくない、何かを諦めた目をしている。
暁雲。皇配の息子で、わたくしの異父兄。
兄が、いたのね。
ほとんど言葉を交わした記憶もない兄が。
額に描かれたのは陽輝印。初代女帝・陽輝天の血を継ぐ証で、これから毎朝描かれるらしい。母の額にも同じ橙色の太陽がある。
覚えることが多い国ね。
でも、締め切り直前に仕様変更されるよりはましだ。
やがて、儀式の終わりを告げる鐘が、宮殿の奥まで低く響いた。
わたくしにとっては、この世界で生きる始まりの鐘だった。
その後の生活は、驚くほど快適だった。食事は温かく、衣は贅沢で、執務は顔合わせと形式的な報告書の確認が中心。
楽勝。
前世であれだけ働いたのだから、このくらいのご褒美はあっていい。
そう思い始めた頃、母から成人祝いが届いた。
漆塗りの細長い箱だった。蓋を開けると、絹の上に煙管が一本収まっている。
銀の吸い口には細かな彫り。柄は艶のある黒。手に取ると金属がひやりと指先へ伝わった。
きれい。
でも。
煙管?
「老太太。これは、どう使うものなの」
控えていた老太太に訊ねる。
幼い頃から仕えてくれている古参の侍女だ。
後宮のことは、この人に聞くのがいちばん早い。
「刻んだ煙草を火皿で焚いて吸われるものでございます。普通のお煙草でございますが……その、後宮では」
老太太が珍しく言葉を探した。
「閨で、雰囲気をよくするお薬を吸う際にも使われます」
つまり。
媚薬。
なるほど、成人祝いだわ。
成人したなら次は後継ぎ。早く夫を選べという圧が、漆塗りの箱に入って届いたのね。
包装だけは上品だわ。
煙管は箱へ戻した。煙草も媚薬も、今のところ不要。棚の奥で眠っていてもらいましょう。
ふと、気になった。
「お母様は、お煙草をお吸いになるのかしら」
「そうですね。……陛下は、お煙草は好まれませんね」
返事までの間が妙に長く、老太太は目を合わせない。
……媚薬オンリーかい。
口には出さない。偉いわ、わたくし。
そんな成人祝いはあったけれど、要するに、わたくしは楽園へ来たのかもしれない。
そう思いかけた、ある朝。
母に呼ばれた。
「後宮を整えよ」
指示は、それだけだった。理由は語られない。
でも、それがこの国では当然なのだと、華音の記憶が知っている。
女帝にとって後宮は、皇統を守るための場所。
女児を産み、血を次へつなげるため、複数の夫を置く。
不義を避けるため女性は入れず、集められるのは寵を競う夫たちと、後宮を管理する宦官たち。
理屈は分かる。
でも、制度の圧が強い。
――それでも、このときのわたくしは思っていた。
ここは楽園だ、と。
そして夫候補たちとの面談が始まり、前世の記憶がつながった。
ここは『陽輝帝国物語』の世界。わたくしは、母とともに処刑される悪役。
四人の名を告げた夜、寝台の端でしばらく動けなかった。甘い香の中に、その二文字だけが重く落ちる。
処刑。
物語の結末で、母とわたくしは民衆の前へ引き出され、首を落とされる。
聖典の母は「暗黒女帝」。残虐で猜疑心が深い暴君として描かれ、なぜそうなったのかは空白のままだった。
読んでいた頃は気にも留めなかった。倒される側の事情なんて、物語には要らないから。
わたくし自身は、もっとひどい。
聖典の華音に、台詞らしい台詞はなかった。母の隣に立ち、母の隣で首を落とされる。それだけの役。夫を三人選んだことも、颯真たちの名前と一緒に、一行で済まされていたはず。
名前のある、モブ。
だから、わたくしについての頁は薄い。日付ひとつ、確かめようがない。
今は、その空白にわたくしの首がある。
立太子で見た、焦点の抜けた母の目も、聖典にはなかった。
――冗談じゃない。
怖い。当たり前だ。けれど、怖がるだけでは何も変わらない。
前世のわたくしは、追い込まれたときほど考えた。
期限。原因。使える情報。動かせる人。
幸い、こちらには聖典という不完全ながらも攻略本がある。
クーデターの引き金は何だった?
村だ。
主人公の瑞華と、その仲間の烈央が暮らす村。
その村が女帝の命令で焼かれ、民衆の怒りが燃え上がり、クーデターが起きる。
そして母とわたくしは処刑される。
なら、焼かせなければいい。
時期は立太子から約二か月後。場所は南方の小さな村。それ以上は聖典になかった。
二か月。短い。
一人では探せない。情報を持ち、人を動かせる者が要る。
「――宦官長を呼んでちょうだい」
ほどなく、静かな足音が近づいた。
現れたのは宦官長・静岳。四十歳前後。引き締まった体に隙のない所作。冷たいほど整った顔の奥に、わずかな温かみがある。母の代から後宮を預かり、華音にも誠実だった数少ない人だ。
「お呼びと伺いました、殿下」
低く落ち着いた声だった。
「静岳。座って」
「……は」
わずかに戸惑いながらも、円卓を挟んで座る。穏やかな目に油断はなかった。
「単刀直入に言うわ」
「はい」
「南方にある、瑞華という娘と烈央という青年の暮らす村を探して。村を離れているなら、二人の居場所でもいい」
静岳の表情が、わずかに変わった。
「……どのような理由でございましょう」
「いまは言えない。けれど、二か月のうちに見つけなければ、取り返しのつかないことが起きる」
言えないことを、嘘で飾るつもりはなかった。
静岳は黙った。灯火が小さく揺れ、窓の外では虫が鳴いている。
「殿下」
やがて静かに口を開いた。
「立太子の儀より、殿下は変わられました。以前とは別の方のように」
気づかれている。けれど、転生したとは言えない。
「変わったのよ、わたくしは。だから今、動かなければならない」
静岳の目をまっすぐ見た。
「力を貸して」
長い沈黙のあと、静岳は深く頭を下げた。
「承知いたしました。私は、殿下がお変わりになったこと自体を……好ましく思っております。お調べいたします」
胸につかえていた息が抜ける。
「ありがとう、静岳」
「ただし」
静岳が顔を上げる。
「いずれ理由を、お聞かせいただけるものと信じております」
「ええ。必ず」
静岳は一礼し、静かに部屋を出ていった。
一人になって両手を見る。震えは止まっていた。
二か月。最初の手は打った。
次は、味方を作る。
後宮には四人の夫候補がいる。今は名前を選んだだけの他人でも、夫なら誰より近くに置ける。
まずは颯真。いちばん真っ直ぐな彼から。
さあ。後宮で、生き延びる。




