表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/10

第42話「深層のにおい」

冷蔵庫の前で摩天ちゃんが待っていた。


「今日は深層に行く」と摩天ちゃんが言った。


「深層、というのは」


「今まで入った区画より奥だ。食材の質が変わる。においも変わる」


好代はうなずいた。「わかりました」


「一つ確認する」と摩天ちゃんが言った。「千姿になってから、においの感知範囲が変わったか」


「変わりました。前より広くなったと思います」


摩天ちゃんが少し間を置いた。「それが今日、役に立つかもしれない。そして——役に立たないものが見えるかもしれない」


「役に立たないもの、とは」


「行けばわかる」と摩天ちゃんが言って、冷蔵庫の扉を開けた。




第一章「奥の区画」


◆深層へ


いつものダンジョンより深く入った。


発光結晶の色が変わった。青みがかった光から、赤みがかった光になった。壁の石が変わった。圧縮されたような、密度が高い感触の石だ。


においが変わった。


食材のにおい、魔獣のにおい——それらはある。でも今日は、それとは別のにおいが混ざっていた。


ずっと古いにおいだ。食材のにおいよりずっと前からここにあるにおい。


「……においが変わりました。食材とは別の古いにおいがします」


「わかるか」と摩天ちゃんが言った。前を歩きながら。


「まだ何かはわかりません。でも、とても古い」


「このあたりから先が、今日の目的の区画だ」




◆魔獣との遭遇


三十分ほど進んだところで、においが動いた。


「……右前方、五十メートル。大型です。こちらに向かっています」


摩天ちゃんが剣を抜いた。


来た。


体長八メートル以上の個体だった。全身が黒い甲殻に覆われていて、動くたびに石を砕く音がした。頭部が四つに分かれていて、それぞれが別々の方向を向いていた。


においを確認した。「……体表全体が均質に硬い。弱点が見当たらないです」


「この種はそうだ」と摩天ちゃんが言った。「持久戦になる」


魔獣が突っ込んできた。


摩天ちゃんが動いた——その瞬間だった。




◆完全強化モード


体が変わった。


好代の目には、摩天ちゃんの輪郭が一瞬にじんで見えた。次の瞬間、摩天ちゃんの全身から光が出ていた。


白銀の光ではなかった。七色がかった、虹のような光だった。腕に、肩に、足に、光の層が積み重なっていくのが見えた。魔力が皮膚の外側で固まっていく感触のにおいがした。強化。体の全てを押し上げる——そういうにおいだ。


剣が変わった。


鞘から抜いた一本の剣が、光を纏い始めた。その周囲に、光でできた大剣が重なって現れた。本物の剣より一回り大きい幻影の刃が、実体の剣と完全に重なって、一つになった。幻影は揺れなかった。固定されていた。刃を握る力が二重になっている——そういうにおいだった。


それだけではなかった。


摩天ちゃんの体の周りで、何かが回り続けていた。薄い光の膜だ。攻撃が届いた瞬間に、その膜が攻撃を元の方向へ弾き返す準備をしている——鏡のような、でも鏡より速い何かが、常に展開されている。


透明化はにおいで気づいた。摩天ちゃんの気配が薄くなった時、においが消えない。気配は消えても、においは残る。その違いが、好代には見えた。


「……七色の光が全身に積み重なって、剣に大きな幻影が重なっています。光の膜が展開されています」とインカムに言った。「全部同時に動いています」


魔獣が突っ込んできた。


摩天ちゃんが消えた。


一歩で消えた。短距離のテレポートだ。においが一瞬、二つに分かれた——移動前の残像のにおいと、移動後のにおいが、一瞬だけ別の場所に存在した。魔獣の突進が空を切った。


着地した瞬間に剣が振られた。


甲殻に当たった。


通らなかった。剣が弾かれた。甲高い金属音が広場に響いた。でも——弾かれた衝撃で、摩天ちゃんの体が揺れなかった。虹色の光の層が衝撃を吸収していた。強化の層が、弾かれた力を受け止めていた。


「……体表全体が硬いです——でも、動いた瞬間だけ」と好代は言った。「腹部の継ぎ目が動くたびに少し開きます。五ヶ所あります。一番下が最も薄い」


摩天ちゃんが動いた。


テレポートで魔獣の腹部へ一気に回り込んだ。七色の光を纏った幻影の大剣が、実体の剣と重なったまま、腹部の継ぎ目に向かって叩き込まれた。


通った。


個体が鳴いた。石を削るような音がした。


光の膜が反射した——魔獣の反撃の爪が、発射元に向かって弾き返された。三分後、個体が止まった。




◆休憩


壁にもたれた。


摩天ちゃんの虹色の光が、少しずつ薄くなっていった。呼吸が整うにつれて光の層が収まっていった。制服の腕に、甲殻の破片が当たって薄い傷が入っていた。


「……怪我があります」


「大浴場で治る。問題ない」


少し間があった。


「今日の感知は良かった」と摩天ちゃんが言った。「継ぎ目の情報がなければ倍かかった」


「千姿になってから、密度を読む精度が上がったみたいです」


「……記録する」


好代はにおいを確認し続けた。


古いにおいがまだ来ていた。食材のにおいの奥に、ずっとある。


「……あのにおいが気になります。食材のにおいとは全然違う」


摩天ちゃんが少し間を置いた。「……届けられなかった世界線の残滓区画がある。もう少し奥だ」


「届けられなかった世界線、ですか」


「バーガーとして完成する前に消えた世界線だ。ぱんでむに来たが、バーガーになりきれなかった」


好代はそのにおいを辿った。


「……行きますか」


摩天ちゃんが少し考えてから「行く」と言った。




第二章「残滓区画」


◆においが変わった


さらに十分ほど進むと、においが静かになった。


食材のにおいが消えた。


代わりに——静かなにおいが来た。圧縮されているが、食材とは全然違う。世界線の残骸のにおいだ。でも——終わりきっていない。バーガーになりきれなかった、という感触のにおいだ。


通路の先が少し広くなっていた。広間のような空間だった。


発光結晶が他の区画より多く埋まっていた。その赤みがかった光の中に——何かが漂っていた。


目では見えなかった。でもにおいでわかった。ここに世界線が積み重なっている。バーガーになれなかった世界線が、形を持てないまま漂い続けている。


「……ここです」


摩天ちゃんが広間を見た。「……何も見えないが」


「においがします。世界線のにおいです。終わったけどバーガーになれなかった世界線のにおいが、たくさんあります」




◆人のにおい


においを辿った。ひとつひとつを確認していった。


世界線のにおい。広大な宇宙のにおい。星のにおい。土のにおい。空気のにおい。


そして——人のにおいがした。


「……摩天さん」


「何だ」


「人のにおいがします」


摩天ちゃんが止まった。「誰もいない。空白区画だ」


「いません。でも——いた、は残っています」


好代はそのにおいを丁寧に辿った。


人が生きていたにおい。笑ったにおい。泣いたにおい。食事のにおい。好きだったものがあったにおい。


全部が、バーガーになれなかった世界線の残滓の中に、かすかに残っていた。


「……この世界線に、人がいました」と好代は言った。声が少し静かになった。「その人たちのにおいが、まだ残っています」


摩天ちゃんが広間を見た。何も見えない。でも、何かを考えているような目をしていた。




◆「勿体ない」


しばらく、二人で広間にいた。


摩天ちゃんが腕を組んでいた。


「……摩天さん」


「何だ」


「ここの記録を、届けられますか」


「何を届ける」


「バーガーになりきれなかった世界線にも、人がいたということを——どこかに記録できますか」


摩天ちゃんが少し間を置いた。


「……グリマスに頼む」と言った。


「秩序ちゃんではないですか」


「秩序は、ぱんでむの中の記録を担当している」と摩天ちゃんが言った。「バーガーになれなかった世界線の記録——ぱんでむの外縁の、届かなかったものの記録は、グリマスの管轄だ。あいつは外の記録を集めている」


「そうですか。知りませんでした」


「……私も頼んだことがなかった」と摩天ちゃんが言った。「必要がないと思っていたから」


好代は少し考えた。「摩天さん」


「何だ」


「摩天さんは「届けたことがない」ですか。「届けられない」ですか」


摩天ちゃんが止まった。


長い間があった。


「……私は、食材を取ってくる。届けるのは別の者がやる、と思ってきた」


「そうですか」


「届けるという行為が、私の仕事だと思っていなかった」


「一緒に届けてみますか」と好代は言った。


「……私が届けるものが何かわからない」


「摩天さんが「美味しそう」と思ったことを教えてください。それが届けるものだと思います」


摩天ちゃんが広間を見渡した。


「……私には全部、美味しそうに見える。どの食材も、どの世界線も。全部が素材として来る」


「でも」と好代は言った。「今日は、それと違う感触がありましたか」


摩天ちゃんが少し黙った。


「……ある」と言った。「今日、ここに来て——違う感触が来た」


「何の感触ですか」


「……勿体ない」と摩天ちゃんが言った。


静かな言葉だった。


「食材として来なかった。ただ——ここにいた人たちのにおいが消えていくことが、勿体ない、と来た」


好代はその言葉を受け取った。




第三章「グリマスへ」


◆帰り際


帰り道を歩きながら、摩天ちゃんがインカムを取り出した。


「グリマス」


「はい、何でしょうか」とグリマスの声が来た。


「ダンジョン深層の残滓区画に、バーガーになれなかった世界線の痕跡がある。人がいたにおいが残っている。記録してほしい」


グリマスが少し間を置いた。「……摩天さんから、記録の依頼を受けたのは初めてです」


「初めてだ」と摩天ちゃんが言った。「頼んだことがなかった。でも——ここは外縁の記録だ。秩序ではなくあなたの管轄だと思った」


「……正しい判断です」とグリマスが言った。「外縁の、届かなかった記録は私が担当しています。承りました。座標を教えてください」


摩天ちゃんが座標を伝えた。


インカムを切った後、摩天ちゃんが少し間を置いた。


「……届けたことがなかった、が正確だった」と摩天ちゃんが言った。「できないのではなく、やっていなかっただけだった」


「そうだと思います」


「……今日、確認した」




【クルー視点モノローグ】

────────────────

**摩天——五十七日目**


「届けたことがなかった」が正確だった。


できないと思っていた。でも今日確認した。できないのではなく、やっていなかっただけだった。


「勿体ない」という感触が来た。


今まで「美味しそう」か「美味しくなさそう」の二択で来ていたものが、今日は違う感触で来た。あの残滓区画の人たちのにおいが消えていくことが——食材として来なかった。勿体ない、として来た。


グリマスに記録を頼んだ。頼んだことがなかった。でも頼んだ。


秩序ではなくグリマスを選んだのは、外縁の記録はグリマスの管轄だと知っていたからだ。ダンジョンを長く巡回しているから、その区別はわかっていた。ただ——頼もうと思ったことがなかっただけだ。


好代が「一緒に届けてみますか」と言った。


その時、私が届けるものが何かわかった。


「勿体ない」と思ったもの。それが、私が届けるものだ。


今日の記録:「勿体ない、という感触が来た。初めて。記録する。」



────────────────

**グリマス——五十七日目**


摩天から記録の依頼が来た。


初めてのことだ。


摩天はダンジョンを巡回し、食材を処理する。記録を求めることがなかった。


でも今日、届けられなかった世界線の記録を依頼してきた。


「外縁の記録はあなたの管轄だと思った」と言った。


正しい。私は外縁の、届かなかったものの記録を集めている。秩序はぱんでむ内の記録担当だ。摩天はその区別を知っていた。ただ頼まなかっただけだった。


記録した。


座標を入れた。においの記録を添付した。「五十七日目。深層残滓区画。人のにおいの残滓あり。バーガーになれなかった世界線。記録者:摩天、好代」


……摩天が記録を求めた。これも記録する。「摩天、初めて届けることを求めた」


────────────────



【エピローグ】五十七日目の夜


夜、廊下を歩いた。


今日のダンジョンのにおいがまだ来ていた。


残滓区画のにおい。古い世界線のにおい。人がいたにおいの残滓。それから——摩天ちゃんが「勿体ない」と言った時のにおい。


グリマスが記録した。


記録された、ということは——残る。


バーガーになれなかった世界線が残ったわけではない。でもそこに人がいたという事実が、記録として残った。


それが届けることの一つの形だ。


摩天ちゃんが「勿体ない」を持ち始めた。


前が広い。


——それはずっと変わらない。




**◆ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+1ヶ所+外縁部2ヶ所(五十七日目・変化なし)**


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ