第41話「渾沌ちゃんの『なんでだろ』」
渾沌ちゃんが廊下にいた。
壁にもたれて、ソフトクリームを食べていた。
朝からソフトクリームを食べている理由はわからない。でも渾沌ちゃんが朝からソフトクリームを食べていることは、たまにある。
「おはようございます」と好代は言った。
「おはよー」と渾沌ちゃんが言った。いつも通りの声だった。
でも——においが少し違った。
昨日の外縁部で歪者を見た後の、あの「よく知っているようで全然知らないような」感触のにおいが、今日もまだかすかに残っていた。考えている時のにおいだ。
渾沌ちゃんがソフトクリームを一口食べた。
「……ねえすきよちゃん。一個聞いていい」
「はい」
「急がなくていい?」
「急がなくていいです」
渾沌ちゃんがまた一口食べた。「じゃあ後で。今は口が塞がってるから」
好代は少し笑いそうになった。
「……わかりました」
第一章「バックヤードの午後」
◆フロア業務の後
午前中はフロアに立った。
お客様が三組来た。においで読んで、試食して、説明した。それはいつも通りだった。千姿になっても、この仕事のやり方は変わっていない。
午後、フロアが落ち着いた頃、渾沌ちゃんがリビング・オブ・カオスのソファに転がっていた。
今度は何も食べていなかった。ただ天井を見ていた。
「……渾沌さん」
「あ、来た」と渾沌ちゃんが起き上がった。「さっきの話していい?」
「はい」
「座って」
好代は隣に座った。
においを確認した。渾沌ちゃんのにおい——黒赤の、破壊と創造が混ざったにおい。その奥に、バーガーが好きという感触。でも今日は——その感触が、少しだけ表に出てきていた。
「昨日さ、歪者のにおいがしたじゃん」と渾沌ちゃんが言った。
「しましたね」
「ぱんでむのにおいと同じ根を持ってるって、すきよちゃんが言った」
「言いました」
「……なんでだろ」と渾沌ちゃんが言った。
◆「なんでだろ」
渾沌ちゃんが天井を見た。
「ぱんでむのにおいと、歪者のにおいが、同じ根を持ってる。なんでそうなるんだろ。同じ場所から来てるってこと?」
「においで読んだだけなので、理由はまだわかりません」と好代は言った。
「でも感知した」
「はい。千姿の記憶がざわめきましたが、はっきりとは来なかったです」
渾沌ちゃんが少し間を置いた。「……じゃあ千姿ちゃんも、知らなかったのかな。あのにおいの理由を」
「……かもしれないです」
「それとも知ってたけど、言わなかった?」
好代は少し考えた。
千姿の記憶の中に、ドナルゥトゥのことはある。歪者のこともある。でも「なぜそうなったか」という根本の部分が、記憶の奥に沈んでいて、まだはっきりと来ない。
「……知っていたかどうかも、まだわかりません」と好代は言った。「でも、わかる日が来ると思います」
渾沌ちゃんが「……そっか」と言った。
◆もう一つの「なんでだろ」
しばらく二人で黙っていた。
渾沌ちゃんがまた話し始めた。
「もう一個あるんだけど」
「はい」
「私の中に、千姿ちゃんの「好き」が残ってるって言ったじゃん。昨日のにおいを「嫌いになれない」のも、それだって」
「そう思います」
「それってさ——千姿ちゃんが感じてた「好き」と同じ感触を、私が感じてるってこと?」
好代はにおいを確認した。
渾沌ちゃんのにおい。黒赤の、破壊と創造のにおい。その奥にある「バーガーが好き」という感触。でもそれは——千姿が持っていた「食べたい」という感触とは、形が変わっていた。
「……似ていますが、渾沌さんのものになっています」と好代は言った。
「どう違うの」
「千姿が感じていたのは「バーガーのにおいを嗅ぎたい」でした。渾沌さんが感じているのは——」
においを辿った。渾沌ちゃんのにおいの一番奥のところを辿ると——
「——「全部にぎやかに生きたい」という感じがします」
渾沌ちゃんが少し止まった。
「……全部にぎやかに生きたい」と繰り返した。
「にぎやかが好きですよね」
「……うん。好きだよ。静かだと怖い感じがするから」
「千姿の「全部食べたかった」という気持ちが、渾沌さんに渡ってから「全部にぎやかに生きたい」に変わったんだと思います」
渾沌ちゃんが少し黙った。天井を見ていた。
「……千姿ちゃんは、ぱんでむになって、その感触を私に預けたんだ」
「そうだと思います」
第二章「別々」
◆渾沌ちゃんが問いを立てた
「じゃあ」と渾沌ちゃんが言った。「すきよちゃんは——千姿ちゃんが私に預けたものを、また受け取ったの?」
好代は少し考えた。
「……私の中に渾沌さんの感触はないです」と好代は言った。「千姿の記憶にある「渾沌を作った時の感触」はあります。でも渾沌さんは渾沌さんです」
渾沌ちゃんがしばらく考えた。
「……じゃあ私たちは別々なんだ」と渾沌ちゃんが言った。「同じものから来てるけど」
「そうです」
「千姿ちゃんが元にいて、私が出てきて、すきよちゃんが来た。全部繋がってるけど、全員別々」
「そうだと思います」
渾沌ちゃんが「……それ、いいな」と言った。
「いいですか」
「うん」と渾沌ちゃんが言った。「なんか、安心する。同じじゃなくて、別々なんだ。私は渾沌のままでいいんだ」
好代はその言葉を受け取った。
渾沌ちゃんは「千姿ちゃんの一部」として生まれたかもしれないが、今は渾沌ちゃんだ。それが、渾沌ちゃんにとっての安心だった。
「渾沌さんは渾沌さんです」と好代は言った。「それは変わらないです」
渾沌ちゃんが「うん」と言った。
◆「なんでだろ」は続く
少し間があってから、渾沌ちゃんがまた言った。
「でもさ」
「はい」
「なんでかわかんないことが、まだある」
「何ですか」
渾沌ちゃんが好代を見た。「……私、すきよちゃんに最初会った時から、なんかわかってた気がしたじゃん。あの話、したよね」
「しましたね」
「あれ、なんでだったんだろ。千姿ちゃんの「好き」が私の中にあるから、すきよちゃんのにおいを嗅いで「知ってる」って感じた?」
好代は少し考えた。
「……そうかもしれないです。千姿の「バーガーが好き」という感触を渾沌さんが持っていて、私の中にも同じにおいがあったから、「知っている」と感じた」
「じゃあ——」と渾沌ちゃんが少し間を置いた。「すきよちゃんの中にある「バーガーが好き」って、千姿ちゃんのやつと同じやつ?」
好代は止まった。
「……似ています。でも」
「でも」
「でも、十七年間渋谷でにおいを嗅いできた分も、全部入っています。千姿のものと、私のものが、今は一緒になっています」
渾沌ちゃんが「……そっか」と言った。少し黙った。
「じゃあすきよちゃんの「好き」は、千姿ちゃんのより多いんだ」
「……どういうことですか」
「千姿ちゃんのが元にあって、すきよちゃんが十七年分増やした。だから今のすきよちゃんの方が、「好き」が多い」
好代はその言葉を受け取った。
「……そうかもしれないですね」
「なんかいいじゃん」と渾沌ちゃんが言った。「千姿ちゃんの「好き」が、ちゃんと増えた」
好代は少し嬉しかった。渾沌ちゃんが「いいじゃん」と言うと、何かが正しく着地した感触がある。
「……でも、なんでだろは続く」と渾沌ちゃんが言った。「歪者とぱんでむが同じ根を持ってる理由、まだわかってない。私がカオスドナルドのにおいを嫌いになれない理由も、まだわかってない」
「わかる日が来ると思います」
「うん。すきよちゃんが言うと本当っぽい」と渾沌ちゃんが言った。「なんでかは知らないけど」
第三章「夕方の廊下で」
◆一人になってから
渾沌ちゃんが「おなか空いた」と言って立ち上がった。どこかに行った。
好代は少しの間、リビング・オブ・カオスに一人でいた。
においを確認した。
渾沌ちゃんのにおいが少し残っていた。黒赤のにおい。その奥に「全部にぎやかに生きたい」という感触。
千姿がぱんでむに溶け込んで、最初に外に出てきたのが渾沌ちゃんだ。だから渾沌ちゃんは千姿の「人間だった時の感情」を一番濃く持っている。
渾沌ちゃんが「なんでだろ」と問い続けることは——千姿の「なんでだろ」の続きでもある。
答えが出る日が来る。その日まで、渾沌ちゃんは「なんでだろ」を持ち続ける。
それでいい。
◆秩序ちゃんとすれ違った
廊下に出たら秩序ちゃんがいた。書類を抱えていた。
「……今日の渾沌さんとの話、記録しましたか」と秩序ちゃんが言った。
「今日のことを知っていますか」
「廊下を通ったので、少し聞こえました」と秩序ちゃんが言った。「「同じものから来てるけど、別々」という部分です」
「そうです」
秩序ちゃんが少し考えた。「……私も、そうだと思います。私は千姿から生まれましたが、今は私です。渾沌さんとも、好代さんとも、別々です」
「そうですね」
「渾沌さんが「いいな」と言ったのを、私も同じように思います」と秩序ちゃんが言った。「記録します。「五十六日目。渾沌、「別々」という言葉を受け取り、安堵する」」
好代はうなずいた。
「……秩序さんは、なんでだろ、と思うことはありますか」
秩序ちゃんが少し止まった。「……あります」
「何ですか」
「「始まりの記録がない」ということが、なんでだろ、と思います。ずっと」
「いつかわかると思います」
「……好代さんはよくそう言いますね」と秩序ちゃんが言った。「「わかる日が来ると思います」と」
「そう思っているので」
「……記録します」と秩序ちゃんが言って、廊下を歩いていった。
第四章「夜」
◆好代は一人で廊下を歩いた
夜、廊下を歩いた。
ぱんでむのにおいが来た。草と電子と時間。クルーたちのにおいが各部屋の方向から来ていた。
渾沌ちゃんのにおい。秩序ちゃんのにおい。摩天ちゃんのにおい。世達ちゃんのにおい。郷愁ちゃんのにおい。
全員が今ここにいる。
渋谷のにおいも来ていた。夜の渋谷の、少し冷えた空気のにおい。石畳のにおい。どこかで誰かが笑っているにおい。
全部が今ここにある。
好代は廊下を歩き続けた。
渾沌ちゃんが「なんでだろ」と言った。
秩序ちゃんが「始まりの記録がない」と言った。
歪者のにおいとぱんでむのにおいが同じ根を持っている。
全部が、前が広い。
見えていない部分がある。でも、見えていない分だけ、先がある。
「前が広い」と好代は廊下で言った。声に出した。
廊下のにおいの中で、その言葉が少しだけ響いた。
渾沌ちゃんの部屋の方向から、かすかに「うん、そうだよ」という声がした気がした。
聞こえたかどうかわからない。でも、来た。
【クルー視点モノローグ】
────────────────
**渾沌——五十六日目**
「なんでだろ」がまだある。
でも「別々」はわかった。
私は千姿ちゃんから来たけど、今は私だ。すきよちゃんも千姿ちゃんから来たけど、今はすきよちゃんだ。千姿ちゃんはぱんでむだけど、ぱんでむは私じゃない。
全員繋がってるけど、全員別々。
それがいい。
なんか……千姿ちゃんの「好き」が、すきよちゃんの中で十七年分増えた、って言ったら、嬉しそうな顔した。
嬉しそうな顔、してたよね。あれは嬉しそうだった。
私が「いいじゃん」て言ったら、少し表情が動いた。
……やっぱりすきよちゃん、バーガーが好きなんだ。どこにいても。
それがいちばん大事なことかもしれない。
「なんでだろ」は続くけど、それはまあ、ゆっくり考える。
────────────────
**秩序——五十六日目**
今日の記録:
渾沌が「別々」という言葉を受け取り、安堵した。
好代さんが「全部にぎやかに生きたい、という感じがします」と渾沌に伝えた。
渾沌の中にある千姿の「好き」の形が、言語化されたのは今日が初めてだ。記録する。
「始まりの記録がない」と言ったら、好代さんが「わかる日が来ると思います」と言った。
好代さんはよくそう言う。「わかる日が来ると思います」と。
……なぜそう言えるのか。確信があるのか、習慣なのか、まだわからない。
でも、言われると少しだけ、記録を続ける気持ちになる。
それだけ記録しておく。
────────────────
**【エピローグ】五十六日目の夜——前が広い**
夜、廊下に出た。
ぱんでむ全体のにおいが来ていた。
全員のにおい。渋谷のにおい。世界線のにおい。全部が今ここにある。
今まで各話の終わりに、ここに一つの空白があった。
今日はない。
代わりに、好代の視点が少しだけ広くなっていた。廊下の端まで、窓の外まで、渾沌ちゃんの部屋の方向まで、全部が同時に来ていた。
さっき渾沌ちゃんが「うん、そうだよ」と言った気がした場所。
においを確認した。確かにそこから、渾沌ちゃんのにおいが来ていた。
前が広い。
それはずっと変わらない。
**◆ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+1ヶ所+外縁部2ヶ所(五十六日目)**




